ZAの原理
5 自転車とぶつかる
 私は或る期間、単身でZAをおこなった。
 ある日、切符を買う金もなく、したがってどこにもゆけず、東京赤羽の駅そばの道に途方に暮れて立っていた。あるせっかちな主婦が自転車の操縦をあやまって私の向う脛に正面衝突をし、ゴメンナサイの一声をのこしてどこかに逃げ去ってしまった。私は痛い脚を引きずりながら、街の一角を指して歩き出した。私は特にその傷害犯人の小母さんを咎める気はなかったが、ある「気」の作用によって私の脚はひとりでに某銀行の前で止まった。見ると、そこに今しがたの自転車があるではないか。
 何となく店内に入った。疲れていたので痛い脛をさすりながら手近のソファに坐った。ふと隣りをみると犯人がいた。目を丸くして一種脅えた表情で私を見ている。
 「ああ、さっきの小母さんだね。」
 向こうは私がつけてきたと思ったらしい。
 「すみません。」
 「それはいいが、近所に病院ないですか? 骨が痛くて叶わん。」
 出納係が女の名を呼んだ。あわてて立って行った女は札束を握って帰り、その1枚を抜いて私の掌中にもぐりこませた。
 「少ないんですが、これでかんべんして下さい。」
 女は逃げ去った。私は手の中の千円札を見てキョトンとしていた。恐喝した覚えはないのに、あの脅え方はふつうではない。何を感違いしたのだろうか。しかし、結果として私は家に帰る切符代には充分すぎる金を、わけのわからぬプロセスで手に入れたのである。
 それは私は37、8歳のころだったと思う。




 私は30代半ばまで会社の社長や大学の教師をしていたが、世間が正業と呼んでいる正規の手段で金をもうけて生活し立身出世成功してゆく道筋につくづく道筋につくづく厭気がさし、職業をわが身から一つ一つ切り離して行った。
 前節の挿話はそういった時期の偶発的な事件の一つにすぎなかったが、そのとき私の目から鱗が1枚剥げ落ちるように発見した事実は、
 「この世の中には、金銭と直接関係のないことでも無理に金銭と結びつけて解決したがるという妙な風習がはびこっている」
 ということだった。
 と言っても、私はこの自転車衝突事件で味をしめて当たり屋稼業に入ったわけではない。
 おそらくはたいていの人が知っていたであろう事実を、晩生の、また本質的にシャバには異邦人であった私が遅ればせに発見したということである。
 その後、四国の徳島あたりをほとんど無一文で旅をしていたころ似たような事件が起こった。
 それは或る田舎デパートの食堂での出来事である。私はなけなしの十円銅貨を何枚か数えてギリギリのラーメンか何かを注文したのだった。そこは調理場がほとんど丸見えの食堂で、コックの言動がよく見聞きできた。
 その一人がウェイトレスに言った。
 「おうい、できたぞ。早く持ってゆけ!」
 その口調は、あたかも餓えた犬に餌を持ってゆけと言ったようなゾンザイな気であったし、コックは本来の性質なのか、そのとき何らかの理由でイライラしていたのか、きっとその両方であったと思うが、私の神経に大いに障ったので、空腹感はたちまち消し飛んで、次のように怒鳴ってしまった。
 「無礼者め、客を何だと思っているんだ!」
 コックは即座にその喧嘩を買って出た。拳まで振り上げたそいつを仲間が取りおさえたが、こちらの気が収まらぬ。私はすぐ経営者の室に駈けのぼって重役の一人に喰ってかかった。向こうはマアマアとなだめて、金一封を謝罪のしるしとして差出した。このときは前の自転車事件ほどではないが、予想外の展開に唖然としながらも、とにかくその白封筒を受け取ってデパートを出た。7千円入っていた。
 こういうことを技術としてやれば立派な恐喝罪になる。ヤクザ用語では「カツ上げ」という。ZA(財上げ)の一種にはちがいない。私は腰を折って金銭による賠償を懇願したのではなかったから。




 ここまで二つのエピソードを読んだあなたは、人にペコペコせず自由にこちらの言い分を言って、なおかつ金をもうける特殊のシステムを私がその後開発したと期待するかもしれない。
 早く言えばそういうことにもなる。
 しかし、どんな新しい道の開拓にも付きまとう種々の困難はあった。無銭宿泊飲食で拘置所につながれたり、旅館代のかたに外套を脱いで寒空をあるいたり、女房や子供に寄付箱をもたせて駅に立たせたりもした。その間、力尽きてまた世職に舞い戻り、翻訳などをやって息をついた何年かの期間もはさまっている。
 もう10年も前のことになるが、幼い子を施設にあずけて、当時の女房と二人だけで東京から鹿児島の開聞岳まで往復6ヶ月連続の無銭旅行をやったこともある。このときは一度も警察にひっかからず、橋の下にも寝ず、正規の料金を払って安宿に素泊まりしながら旅をつづけた。
 そのことまでには、カツ上げでもなく、乞うのでもなく、また犯罪の線にもかからぬZAシステムを完成していた。




 “ZAの原理”という題でこの稿を書き出したが、抽象理論の空転は私の好むところではないので、つい具体的な叙述に流れて行ってしまった感じもある。
 しかし、万人がとまでは行かなくても、志ある者ならだれでも実行しうるシステムとしてZAを世間に公示するためには、理論的な整理をする必要があろう。
 そのための第一歩として、公理的なもの、あるいは根本命題のようなものを思いつくままに列挙して、その後にそれをさらに整理してみよう。左に掲げるテーゼは、もちろん、その一つ一つについて詳細な説明が必要であるが、私自身その煩に耐えないし、大部分は読者の判断力によって空白を補ってもらわねばならないだろう。
6 ラーメンに怒る
7 システム化
8 掟または公理群