ZAの原理
 a. ZA者は金銭を主軸として回転している今の社会構造(これは資本主義・社会主義・共産主義というイデオロギー差に関係しないものだから一語にして金銭社会構造と呼ぶべきだ)に対して深い義憤を持っていなければならない。
 b. 労働の対価として金銭を受けとるという「仕事」の観念を根本から疑わねばならない。
 c. ZAは無条件に財を上げることだから、宗教的・人道的なものを含め、あらゆる大義名分を口実にしてはならない。つまり、自分の修行のためとか、人間の善意を求めてとか、人々の真心にふれるためとか、まことしやかな理由を売物にしてはならない。
 d. 或るときは「ビアフラの孤児救済のため」に、また或るときは「青少年育成のため」にとか看板を適宜ぬりかえて、自分(たち)のためではなく他人のためだといつわって募金行為をする文鮮明の団体(統一教会や勝共連合)にみられるような運動とは全く絶縁せねばならない。
 e. あらゆる詐欺心を駆逐して、集めた金の使途は完全にZA者のじゆうであることを明確にせねばならない。(酒を飲もうとギャンブルに使おうと女を買おうと、それはZA者の自由である。)
 f. 宗教や信仰と無関係である。
 g. 同情を引くものであってはならぬ。
 h. 上がる財高の多少に心を動かされてはならない。
 i. 服装はキチンと清潔なものでなくてはならない。
 j. 支出において倹約する要はない。
 k. 人生上の助言・指導を求められたら惜しみなくこれを与える。




 これらの原理的命題は凡そ世間の道徳や常識と両立しない。
 私たちは助け合いの精神を宣伝して歩いているのではない。
 助け合いとは、自分がまさかのとき助けられたいからこそ、交換の原則(これはあらゆる商売根性の底にある)に従って、今は人を助けておくくらいの功利的な動悸しかもっていない。利己心は人間全体の根本志向であって、どんな美しい建前をもってきても隠し切れるものではない。
 私たちは、このバカバカしい社会に生きて行くにはカネが必要だから、そのカネをよこせと言っているにすぎない。
 職業という世間ルールに従ってカネをあくせく稼ぐことが、世間に対する途方もない屈服と妥協であることを骨身に沁みて承知しているからこそ、決然として無職渡世をえらんだのである。
 「皆様のご協力」など得られるはずもないから、ただ人々の目の底を徹見しながら旅をするのである。
 その結果、どういう「気ずれ」か知らないが、カネが集まってくる。上がってくる。それがZAだ。
 ZAには方法がない。過去の体験から例を取出すならば、
 「カネを貯め込んだところで人生にとって何の足しにもならない」
 という文章をボール紙の板に書いて人々に見せて廻ったら、銀行の窓口からも千円、二千円の献金があったことすらある。銀行員の心に何がどう響いたか私はしらない。
 新潟県では地震到来の予言を書いた札を見せただけでZAが可能だった。
 私の指導下でZAをしていた或る女(早稲田大学を出たばかりの左翼がかった思想の持主)は、
 「私は親孝行トイウコトバノ意味スラワカラヌ娘デス」
 という内情そのままの文章板を見せて廻ってZAをおこなった。
 カネが欲しいと言っても言わなくてもカネは上がってくる。それはZAの本質に触れてくる不思議な事実である。




 私は乞食部隊の親分・ボス・隊長に見られるかもしれないが、実際はいつも一人か二人か、せいぜい三人ほどの隊員を擁しているにすぎない。
 この道は、俗っぽい人にはよほど困難なことらしく、この十数年間に二十人ほどの人が代わるがわる加盟しては脱落して行っている。
 浮世からさらに浮いて、フワフワと空中をただようようなZA人生に入り込むと、やたらシャバが恋しくなるらしい。嫌いなはずのサラリーマン稼業に逆戻りして、またささやかな月給から何がしかを工面して背広を買うようなことがなつかしくなるようだ。
 去る者は追わず来る者は拒まず――これがやはり私たちの生き方の根本になっている。
 ZA生活は世にいう「シラケ」の極致であろう。
 白け切って七色の差別を忘じ果て、金銭社会に生きる不安と恐怖すらも、あの世のことのように突っぱねたところに、或る種の度胸と奇跡が生まれてくる。
 事実として、冒頭の花見客の群にまぎれ込んだとしても、私たちは無銭のままたらふく飲み食いし、桜花に感じて一句をひねるくらいの心のゆとりを有する。その気なら美女の数人に接吻し、その夜の宿で女体サービスを受けるくらいのことは容易なのである。

                           1978・3・29
                           伊豆下田の山荘にて
10 白けの果て
9 カネは上がるもの
AZ時代リスト