1 水中翼船
 この本は『天国と地獄』(名古屋市港区東海通り5−108 東海出版株式会社発行送共200円)につづいて書き出したものである。
 その終章がやはり“水中翼船”であった。終章の題をそのまま初章に使うというのは、私のAZ原理の具象化である。ゴールがそのままスタートに−−これを天才山岸巳代蔵はゴール・イン・スタートという新造語で表現したが、これもAZと同じである。
 私の本は万人が抵抗なく読める不思議な魅力を持っている。その魅力がどこにあるかという謎は、この本を読みもて行くうちにおのずからハッキリすると思うので、私は理屈じみたことを初めから並べたくない。
 この本では「アメノミナカヌシの秘密」というテーマを取り上げるわけであるが、それはわれわれが日本という国に生まれて、生後ひと月めに親に抱かれて氏神さまにお宮詣りをしたり、七五三のお祝には手をひかれて自分の足でおまいりしたり、元気な若者になるとおみきで真赤になっておみこしをかついだり、娘なら長いたもとで盆踊りに参加したり、いよいよ結婚ということになるとやはり線香くさい仏式ではエンギがわるいような気持になって神主さんを引っぱり出すという、だれもが通る人生行路に切っても切れぬ神道(かんながらのみち)とは、いったいどんなものか、この疑問を私がみなさんの代りに解こうと思い立ったからである。
 戦争がおわって、マッカーサーの厳命のもと、国家神道というものが息の根を止められた。しかし、日本国の津々浦々、神社のない場所など一つもなく、昨年の今ごろ私や山蔭基央氏とともに西日本の神社巡拝をやったスイスのエルベール博士夫人に言わせれば、日本は印度にまさるとも劣らぬ「神の国」であるそうだ。
 私は禅を研究したりキリスト教の洗礼を受けたり回教の秘密修行に打ち込んだり、いったい何が主だかさっぱり見当のつかぬ男である。そして、ときどき今の宗教は臭教だなどと憎まれ口を利き、一夫多妻主義を鼓吹してクリスチャンにヒンシュク(まゆをひそめること)されたり、また事もあろうにマルクスの唯物弁証法をかじって共産党に入ろうと思ったり、全くますますもってワケのわからぬ人間である。
 そういう私にピッタリする誂えの思想が世間にころがっていないので、4年程前からAZという独創的思想原理をあみ出し、AZの名において半ダースほどの本を書いたが、AZというとバタ臭いと言って嫌う人もいるので、この「次」もさっと脱ぎ、今こそ無色無臭の人間一匹となって全国無銭武者修行に出たところである。
 『天国と地獄』という本は、映画監督の黒沢明とタイアップして書いた奇想天外の著作で、要するに、多くの人が「天国」と思い込んで暮している生活が実は「地獄」であるから、天国の住人になろうと思ったら、あらゆる束縛や固定観念をすてて、桃太郎や金太郎のような、「自由の子」となるがよい、という大変有益なピチピチした書物である。
 それを書き終えたのが、昨5月31日の夕方。つづいて今朝は小豆島から「はやて号」という水中翼船(飛行機と船のアイノコ)で高松まで飛び、駅前で靴の修繕をさせたところ、ちょっとずるそうな靴屋が、
 「旦那、ご旅行ですか?」
 「ああ、全国無茶修行中だ」
 「ムチャシュギョウ?」
 「武者でなく無茶なのさ」
 「どうしてですか?」
 「だってこれから土佐に廻り、7月からは九州にわたり、本州を縦断して北海道にわたるというのに、懐中無一文だからだよ」
 「あれあれ、半張り料払ってもらえますか?」
 「だいじょうび。小豆島でたっぷりもらいがあったからね」
と千円札を数枚ピラピラさせたら、何やかやと850円もふんだくりやがった。
 しかし、ここが大事な所で、私という無茶助は物のアタイの高い安いは言わないことになっているのだ。850円が高いというのは、東京渋谷の地下デパートに行くと革靴が千円で買えるというダンピングと比べての話であって、もしドルの国アメリカから来て日本の物価を計るモノサシが変わってしまえば、
 「おおワンダフル、なんとチープなことなるか!」
といおうことになる。
 こういう馬鹿ばかしい相対世界がチャンチャラおかしくて、おへそが茶をわかすようになったので、私は月収15万円の東京の名士のくらしをサラリと棄て、水をのみのみの乞食稼業に身を落としたのであった。
 茶がいらないということが「無茶」の本義である。あたたかい家庭生活に魅力がなくなり、毎晩テレビを見て奥方の奉るお茶をすするという日課をすててしまったので、私は無茶助になたというわけなのだ。
 無茶流人生術の要訣は、
 (1)無方針
 (2)無予定
 (3)無固定
 (4)無定収
 (5)無定妻
 の5本の指で示すことができる。
 そんな無茶で生きて行けるものかと怒り出す一億の日本人のために、私はわかりやすい日本語で「無茶道」を説き出したのである。
 この本が一見、神道の研究所のような外貌をもっているにしても、実は無茶に始まって無茶に終わるだけのことである。
 だいたい、今の世の民衆の大部分はおそろしい宗教嫌いがそろっている。だから正面切って神道の話などしても、誰が耳をかたむけてくれるだろう?だから、固い話も甘いカプセルか軟いオブラートに包んで服用してもらわないと、喰わずぎらいの人間を沢山つくるだけである。
 私がごくあたりまえのナマ臭い人間として神道の本を書いてこそ、この本を出してくれる出版社も立派な黒字で商売ができるというものだ。もし私の書きぶりが下卑ていると言って私を責める出版社があるとすれば、こちらはアッサリさようならして、もっと進歩的なアタマのやわらかい出版社を探すだけのことである。
 もし、コチコチ頭の宗教人がこの本を読んでくれるならば、どうか途中でハラを立てず、徳川家康の遺訓どおり「堪忍」の一語をかみしめて怒らぬ修行をしてもらいたい。
 私がめあてにしているのは、どこまでも市井の人たち−−バーのマダムや酒屋の小僧や万年平社員などであるから、インテルもお偉がたもそういう人たちをバカにせず、しばらく私のリードに従っていただきたいと、かしこみかしこみ申す。
アメノミナカヌシの秘密
2 ヤマトタケルのお出迎え
 前章の水中翼船というのは、20世紀の初めにヨーロッパで研究が始められたもので、戦後のスイスのシュプラマル社が1953年にやっと実用化した水上航走の船である。日本では