3.そのままであるしかない
                            在天神940114/2355
あと5分で、成人式の15日となる。ウツにしてはすらすら書けてきている。もしかすると、このウツは短期であって、またソウに移行するのかもしれない。しかし、ウツは予告なしに襲うのが常であるから、気を許せない。もっとも、油断するしないに関係なく、ウツは来るときは来るのだから、気を許せないと言ったのは言葉のはずみであって、別に何の意味もない。あらゆる不幸は予告なしに来る。そういえば、幸運のほうも同じだから、人間は全くの無知において、幸運や不運に、受け身の状態で応対しているわけだ。
死が特にそうである。よほどの人でないかぎり、人間は予告なしに不意に死に見舞われている。人間はとことん無力・無知である。無知のまま、暗闇を手探りして生きているのが、人間のありのままの姿であると、早めに納得したほうがいい。人間として生まれた身の不幸をいくら愚痴ったって仕方がない。こういうものなのである。あがいても仕様がない。人生をもっといいものに仕変えようと足掻きまわることを、「求道」とか言う。言葉の響きはよろしい。何か立派なことに聞こえる。しかし、あがいていることには変わりはない。一生涯の求道とは何とシンドイことだろう。どこかある時点で、求道の悪あがきをやめたほうがいい。足掻かない分だけ、静かになる。静かな時間を増やしたほうがいい。それはつまり、諦めだ。諦めを悪と非難する努力主義者もいるが、努力を信じるのは勝手だ。私は努力など豚の餌にしたほうがいいくらいに思っている。断念、あきらめ、ギヴアップが他の人々よりも、私は早かったのかもしれない。しかし、67年も掛かった。
さきほど、岩下志麻の『極道の妻たち』をTVで見始めたが、あまりにつまらないので切ってしまった。「裸の大将・山下清」の実録のほうがまだ面白かった。存在感がある。正直な一人の人間がまがいもなく存在していた。握り飯と放浪以外には大した欲もなく、絵が好きだった一人の天才。私もどこかしら或る種の天才であるが、その天才が世間と噛み合うことなく、ために貧乏しているウツ病人が私だ。言葉の操り方を心得、思想という蜘蛛の糸を紡ぎ出すことにおいて長(た)けている。多少の酒煙草と一家が食うだけの金があれば、他に何もいらない。吹けば飛ぶような名声など欲しくも何ともない。唯一の念願といえば、「神に成る」ことであるが、この成神志向は世人に理解されない。この「道を極めたい」という願望は心に深く居座っているが、これも極道の一種だろう。いい意味の「極道」は、たとえ貧道でも行けるはずである。インドのヒンドゥ−教は、音において「貧道」と似ている。富を護って世間と対峙している連中よりは、貧道を進む私のほうがまだ脈がある。何もないのだから、護るものがない。何かもオ−プンである。
元妻・愉美子にマサラコ−ヒ−を注文した。マサラとはインド産のピリッとした香辛料である。神戸に行ったときに、シルディ・サイババ(神の化身と言われる)の帰依者であるインド人の店で買ってきた。マサラの野菜カレ−は私の好物。豚や牛や鶏が入ると、もう頂けない。身体がNOと言う。サチャ・サイに去年の2月にインドで会って以来、この肉食忌避の傾向は固定してしまった。魚はまだ少しは食べているが、あまり美味しいものとは思えなくなっている。


4.プライバシ−
                      在天神940115/0043
真夜中を過ぎた。一昨日(13日)、熊本から親切な友人が雪の阿蘇路を越えて、私を救援に来てくれた。25通も溜まった手紙の切手代にと一万円を寄付してくれた。愉美子はお釣りを持って急いで食料を買いに行った。その友は私を隣町まで車で連れて行って、「白波」を振る舞ってくれた。この友はプライバシ−侵害を嫌う性質なので、その名前を出すのを私はひかえる。ところが私は、生来、プライバシ−尊重という世間のやり方を好まない。なぜ、そんなに多くの人々がプライバシ−を守りたがるのかがサッパリわからない。個人的秘密とはそんなに尊いものなのだろうか。みな、自分のことはひた隠しにして生きたいのだろうか。自己防衛と恥ずかしさが原因なのか。護る自分がなく、恥ずかしさが消えてしまえば、プライバシ−論議は茶番に聞こえる。嘘で固めた世の中を温存する傾向を、私は嫌らしいものに感じる。すくなくとも、人と人との関係を、それは水臭くする。夫婦のあいだにもプライバシ−が入りこむことがあるが、それは離婚を招くだろう。親子のあいだにもプライバシ−が入りこめば、他人のようによそよそしくなる。
神と人とのあいだには特に、プライバシ−はゼロでなければならない。なければならないというよりは、もともとゼロのはずだ。ゼロでなければ神と人の関係は成り立たないからだ。故に、私は神とは取引をしないと書いた。学校教師のような神なら、満点答案を提出せねばならないだろう。しかし、私は零点か白紙の答案でも堂々と神に提出する。神には秘密を守れない。悪びれることはない。
人間は欲深だから、神仏からご利益(リヤク)を求める。何にも利益がないと知ると、この神仏には効き目がないと思う。まるで薬剤のようだ。利益があると思ううちは、信心し礼拝する。駄目だと思うと捨ててしまう。私はむしろ「捨てる神あらば、拾う神あり」という諺が好きだ。神はそんなものと思う、自由に捨てたり、拾ったりしてくれる。捨てっぱなしの神もあるだろう。そのかわり、万一、拾う神が出てくれば、やはりそういう神もいるのかと、目を開く。それでいい。充分だ。拾う神も出てこなければ、そういうものかと諦めていればいい。どうせ悪いことを一杯やってきたのだから、拾われるはずはないとでも思っていたらよい。零点の答案にお褒めの言葉が来ないのは当然だ。
良いことをしたのに報いがないなどと思っている図々しい人間にだけはなりたくない。多少の善行をしたところで、自分がやった悪事の砂漠に、如露でチョロチョロ水をやった程度のことではないか。人間は知らぬうちにたくさんの悪事をするように出来ている。それだけでもよく承知していたほうがいい。
おととい来た熊本の友に、ある物捜しに忙しかった私は、「ちょっと僕のポケットに手を突っ込んで捜してくれ」と言ったら、拒否された。「わたしは人のふところに手を入れるのは嫌なんです。」そりゃそうだろうが、夫婦や親友や親子なら、そのくらいのことをするのは当然だと思う。プライバシ−妄信は人と人とのあいだに壁を作る。しかし、こういうことを書くと、あの友は立腹するだろう。プライバシ−を侵害して悪口を言ったと、私は二重の罪で責められるのである。
「細川首相はむかし、あたしの乳房を弄(いじ)ったのよ」という告白は、やはりプライバシ−の侵害なのだろう。「昭和天皇はあのときおならを三発なさいました」もそれか。人間の品位を下げたということなのか。何も、本当の品位とは関係もないことだろうにのオ。
私事権を他から侵害されまいと防御するのは、すでに自他の対立状況から出発している。その対立そのものを無くしてしまおうと、私は言い続けているだけなのに。
まあ、いいか。先に進もう。
ウツと失業