彼の文章は、おそらく晦渋で、怪獣的でもあり、世人に対して懐柔的なものではないと予測していますが、知花敏彦のように「ご説、ご尤も」と人々を納得・信得させるものよりよほどマシと思っています。

 あ、それから藤原さんのような素朴な人からの問い合わせに対して、「僕ユキヒロはこういう人間です」という内容の経歴書(就職用のものではなく、友達用の)を是非用意してください。私もそれが欲しいので、お願いします。
 それから、そちらのFAXナンバ−が電話のそれと同じかどうかも、お知らせください。 ホンマ(本真)に"気"がすみました。これで終わりますが、余白が大きいので、番外として、何か私の古い文章を入れてみます。お元気でね。

               疑惑−−それはあなたの脚をよろめかす!

                                                   麟冬居士

31.思わず知らず(「私家版」の『盤珪不生禅』より)

 私は同じ話を何度も語る癖がある。しかし、事件から10年、20年、30年と経つと、おのずから回顧する私自身の目が変わってくる。最初は武勇伝として語ったことも、だんだん控えめになり、しまいには悔悟して、恥ずかしさのあまり口にしなくなるものかもしれない。
 父への打擲などは、1975年の父死去時に私は托鉢中で葬式にも行けず、四国徳島のホテルで独り号泣してお通夜をやったころからは、ただ申しわけないばかりの思い出となった。私が菩提心を発した元は、妹・桐子が数え年三つで配給の腐り牛乳のために病死したことだったと、どこかに書いた覚えがある。長男から無体な乱暴を受けた父は、その桐子の仏前で毎日泣いていたと、あとから母が知らせてくれた。まことに慚愧の至りである。父の鞭は当然だったが、鉄格子のなかに入れられた私は逆恨みをし、それを妻に向けた。「妻ともあろうものが、一切を秘密にしたまま両親と結託して私を騙して、こんな病院に夫を叩き込むとは何事か!」と鉄格子を掴んでくやし泣きをした。そして、心に誓った。「俺は今後一生、女を信用しないことにするぞ!」と。
 どうして、若い時は人生を広く全体的に見られないのだろうか。今だって、多少齢を取ったといっても、相対的に同じことではあるまいか。この先、もし寿命をいただいて、70、80の老齢になったとき、やはり66歳の自分を振り返れば、「ああ、何と未熟だったことよ!」と慨嘆することだろう。盤珪のように悟り路を真っ直ぐに行けば、法眼円明という老齢の報いもあろうが、はてさて私の場合は喃!
 盤珪禅師が江戸の麻布に庵を持っていたころ、一人の下男を使っており、その出家の志が殊勝であるので、彼に目を掛けていた。その男があるとき所用で、江戸はずれの寂しい所に出かけた。そこは辻斬りが出没するところだったため、回りの者が心配し、日暮れにかかれば一人では危ないと止めたが、いや大丈夫とその男は使いに出た。ところが辻斬りが現われ、その小者に刀を抜いた。このあとは、盤珪自身の説法をそのまま聞くことにする。
彼、小者とすれ合ひ、汝が袖を身に当てをったと申して、刀を抜きましたれば、小者が申すには、われら袖は当たり申さずと申し、何かなしにその辻斬りを三拝いたしてござれば、不思議の者なり、ゆるす通れと申して、その難を逃れました。
盤珪不生禅
【リン先生からの親書の一部】
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