サイババの神通力については諸書が紹介しており、私もサイババ・シリ−ズでその一部を語った。サンスクリット語では、真我を成就実現した人をシッダと呼び、そのような人におのずから備わるオカルト力をシッディと呼ぶが、シッディの現象面を見てその人が本当のシッダだということはできない。


37.示寂

 示寂(ジジャク)または入寂というのは高僧の死のことである。寂とはさびしいというよりも、動きのない死の状態を示す仏教語だ。
 盤珪禅師は1693年陰暦5月に江戸の光林寺での法座を終えてから、播磨への帰途につき、6月には龍門寺に帰りついた。翌日、随侍の者に「老僧、数月を出でずして世を謝せん」と言って自分の死期を予告し、これを口外しないように戒めた。8月には法座を開いたが、二日後に軽い病気の徴候を示した。周囲の者は医薬をすすめたが、禅師はそれをしりぞけ、平生とことならず談笑していたという。臨終が近いことを知って嘆き悲しむ者があったが、盤珪は「生死をもって我を見るものは、なんぞよく我を見んや」とたしなめた。
 周囲の整理、弟子たちへの遺言その他を全部すませ、9月3日になって朝から粥を召し上がらず、辰の時(午前8時)に釈迦と同じように右側を下にして寝室で寂した。(身体を右脇にするのは、もちろん心臓に圧迫を与えぬ安らかな姿勢だからだ。)

「身体温柔、慈顔生けるがごとし」と弟子が記録している。元和8年(1622年)3月8日出生から、元禄6年(1693年)9月3日まで、71年半の堂々たる生涯であった。火葬に付したとき、「火色五色、絶えて臭煙なし」と伝えられる。三日後に骨灰を収めたが、その舎利(火葬後の骨)は「瑩明晶徹」だった。エイメイとは玉のように明らか、ショウテツとは水晶のように透き通っていたのである。沢山の人が禅師の徳を慕って集まり、すべての骨灰を奇麗に頂いて去った。社会の各層にわたって、盤珪禅師に弟子の礼を取った者は5万人を越えたということである。顧みれば、「黒白貴賤の帰敬するもの、仏の世に現じたるが如し」と記して、伝記作者は筆をおいている。黒とは僧侶であり、禅宗だけではなく天台宗・真言宗・律宗その他にわたり、白とは一般庶民であり、儒者、神官、君侯、奴隷を網羅した。


38.おわりに
                                       於天神930531/1953
 5月10日に本書の稿を起こしてから3週間、5月末日におのずから脱稿となった。
 破格の本であって、書き進めるのにしばしば難渋し、ここまで読んでくださったかたがたには大変なご迷惑をかけたと思う。盤珪禅師を通して私自身を語ったというような書物であるから。
 私の品性の臭気で閉口されたかたもあろう。また、表現に真面目さを欠いたところもあったと思う。すんなり平易な言葉を使うべきときに、わざと難解な言い回しをしたところもきっとあっただろう。そのすべてにお詫びを申し上げたい。今の私としてはこれが精一杯だったというしかない。
 何よりも、盤珪禅師のみたまに心底から頭を下げる。私の学生時代からいろいろ教えていただいたことに感謝し、このような形でしかあなたの壮烈で慈悲ぶかい生涯を一般の人に紹介できなかったことをお許しください。もしまた、将来なんらかの機会が与えられたら、もっと成熟した見方であなたのことを表現したいと思っております。
 最後に、文中に何度もサイババについて語ったが、私たちと同時代の希有なアヴァタル(神の化身)について関心を持たれたかたに、私のサイババ・シリ−ズを読んで頂ければ幸いである。このシリ−ズについては、次の人が頒布の世話をしてくださるので、ご連絡いただきたい。
     松嶌 徹氏 560 大阪府豊中市桜ノ町5−8−6
              電話0720−28−6343


[終歌]
   龍門の寺の木彫あかあかと 漆の奥に君のまなざし

   煩悩のほむらの外の赤漆 とはに変はらぬ君の眼ひかる
                                    完
盤珪不生禅