いたころも、青年たちの鼻の穴に盃で水を入れて起床させていた。真空というハタチそこそこの弟子は、「会主よ、眠いだけ寝かせてください」と抗議をしたが、無視した。私は日輪会の主だった。
レム(REM)はRapid Eye Movement(急速眼球運動)の頭文字を三つ並べた言葉である。レム睡眠は、成人の場合には全睡眠の4分の1を占めるといわれる。熟睡しているのに脳波に覚醒波が見られる。急激な眼球運動がたびたび見られ、夢を多くみる状態のことだ。私は2222に覚醒したが、夢を見ていた記憶がない。忘れたのだろう。とにかく熟睡からパッと起きた。ウツは去っていた。気軽になっており、長男・悠久が風呂に入ろうとして裸になっていたその筋肉の凄さを嘆賞して、「おい、筋肉マンよ!」と背中を叩いた。高2だが、私より体重は10キロも上だし、身長も高い。
起きた途端に、「果報は寝て待て」という言葉が浮かんだ。因果応報の二字を摘んだ言葉であり、悪い果報ではなく、善い果報、つまり幸運のことを言っている。寝て待つのが一番いいというのだ。サイババはそんなことは教えない。WORK HARDと青年を鼓舞している。働け、働け、怠けるな、に終始している。インドにはよほど怠け青年が多いのかもしれない。日本の猛烈社員の子供たちはやっと「怠け」を取り戻して、怠学をやりだし、登校拒否で大人を困らせている。時代の振り子である。
この著述中に二度目のウツが来たときも、長い睡眠で突破した。この三度目もそうなった。不眠の行のことが聖書にもある。不眠と断食で祈ることをイエスは勧めた。悪霊の追放にはそれしかないとも言った。私も若いときから、不眠行と断食行をどんなにやったかわからない。惰眠と飽食はセットになっているから、私は飽食を避けてきた。うっかり長く眠ったりすると、自分を責めていた。苦行型の人間なのである。だから、毎日睡眠を取らないというサイババを発見したとき、何よりもその点で凄いと思った。もちろん、サイババは信者たちに不眠を奨励したりはしない。アシュラムでは、9時に消灯して弟子を寝かせてしまう。その通りにしていれば、朝の4時までに7時間も眠っている勘定になる。私は珍しく、11:15PMから「大相撲ダイジェスト」を見ようと思っている。それだけ気軽になっているのだ。このごろは相撲など見ていなかった。興味は失せて、時間の浪費くらいに思っていた。勝負の世界は子供じみていると思っていた。サイババは競争的スポ−ツを奨励しない。あらゆる勝負事にNOを言うだろう。サイ・ダルマは私をフン縛っていた。だから、私は自己回復のため、サイ・ダルマへの反逆を開始したのだった。
不眠で、ウツとすれすれにあれこれ考えるよりも、「果報を寝て待つ」のがどれだけいいか分からない。悪い原因カルマも無限にあるだろうが、善いカルマも無限にあるのではないか。私は悪いカルマばかりを考えていた。サイババは「善を見よ」というが、私は悪ばかりを見ていた。サイババ説教のうち、悪のことばかりに気を取られていた。映画は悪い、テレビは悪い、小説は悪い。サイババ自身が悪いことを沢山言うではないか。彼こそ模範を示さないといけないではないか! その点、メ−ヘル・ババは一切の悪を言わなかった。「私を愛しなさい」と言い続けただけである。私が30代に複数の女にからんで悩んでいたときも、それは悪いとは一言もいわなかった。妻の数は何人いてもいいと言った。そのかわり、皆に公平な愛をそそげと、メ−ヘル・ババは言ったのみである。
果報は来る。寝て待てばいい。


26.嬉々として
                     在天神940121/0019
あと3ヵ月で学校に上がる日女と風呂に入った。「おとうさんの子供のころ、ファミコンあった?」「なかった。発明されていなかったよ。」「ああ、ハカセか。何の発明があったの?」「電気だよ。」「でんき、いくらだったの?」でたらめに、「20錢だよ。」「へえ、高いのだねえ。」センは1000と受け取られた。カラスは先に出てしまった。日女は丹念に自分で洗っていた。
ウツ気は完全に取れている。一日で取れるウツはウツ病とは言わないだろう。宿痾(シュクア)は消えてしまったのだろうか。病だれに阿という字を久しぶりに使った。その意味は不明である。音と字だけが浮かんだだけ。辞書は教えてくれた。阿とは「せまいすみ」で、ヤマイダレがつくと「せまいすみに入りこんだ病気、こじれて直りにくい病気」。私のウツは確かにそれだったのだ。それが治ったのは、やはりサイババのお陰としか思えない。事実、つぎの章に出るように、私は駄々をこねる子供のように素直になって、サイババにお願いしたのだ。それでウツが取れると、レム睡眠のせいにしてしまった。しかし、熟睡ができること自体が、自分の力ではなかなかうまくゆかなかったのだから、冥々の加護ということを考えねばならない。漠然と神さまにお願いしても、なかなか効果がないのに、なぜ存命のサイババにお願いすると、いつも効験があるのだろうか。同時代に地球上に肉体を持った「神人」(GOD−MAN)が存在しているということは、大きなことなのだ。私はクリチャンだが、イエスさまにお願いしてもなかなか結果は出てこない。
疑う者は、彼の名を知っていても、なかなか子供のように無邪気になってサイババにすがることはできないが、溺れる者は藁をもつかむくらいに切羽詰まると、手を合わしてしまう。昨日のH夫人も今朝の2〜4時にオ−ム・サイラムを唱えて救われたのではないだろうか。離婚というのは自分側にも原因はあるのだが、人間の常として、悪いのは相手ばかりということになってしまう。それを分からせるには説教が要るのだが、たいていの人の耳には、説教は届くものではない。応病施薬(オウビョウセヤク)で、いま苦しい病気をまず治してやるのが、救済の糸口だ。その辺からだんだん神さまの世界に入ってくるものだ。
今日は昼間に熟睡したから、夜はまた起きているだろう。もう明日になっている。体重は1キロ増えて53キロになっていた。53キロ÷165センチ=0.3212121キロ。この指数は、君の場合どのくらいですか。計算してごらんなさい。たいていの人は私より上のはずだから。うちの愉美子(42)の場合は53・5÷154=0.3441558で、王玉(高3)は51.5÷155=0.332258である。飽食ファミリ−だと、0.4くらいになるのだろうか。
このまえ、テレビでプロデュ−サ−たちの顔を見たが、ああいう日当たりのいい所にいる成功者たちは、みな小太りである。もしかすると、あれが日本人の平均的な肉体なのかもしれない。インド人の民衆の姿を見てごらんなさい。大変な差を感じるから。それは、戦後の日本人民衆と、あのころの進駐軍兵士との相違にも似ている。気が軽いと、軽いことばかりを書いている。これが、次の章になるとまるで違った雰囲気になる。同じ人間が書いたものとも思えない。普通の書物では、章によってこんなに著者の気分が変わるということはありえない。私は確かに風変わりな著者なのだ。
「たしか」という副詞には「慥か」という漢字もある。これは確実という意味ではなく、「おそらく、たぶん」という意味である。心で造って「たぶん」と推量するのである。小説家などで、この二つの漢字の意味の差を知らないで、「慥か」を使っている人もいる。「確か」なことを知らないので、「慥か」こうだろうという感じで漢字を使っている。私は自分が使っている言葉や字を吟味している。あまりいい加減なことは書けない。だから、私の著書は昔から、国語の教材にも適しているのである。章を改めよう。

ウツと失業