盤珪不生禅
17.さしむかふ心

 福島一雄大兄の吟声によって鼓舞され、勇躍してすでに16章を書き終わったときは、執筆第2日の夕刻となっておった。疲労が来て鬱を発し、火燵で100分ほども寝た。疲れが取れて、思想の基調がおのずから変わって来たことを感じる。今は20時32分。
 盤珪禅師は所詮わが明鏡の一つ。さきに、印度の神人かつ真人、サッチャ・サイ・ババを鏡として4冊の書物を著したが、いずれもわが姿を鏡に映してそれを見ただけのことである。その鏡像をあるいは是とし、あるいは非として、論議するのに忙しかったが、盤珪流に言えば、「鏡像に転ぜられた」だけのことで、この自像はノッペラボウのようなもので、その上に醜拙を描き出そうと、美巧を結構しようと、ノッペラボウはそのまま。私流に言うならば、不生の仏心はこれノッペラボウに過ぎない。
 この一書、いったい何章で完結するか、予想も計画もない。ノッペラボウの上の、幼稚園のお絵かきみたいなものだ。内容を面白くしようとすれば、それは小説家の常套手段、かえってつまらぬものとなる。つまらなくしようとも思わぬが、やはり風に流さるるまま、本音のみを記そうと思う。
 盤珪の和歌の一つに、私が数十年間愛唱してやまぬものがある。曰く、

    さしむかふ心ぞ清き水鏡 色つきもせず あかづきもせず 

ところが今まで長いあいだ、私は大変な誤解をしていたようだ。
 「人間神の子」流の固定実相観が中学生のころから私の頭に入っていたために、自分が差し向かう相手の人間の心の奥は本来清らかなもの、その神性を拝み出すのだというような考えに凝り固まっていたものだから、この道歌の意味が読み取れなかったのだ。
 差し向かうその人が泥棒であったり、私を殺そうとする者であったり、わが陽物を勃起させんとする美女であったりする。それを「清き水鏡」と観念せよという教えと勘違いをしておった。しかし、その勘違いにも拘らず、私がこの歌を愛していたということは、その真意が私の心の深奥に透過していたためでもあろうか。
 以下は私の説であるから、それを鵜呑みにしないで、読者各位の解釈と比べてその真偽を判断してもらいたいと思う。
 「さしむかふ心」とは、ふと気づく自分の心のことである。気づいて意識するその心は自分に見えているものであるから、他人の心ではあるまい。しかし、それを「自分の心」だとして取り込むと、もしその心が醜い心であったらどうしよう。
 例をもって申さば、往昔、私が東京蒲田の小さい家で、50歳ではあるが豊満な女の隣の布団に寝ていたとき、胸にふと疼いた淫欲の思いを「これは我が思い」と取り込むのが厭だったから、咄嗟に自分にとって好都合な解釈を発明した。「これは女の邪念であって、それがこちらの心の鏡に映ったのだ」ということになったのである。だから、その後の事の発展は私の責任ではなかったことになる。私から呼びはしなかったが、女はみずから頭を私の股間に埋めた。私は心で女を呼んだのかな。それとも、女が私の承諾を得たとテレパシ−で直感したのかもしれない。女の色欲が蝋燭の炎となって、私の心の鏡に映ったというのは本当であろう。しかし、虚像の炎がまた女の心の鏡に映り戻るということになって、合わせ鏡のあの果てしもなく彼方まで連続する無数の炎となった。
 女の心鏡も私の心鏡もともに「清き水鏡」というのであれば、その「清らか」同士が何をしようと清らかな遊びであったということになり、万事めでたしに終わるが、果たしてそんなものだろうか。
 「さしむかふ心」は自分の前にふと現れる心である。それをあれこれ批判したり矯正したりすることは、色をつけたり垢をつけたりする所業である。「色つきもせず垢づきもせず」というのは、ありのままにそれを見ることであろう。手の下しようがない。
 あの場でもし、私が起き上がって、女に「君は今、私と肉体の交わりをしたいと願ったのではないかね」と尋ねたら、場はどのように展開しただろうか。女は恥じるだろう。赤面もして、「すみません」と蚊が鳴くような小声で答えるかもしれない。そういうときこそ「霊妙な仏心」が働き、私の口から「今夜はあなたの旦那さまがお帰りになるよ。そうだな、あと1時間ほどもして」という言葉が出たかもしれない。
 学生時代から、私はときどき何の欲望も思いもないときに、ひょいと遠方のことが見える(といってもスクリ−ンに見えるのではなく直感として)体験をした。例えば、「自由が丘の駅から、いま3人の霊友会の婦人信者が出てきて、我が家の仏壇の回向に来るよ」というようなことを私が母に洩らすと、母は半信半疑だったが、その通りになったというようなことである。だから、「霊妙な仏心」が働くままにしておけば、帰らないはずの夫が急に帰ることになったということも分かり、女の淫欲を冷ますこともできたと今は思う。あれはどうも潜在意識においてあの夫婦の心がグルになって、私を色欲の罠にからめ取ったようなものだ。
 それより少しあとになるが、やはり別の人妻事件が私の身に起こった。東京オリンピックの翌年(昭和40年=1965年)、私は武州府中に道場を設けていた。十数人の男女が修行していた。そのなかに土佐の田舎から逃げて来た人妻がいた。私たちは七曜と呼んでいた。私より一回り上の50歳だった。寅年だ。七曜は山岸巳代蔵が四国の巡歴をしていたとき、彼を自宅に接待して師事した間柄だった。七曜は私が彼女を知った段階で、農協組合長をしていた夫とすでに10年間夫婦であって夫婦でない関係だった。理由は夫の不倫である。七曜は耐え切れなくなって出奔し、武蔵府中の道場で起居していた。彼女が私を知ったのはやはり山岸会の縁で、あの会の図書室で私の著書の「Z革命の秘密」を読んでからだった。山岸巳代蔵はすでに病死していた。新聞テレビを騒がせた「山岸会事件」でお尋ね者になり、逃げ回っている途中、岡山の信者の家で脳軟化症で急死したのだ。
 土佐に残した夫は、置き捨てになった子女の養育に困り果て、まなじりを決して上京した。力づくで妻を土佐に連れ戻そうとしたのだ。
 道場には風呂もあったが、あの日の午後、私は急に銭湯に行きたくなり、独りで洗面器を抱えて風呂屋に出かけた。のんびり入浴して道場に帰ると、弟子たちが「大変なことがあったのです。七曜さんの旦那さんが急にやってきて、七曜さんに乱暴をしました。会主のことも、会ったら殺してやるとか言っていました」と報告した。七曜は帰郷を拒否したので殴られ、ブラウスをズタズタに破られたということだった。私は知らずして難を避けたが、あれは不生の仏心の作用ではないかと思う。当時の会は「日輪会」であり、私は「会主」と呼ばれていた。