ブラウン・ランドーンの方法
 人によって、これを始めると眠くなるタイプと、活力が増すタイプがある。後者のタイプでは、朝これをおこなったほうが、一日の活動のために有利かもしれない。すぐ眠くなるタイプの人は、就寝前にやるとよいだろう。
 特に、動作がこっけいなことがある。それでも、構わず衝動に任せればよい。どんな動作でも、その人の過去の生活の歪みを直す深い意味をもっているからだ。


窓ガラスをこわした少年

 ブラウン・ランドーン博士は、かれが発見した「方法」を以上のように説明したあとで、自分自身の少年時代を回顧して次のように書いている。
 「子供のころ私が或る日やったことに注目して下さい。私は生まれてから17年間というもの、ほとんど車椅子に坐りづめの生活をした病人でした。
 私は、ほんの時たま、すこし歩行するだけでした。
 ある日、7才のころでしたが、私は自分の小さい拳をふり上げて、窓ガラスを一枚一枚叩きこわしました。そのガラスはちょっと壊れにくいものでした。 大人たちは、この子には破壊性があると言いましたが、私は自分がどうしてそんなことをするのか、どうしても解らなかったのです。
 しかし、今になって、何が私をそういう行動に駆り立てたかよくわかります!
 私の状態として、窓ガラスをこわすことは、それ自体善くも悪くもなかったのです。私の魂は行動を切望していたのです。
 そういう子供をむりやりに寝台にしばりつけて、私のエネルギーを抑圧していた人たちがまちがっていたのです。
 窓ガラスをこわすという行動によって、私のなかのエネルギーは爆発したのですが、当時の私にはこの“爆発”が必要だったのです。それは、私に“ぼくだって力があるんだ”ということを悟らせるのに必要な行動だったのです。ところが医者や看護婦たちは、みんな、私に健康になる力がないと決めこんでいました。もう数ヶ月のいのちしかない病人だと信じきっていたのです。」
 もちろん、医者たちは悪意でそうしたのではなかったが、この病気の子供を消耗から守るには、いっさい何もさせないほうがいいという方針を取っていたのだ。
 その当時、「無意識による自己解放」という道を示してくれる人があったら、10年早く健康体にもどったのに、とランドーンは嘆いている。
 この事件後10年、17才のとき、ランドーンはやはり医者の目ではもう3ヶ月と持つまいという病弱体であった。「3ヶ月先には・・・」−−−こっけいなことに、子供の時からずっと、医者の診断は毎月同じだったのだ。


波にさからうな

 あなたの魂が、外的筋肉に「休息」を命ずることがあるかもしれない。ランドーンの方法を始めても、幾週間、幾月も、なにも起こらないかもしれない。
 「気にかける必要はない」とランドーンは注意している。そういう人の場合、静止が最も必要な「表現」だからである。
 人によっては、烈しい運動が或る期間つづいたあとで、突然「凪ぎ」の状態がくるかもしれない。それは何時間も何日も、いや何週間もつづくかもしれない。それは内部の「成長」のために必要な貴重な時である。植物の冬眠のごときものである。
 ある種の運動がある期間つづいて、そのあと静止状態に入ったとしたら、それは運動によって或る部位の「内的筋肉」が解放され、その筋肉に関連する心経群が「冬眠」を始め、内的成長が目にみえぬ所でおこなわれているということなのである。
 休止期が終わって、また別の運動が必要なら、それは必ずやって来るだろう!
 いつ運動が必要になるか、それはあなたの表面意識が関知するところではない。魂はすべてを知っている。運動の有無、その時期、全部まかせたらよい。


応えよ、さらば・・・・・

 ランドーン博士は、この書物をあらわした時に、すでに三世代にわたってこの「方法」を実行してきたと書いている。そして、この先、息のつづく限りこれを続けるつもりだと述べている。
 これは単なる「くつろぎ」の術ではない。内部から扉を叩くものに応えるとき、それは肉体の健康をもたらすだけではなく、実生活でどういうことをしたらよいか、その道も示してくれ、その順序と方法を教えるものである。
 まず自由感が心身にみちてくる。次に、心のなかの固定観念が解放され、からだじゅうがしなやかになってくる。新しい活動が目ざめてくる。心身が若返ってくる。
 過去の粕が洗い清められ、新しい人生がひらけてくる。子供のように新鮮なまなこで、蘇った人生を眺めなおし、喜びが心に溢れてくる。分離感がなくなり、すべてが一つになる。
 セックスの泉も、ふたたび脈々たる活力をもって、湧き出すであろう。快楽追求の具として低い位置にあったセックスが、高い立場で再び活躍し出す。それは、

(1) 全身の細胞が、聖なる性エネルギーの力を必要としているため、であろうし、
(2) 他人との交渉において積極性が足りなかったのを補うため、でもあり、
(3) すべて創造的能力に欠け、新しいアイディアや理想を創り出す力がなかったため、でもある。または、
(4) セックスを非難することをやめ、性衝動を神から注がれる生命力として再認識し直す必要があったからである。

 性にかぎらず、魂に属するすべてのものを非難すれば、それだけあなたは神から自分を切り離すことになる。
 神が“すべてのすべて”である以上、神の創りたもうものは、ことごとく善であるべきはずなのだ!
 また、今まで経験もしなかった新しい「愛」の感情が、怒涛のようにあなたの胸に押寄せてくるかもしれない。
 それは近親者や知人だけに注がれる愛であはなく、かぎりなくひろがる大きな愛、キリストの愛であることにも、気づくであろう。
 さらに、霊の光耀とも名づけるべき「光の意識」が生まれるかもしれない、とランドーンは述べている。
 あなたはやがて肉体にとらわれぬ世界に出て、空間と時間をこえ、過去のあらゆる時代に生を享けた偉大な魂たちと、「言葉をこえた交流」の体験に入るであろう。あなたは過去の無数の聖者たちによって、直接導かれ、教えられ、護られるようになる!
 そしてついには、神と一体化融合する最高神秘体験にも入りうるのである。
 ランドーンの分け入った世界は、限りなく深く高いものであった。
                          −1960年6月30日 新潟三条の旅宿にて脱稿ー
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