盤珪不生禅
  1. はじめに
                       於天神930510/0921
 今年の2月末にインドから帰ってから、今朝までぶっ続けにサイババについての4冊の本を書いた。
 印度の哲学と宗教で頭のなかがはち切れそうになったので、江戸時代の日本に帰ることにした。盤珪禅師についての本を書きたいという願いは30年前からあったが、ついぞその機を得なかった。目下、4分の3の失業中(つまり、月に一週間分の食業がある)なので、当分この著述に時間の大部分をそそぐことができそうだ。食業が増えたら執筆速度は下がる。
 私は話すように文章を書くから、すべては気の流れのままである。したがって、起承転結がはっきりした書物の構成を取らない。そのための利点の一つは、どの章から読んでもわかるということである。前を読まないと後が解らないということはない。だが、後を読まないと前が解らないということはあるかもしれない。だから、一度読み終えたら、また最初に戻って読み返したほうがいいかもしれない。
 盤珪禅師に関する書物はいろいろ出ているが、今は入手困難なものが多いので、私の著述の参考としている「盤珪禅師語録」(鈴木大拙・編校)だけを挙げておこう。これは岩波文庫に収められているもので、編者が昭和15年に書いた「あとがき」が付いている。読者もこれを座右に置いて、この私の本と対照すると一番よいと思う。引用の際はなるべく、この岩波本のペ−ジ数を記しておくことにしよう。
 私の癖で、盤珪禅師のことを書きながら、随時私の身辺の話が出てくると思うが、これは大目に見てもらおう。すべてが座談なのであるから、私が勝手にあなたの前に座り込んで何やら話し出したと思ってもらえればいい。現実の訪問なら、すぐ帰ってくれとは言いにくいだろうが、本だから飽きたり疲れたりしたら、いつでも伏せることができる。読んでいて疑問が起こったり、著者に話をしたくなったら、次の住所に切手同封の手紙を頂きたい。電話でもいいが、あなたの住所をメモするのが面倒だ。間違いも起こる。それにやはり、手紙のほうが自分の考えがまとまる。それはお互いのこと。ついでだが、私は煙草代に窮することが屡々であるので、青いショ−トピ−スを寄贈してくれると大変助かる。初めから無心で恐縮であるが。
    879−69大分県大野郡清川村天神 電話0974−35−2140 


2.盤珪と白隠

 どこから話をしようか。大拙さんの岩波本には、盤珪和尚の平生の説法もそのまま載っているが、弟子たちが漢文で書いたすこぶる難しい伝記や語録もある。禅学をやった特殊の人でなければ到底よみこなせるものではない。だから、私は現代語でその内容を伝えるように努力するつもりであるが、時折は雰囲気を出すために原文を引用することもあるかもしれない。たとえば、次のような日本語であれば、現代人でも楽に理解できるだろう。 然らば、たん気は生れ附ではござらぬ。何とぞしたときの縁に依て、ひょっとそなたが出かすわひの。
以上は例外として、漢字や送りがなは、引用のときに私が現代風に改めることにする。「あなた」のことを「そなた」という。17世紀、今から300年ほど前の日本語である。盤珪禅師の号は永啄(ヨウタク)という。永くついばむニワトリのようだ。盤珪の名は盤石のバンと珪素のケイ。ともに鉱物である。彼の弟子・信者になったのは、封建領主から貧民にいたるまでその数5万人を越えたということだ。マスコミのない時代としては大変な人数である。現代なら優に500万人の教祖に納まったことだろう。
 盤珪禅師(1622〜1693)は播磨に生まれた。彼がのちに開創した龍門寺(リョウモンジ)は同じ播磨の浜田に現存する。この寺には私も若いときに訪れたことがあるが、禅師がご自分で彫った赤漆の木像の爛々たる眼光には、ただただ恐れおののくばかりであった。姫路か相生で下車して網干まで行くとよい。他に盤珪ゆかりのお寺というと、讃岐丸亀の宝津寺、伊予大洲の富士山如法寺などがある。私は如法寺にも行ったが、山奥にあり身の引き締まる幽邃(ユウスイ)の地であった。網干と大洲にはぜひ参られるといいだろう。
 盤珪禅師の誕生は関ヶ原の戦いがあった1600年より22年あとで、彼の71年の生涯中に起こった主な事件を拾うと、島原の乱(1637)、キリスト教禁断・鎖国令(1639)、由井正雪の乱(1651)、明暦の大火(1657)、将軍綱吉・生類憐みの令(1687)などがある。江戸時代も初めのほうで、世情は騒然としていた。
 彼は修行時代によく日本中を行脚している。京都で乞食の群れと暮らしていたこともあったし、長崎にも、私の住んでいる豊後にも旅をした。大悟してからの大檀那(旦那とも書き、布施者・施主の意味)に、大洲の城主・加藤泰興がいた。加藤侯は朝廷を動かして禅師を京都の妙心寺の住職とした。
 盤珪よりも日本人によく知られている白隠(1685〜1768)も同じ臨済宗の出であるが、盤珪が世を去った年にはまだ8歳だった。白隠は公案禅を大切にした人であったから、公案を否定した盤珪を悪しざまに言った。「不生断無の邪法」とか「枯坐黙照の邪党」とか「不生の瞎癡禅」とか散々である。しかし、盤珪不生禅の真価は私のこの本を読んでから、めいめいの心肝から判断をくだして頂こう。


3.旧友、盤珪を吟ず   

 全く驚いた。上の章の白隠のところで郵便が着き、そのなかに母校・目黒区緑が丘小学校の第1回卒業生の私の同期生である福島一雄さんからの手紙があった。山田積善流の詩吟の達人で、朗々と次の詩歌を吟詠したテ−プも同封されていた。
    盤珪禅師 我はただ/世にありて/偶成
    良寛禅師 悟りとは
    十菱 麟 偶感
私の漢詩まで吟じてくださったのには恐縮であった。盤珪さんは生きているのだろうかと、ふと思った。輪廻転生は卒業されて、どこかの極楽に鎮座ましますと思っていたのに、まだ娑婆のことを世話してくださるのだろうか。お釈迦さまの場合は、未来仏として兜率天(トソツテン)に居られる弥勒菩薩が下生されるとのことだから、盤珪禅師が人類救済のために特に降臨するということもありうることである。牧野元三(16年間托鉢に連れ歩いた昔の弟子)は私を、盤珪禅師の生まれ変わりではないですかと言ったことがあったが、まさかと答えた。元三も今は乞食をやめ、ニュ−ヨ−ク市の豪華マンションに住んでいる。43歳くらいになっていると思う。托鉢の途次、彼と連れ立って大洲の如法寺に参詣した。(龍門寺は私と後出女人。)一升酒時代であったから、私は徳利を境内に持ちこんで大いに快飲していた。とんでもない奴が来たと盤珪和尚は思し召したことだろう。今やっと酒が止まって、この本を書くお許しが出たのかもしれない。