5.真名
                  在天神940115/0119
いつのころからか、私は親しい友人や弟子に「真名(まな)」を付けるようになった。真名の普通の日本語定義は、仮名に対する真名であって、漢字のことだ。私の用法では、私に見えたその人の本質を表す真の名前であって、おおむね漢字を使うことが多い。私自身にもそれがあり、日輪、神一など沢山ある。他人の真名も自然に変化することがある。本人がそれを採用するかどうかは、私には関係がない。私が勝手に真名を付けているだけのことだから。
前出の熊本の友の本名は不可止。私はこの名前が好きだ。だから、彼には新しい真名を案出する必要がない。「もうどうにも止まらない」とか、「周囲の力では止めるべからず」とは本当に良い名だ。それを付けた父君は素晴らしいと思う。(こうして、そろそろ彼のプライバシ−の侵害に取りかかっている。そのために絶交になっても仕方がない。諦めるほかはない。)
不可止さんはカイロプラクタ−。一昨日は愉美子の慢性肩こりのために、頸椎(ケイツイ)のアジャスト(調整)をしてくれた。私にも、と勧めてくれたが、断わった。私は久しぶりの友と少しの時間も惜しんで話をしたかったからだ。彼は阿蘇の雪路の帰り運転を危ぶんで、早く出発したがっていた。しかし、私はどこかで、雪は大したことはないという確信があったので(テレパシ−のようなものだろう)、できるだけ彼を引き止めた。早めに無事に帰宅したという旨の電話が、あとで熊本からあった。
妙妙という真名の友人が大阪にいる。パンダの名前みたいだが、私には気に入っている。妙妙は幽体離脱しやすい性質があり、よく夢うつつで私の来訪を感知する。京都の洞が峠でガソリンスタンドの支配人をやっている。
一如という青年もいる。やはり、大阪の人で、尚美会というキモノ着付けの会社に勤務している。正月早々、彼とつき合って、天理市の夜の街で、何か気に入らぬことがあったため、私は彼に至悟気を与えてしまった。のど元に引っかき傷を与えたのだ。彼にとって私はおっかない(この東京俗語は今は全国で使われるようになっている)「先生」だが、どうにか交際は続いている。
十蟻という人もいる。彼は上記尚美会の会長である。今まで何年ものあいだ、私の窮乏を助けてくれたが、榛原(はいばら)の「心境荘苑」を一緒に訪れたとき財布を落として、小遣い銭に乏しくなったとか言っていた。何だか瑣末(サマツ)なことばかり並べているが、人生はこういうどうでもいいような、どうでもよくないような事柄の集積である。ほとんど暇つぶし的著述であるから玉石混交は避けがたい。そのうち、何かの弾みで玉も出てくるだろう。
愛神という、これは本人の号だが、希有の人物が東京の多摩市にいる。長い精神病院生活を送ったが、院長から退院許可が出たので、世間に復帰したがっている。私の一時のグル(導師)であったので、お世話をしたいが引き取るだけの資力がないため、十蟻その他の大阪の友人にお願いしてある。うまく行くかどうかはわからない。金星から転生してきた人で、「地球惑星神政府」を樹立するのを、生涯の使命としている。もう60の坂を越した。
天真という真名の人もいたが、今は牧野元三という本名で呼んでいる。私が45歳の時から16年、乞食托鉢の弟子として私についていたが、のちに離れてサチャ・サイババの帰依者になり、今はサチャ・サイのアシュラムがあるプッタパルティにいる。日本に帰ればサイババの日本組織の指導者になるだろう。彼がその地位に座れば、私にサイババの翻訳の仕事を回してくれるかもしれない。万一そうなれば、私のこの失業本も自然に終わりになるわけだ。
以上の人々は、この本の最後まで登場人物として時々その名を出すだろう。そのために名前を並べた。


6.三から八へ
                    在天神940115/0232
座り詰めで腰が痛い。4畳半の狭さのため、この火燵机以外に立ち机が置けない。いつ石油が切れるか知らないが、ヒ−タ−はゴオゴオと鳴っている。愉美子母子はみな寝しずまった模様で、家の中は静寂である。不可止さんから、インドの霊草TULSIに関する英文説明の翻訳を頼まれているが、気が進まない。これはウツのせいである。ソウなら、手当たり次第に、どんな仕事でも億劫(オックウ)がらないでやってのけるのが常だ。
翻訳書の出版をやっている東京の出版社に、翻訳家としての私を売りこむ運動もやったほうがいいのだが、これもウツのために気が進まない。裏の畑の天地返し(冬中に表土と底土を反転する仕事)もやる気がしない。こうやって本を書くのがやっとやっとである。すこし眠くなってきた。少しは眠れるかもしれない。2:41AM。
3:08AM。黒棒という九州人しか知らないお菓子を食べている。火燵のなかで横になったら、深い欠伸がいくつも出て眠気が去り、代わりに魂の奥から言葉が出た。
「過去よし、現在よし、未来よし。ウツよし、失業よし。」
そりゃそうだ。それに決まっている。また「爽やかな世界、それが本地じゃ」とも出た。ウツは雲だというのである。それもその通り。しかし、人間は黒雲のなかに入ってしまうと、本地が見えなくなってしまう。暗鬱を本地と勘違いする。寝ても覚めても爽やかな本地のなかにいる人は、生きながらの神だろう。それを「神人」(GOD−MAN)とか「人神」(MAN−GOD)とか言う。
人は迷い多きものだが、その迷いのなかには神が不在かというと、そんなことはない。どこにも存在するのが神であり、神はいないと判断するのは、人間側の勝手である。そういう判断をしている人間そのものが、頭のてっぺんから足の裏まで神で串刺しになっているのだから、人間が何をしたところで知れている。
人間や芋や箸がどう転ぼうとも、神は神であり、この世はそのまま神の世なのである。この世の外のどこかに神の世界を捜し回るから、お目当ての神の世は見つからず、おまけに人の世も見えなくなる。周囲がすべて真っ暗闇になる。
生長の家をやっていた青少年時、私は「実相の世界」というのを教わって、そこには病気や貧乏や死はないのであると観念した。しかし、観念は観念であって、いくら自己暗示をかけても、病気も貧乏も死もそこらにあって消えはしなかった。ああいう観念宗教は私に合わないと悟って離れた。
また、眠くなった。魂が呼んでいる。3:36AM。

目が覚めたら外は明るくなっていた。時計を見ると8時8分。ついでに温度計を見ると8度。8の数字がズラリと三つ並んでいる。これは只事ではない。眠りに入ったときは、3の倍数を意識していた。3+3=6。6の二乗は36。3+6=9。6は私の数。サチャ・サイの神数は9。今年は9月9日に日本を出てインドに飛ぶ予定がある。AUM SAI RAMを唱えて眠りについた。夢ひとつない熟睡。8:08−3:36=4:32=272分。これも8の倍数である。3から8へ。8は鉢びらき、または富士開きとして、
ウツと失業