大聖シルディ・サイババ小伝
じん・はじめ 著
                                      於天神930312/13491
はじめに

 四畳半の私の書斎の東側の鴨居に、二人のサイが並んでいる写真プラス絵が飾ってある。1918年(大正7年)に「肉体を落とした」シルディ・サイ・ババのは絵であり、1926年(大正15年)に生まれたサッチャ・サイ・ババのほうは写真である。
シルディは赤い頭巾に赤い服、掲げている右手のたなごころには、梵字OMがあり、その一字から光明が放射されている。サッチャのほうは、ピンクか桜色の襟の立たない印度服をお召しになっている。私はハイカラ−のクルタ・パジャマを愛用しているが、その襟なしの極めて簡素なものを着てお出でだ。同じく右手を顔の右側に少し重なるようにして掲げておられる。慈悲の照射印である。

 私は1993年の2月に半月インドに滞在した。それは3年前の新神戸駅前のホテルで、或る夜、ちょうどミッドナイトに私の脳天に閃いたサイババのお言葉の実現であった。
 「ジンよ、君は特に組織に入らないでもいい。組織からは手が届かないような人生の底辺の者たちと交わって、3年後に会いに来なさい。」
 私はそのようにした。淫売婦や詐欺師やピストル事件で収監中の男などとつき合った。生活は貧しく、飛行機代だけで20万円かかるインド行きが実現する見通しは全く立たなかったが、1992年の11月ごろから、不思議な径路でお金が入り出した。今年になって、収入に拍車がかかり、ゆったりと大阪からエアインディアで旅立っことができた。豊後の山のなかの寒村に留守居する最後の妻(1992年8月18日離婚)とその6人の子供たちへの生活費も置いた。
 この小伝に取りかかるのに、暖機が少し必要なようだ。エンジンが本がかりになる前に、ウォ−ミング・アップをしている。シルディ・サイ・ババの画像へのお祈りは済んだ。「あなたのスピ−ドと手順で、この私の頭脳と指を使って、ご自由に書いてください。万事お任せします。」
 私は珍しくペンネ−ムを使い出した。本名でもいいのだが、それを66年間も使ったので、さまざまの過去の行業がそれにからまり、もしかすると、読者の邪魔になるかもしれないと思ったからだ。
 ジンとは「神」だ。ハジメとは「一」だ。神は一つだし、神と私とも一つである。物を書いている主体は私であるように見えても、実はエネルギ−とアイデアの源泉は神である。私のレンズを通る神の光は、他の人のレンズを通るものと、いささか違うだろう。それは屈折したり、拡大したり、縮小したりする。それを人は個性と呼ぶ。没個性は人間には不可能だ。なくて七癖のクセは消えるものではない。むしろ、この癖を神さまに縦横無尽に活用してもらう。そして、結果は自動書記的になっている。あまり頭脳を捻ったりしない。自然に書けてゆくままである。

 出版という面倒な手順は取らない。10〜20人分だけ、このワ−プロ原稿のコピ−を作る。そして、縁のある人たちにそれを送る。その人たちがそれぞれ、血縁や知友の人々に読ませたければ、私への断りなしに、またコピ−すればいい。著作権は放棄する。サイババのことで儲けようとは思わない。もし、出版社が商売として、私の書いたものを多数の読者に提供しようという志を抱くことになれば、私に連絡してもらいたい。印税をもらって、もう一度、取材に印度に渡りたい。そういった意味の儲けは必要だが、いま緊急の問題はシルディ・サイ・ババのことを親しいかたがたに知らせたいということだけである。
 2年前の1991年に、愉美子が6人の子供を私の手にゆだねて、サイババに単身で会いに行った。1週間ほどの短い滞在だったが、愉美子はいろいろ不思議な話を持ち帰った。いくら訊いても解らない。インドそのものが解らない。サイババのことも解らない。一切が分からない。私は追求をあきらめて、1993年の渡印を待った。
 愉美子はいろいろサイババの写真を持ち帰った。そのなかに、シルディ・サイ・ババの絵があった。私はサッチャ・サイ・ババの前世身であるシルディの大聖に異常な興味を持った。その大きな立ち姿の絵を壁に暫く貼ってあったが、そのうちどこかに消えてしまった。 私が一人の友とボンベイの国際空港に着いて、そこから国内航空に乗り換えて、バンガロ−ルという人口300万の大都市に降りたとき、タクシ−の運転手が、「スワミはホワイトフィ−ルドに明日来られますよ」と教えてくれた。私たちは印度人が泊まる安ホテル(あとから行く人のためにアドレスを書いておこう。HOTEL GEO、電話221583、素泊り料金は二人まで170ルピ−=850円)に一晩過ごして、翌日ホワイトフィ−ルドに車で行き、そこのアシュラムに4泊した。アシュラム内の宿泊代は一日25円くらいのものだったが、今後円相場が変わればどうなるか分からない。傾向としては、インドのインフレは進行しており、ルピ−はますます安くなり、円は逆に高くなるようである。 私はホワイトフィ−ルドのアシュラム正門前で、ベンツで来られたサイババを出迎えることができた。
 その後、サイババがまた本拠であるプッタパルティにお戻りになったが、私たちは信者群衆の大移動の道路混雑を予想し、聖なる川・コ−ヴェリのほとりにある孤児院の院長さんを訪ね、そこのサッチャ・サイ・ババのお写真から無限に溢れ出るビブチ(聖灰)と、サイババのお顔が印刷された小さいペンダント用の石から、これまた限りなく日夜湧き出すアムルト(甘露)を頂いたりしてから、美しい王宮のあるマイソ−ル市に2泊し、そのあとで、またタクシ−でプッタパルティまで旅をした。詳しいことは省略するが、プッタパルティでもやはりサイババのお帰りを出迎えることができた。プッタパルティでの1週間滞在のことも省略して、そろそろシルディの大聖の話に移る。

2.二冊の本

 私はアシュラムの外のTOWERというホテルに泊まっていたが、そこの一階に書店があって、サイババ関係だけでなくインドの文化や宗教を紹介する多数の書物が置いてあった。店内を少し歩いてから、私の指は一冊の絵本に触れた。それは定価10ルピ−のわずか20ペ−ジの薄い本だったが、何とも言えない美しい絵が各ペ−ジにあるシルディ・サイ・ババの一生の絵物語だった。原色版そのままに、英語を日本語に替えて、日本で出版したいものである。しかし、それには時間がかかるので、私の紹介文で今は我慢していただくことにして、絵を見たいかたは、次の人から郵便で取り寄せたらいいと思う。

    Prof. Dr. Lekha Pathak
    Chairperson, Shri Sai Baba Sansthan
    Shirdi, Sai Niketan
    Bombay 400014
    INDIA

 この英文書名はPICTORIAL SAI BABAである。
 私としては、文章でその絵の内容を叙述して、説明の文章を付け加えることしかできない。百聞は一見に如かず、であるから、文章の限界を承知しつつ、とにかく努力する。
 その絵本を読み終えてから、またその本屋に行ったら...