ZAの原理
ZAの原理
1 花の序曲
 春四月、桜の季節である。或る町の城山公園のひるどき。たくさんの人がむしろやござを敷いて美味そうな弁当をひろげて楽しくさんざめいている。花びらが風に舞って、人々の顔は上気している。酒に酔った男たちは手を叩いて歌ったり踊ったりしている。
 あなたは旅をして偶然この山にぶらりと登って来たところ、そこが花見の真っ盛りであることを知ってしばらく茫然としている。この町に一人の友だちも居ないから、嬉戯する人たちのなかから顔見知りをみつけだすこともできない。突然、あなたは空腹に気づく。香ばしいイカ焼きのにおいも流れ、のり巻の折詰も売っているが、あいにく財布のなかに一円もない。
 絶望的状況である。あなたはどうするか?身の不運を嘆いてすごすご山を下りるだけか。それとも・・・・?
 ここからZAのテーマが始まる?
 もしあなたがグループの一つに近づいてこう話しかけたらどうだろう?
 「ぼく、ハラが減っているのです。もし余っていたら、食べるものを少し分けてくれませんか。」
 車座になっていた人たちは一瞬笑い声も止めて互いに顔を見合わせ、そのうち誰かが若干のおむすびか寿司を差出すかもしれない。あるいは黙殺するかもしれない。または、怒りっぽい男がいて、
 「うるせいなあ! ここは乞食の来るところじゃねえんだ。あっちへ行った、行った!」と追い払うだけかもしれない。
 結果がどうなるか、いっさい判らない。実は、あなたが「それ」をやってみない限り、現実に何がおこるかはわからない。
 この「それ」がZAである。
 また、「それ」をやるかやらぬかには勇気が関係してくるのかもしれない。それとも、どんな恥辱にも耐えうる強靭な神経が必要なのかもしれない。




 乞食と泥棒と人殺しは社会の三大タブーである。どんな人間でも幼いときからこの三つがいかに忌むべきであるかを教え込まれて育った。このタブーを犯せば社会全体から村八分にされることをすべての人は知っている。乞食行為を法的に禁止している国もある。前節のお花見の場の状況でも、国によっては浮浪罪の適用を受け、あなたは留置場にぶち込まれるかもしれない。
 控え目に言っても、乞食は犯罪とスレスレの線上にある。
 誰ひとりとしてあなたに目もくれず、早くどこかに行けと追い払うだけだったら、あなたは空き腹をかかえて桜の山から下り、くやしまぎれに最寄りのスーパーマーケットで食物の万引をするかもしれない。その現場を監視員に見つけられて追われた場合、あなたはカッとしてポケットのナイフで追跡者を刺し殺すかもしれない。それは完全な犯罪への傾斜である。
 乞食にはそういった危険がたっぷり含まれている。
 人々は言うであろう。
 「食物が欲しければカネを出して買いなさい。カネがなければ正規の労働をしてカネをもうけなさい」と。
 これは世界中どこへ行っても同じである。
 乞食は安易な生活手段とみなされる。
 怠け者と恥を知らぬ人間だけが陥る一つの悪徳だと信じられている。




 世界の諸宗教において乞食行為は正当とされた。仏教では釈迦の時代から乞食は妥当にして唯一の生活手段であった。八正道の第五に正命というのがあるが、これは「常に乞食をして自活すること」である。キリスト教でも、イエスが大工の職を辞めてからは乞食をして生きつづけたにちがいないし、弟子たちを二人ずつ一組にして伝道の旅に送ったときも、財布を持たさず下着の着替えを携帯することも禁じたと新約聖書に記載してある通り、イエスの弟子たちは世人の喜捨にすべてをゆだねたのである。(パウロは逆に、自分が天幕作りという手職によって自活し、だれにも迷惑をかけていないと力説しているが、イエス在世時の使徒たちは、ペテロの如く、漁師のような職に就いていた者も生業からもぎ離されて師イエスと同じ乞食行為をしていたことは明白である。パウロ以後はむしろパウロ教と言うべく、後世のカトリック教に堕落変質している。)
 本願寺に拠る現在の真宗仏徒を見ても、公明党と癒着している日蓮正宗創価学会をみても、現代の仏教僧乃至信徒はほとんど托鉢(乞食に当たる仏教語)をおこなっていない。伊豆地震救済と称して或る派の仏僧が募金活動をおこなったりするのは、言わば非常事態における対社会的デモンストレーションにしかすぎない募金運動であって、決して彼らの正規の自活行為ではない。今の仏僧は充分に世俗化されているから、托鉢を一つの恥とすら考え、托鉢しなければやってゆけない少数の僧を、むしろ世渡り下手の貧乏人として軽蔑さえしている。




 私はこのような原宗教的乞食(托鉢)を現代によみがえらせ、それから宗教的色彩を抜き取ってZAと呼ぶことにした。
 ZAとは「財上げ」のローマ字化によるイニシァルである。物財は世間海に沈澱しているから、それを手に入れるには汲み上げるという行為が必要である。乞うというのは自分が下位に立って「どうぞ一文」と世人の慈悲のお下がりを期待する含みを持っている。しかし、釈迦やキリストの直接の弟子たちが果たして世間に「乞」うたであろうか?
 聖フランシスは教祖イエスの足跡をたどり、みずから托鉢教団を樹てたほどの人物であるが、彼が世間のお情けにすがって腰をかがめたであろうか。
 乞食ということばはどこまでも世間側からの見方を示している。
 真の托鉢者は、天与の権威によって全地球人(額に汗して働かねばならぬ定めを背負った失楽園人)に天税を課し、それを取立てているのである。あくまで財を自分のところまで上げるのであって、テーブルからこぼれ落ちるパン屑をひろって食べる野良犬ではない。

 
2 三つのタブー
3 宗教における乞食
4 ZAの語義