王神 如風・著

  1. はじめに
                                        在天神940219/1347
 怠惰は私にあまり縁のない悪徳なのだが、昨日今日は夜も昼も眠っていた。限りない眠気に取りつかれていた。そして、夢を見ては楽しんでいた。いや、夢などは楽しみのなかにも入らないが、無抵抗の意識が夢につかまっていただけのことだ。目が覚めたら手紙が来ていた。それはやはり、怠惰が好きな一如青年からのものだった。答えるわけにもいかない。「私も怠惰をやっています。」それだけしか書けないからだ。
 『メ−ヘル・ババ序曲』という本を書いていたのだ。それが第7章まで行って、どうにも書けなくなった。ウツが私の意識を毛布のようにくるんでしまったからだ。あの本は永遠に未完成のような気がする。メ−ヘル・ババは私に限りない苦痛を与える。彼は「神人」(GOD−MAN)だと言われる。故に、神は私に苦痛を与える。私は仕方なく、ミニド−ナッツを食べている。その甘さが私にニセモノの楽しみを与えている。エルヴィス・プレスリ−はこれに似た空しさから過食症に陥り、肥満して心臓病で死んだ。42歳。私はむしろ少食少眠で、彼より25年も長く生きているが、今の状態は嘆かわしい。
 月に15万円分の食業は残っているが、それは1週間で済む分量だし、あと3週間は失業だ。同居中の元妻・愉美子は6人の子供を抱え、サラ金でどうにか凌いでいる。物質生活の暗闇から精神生活を切り離そうとしたが、祈りも瞑想も役に立たないウツに呑みこまれてしまって、今の「無」にいる。この本の題を『無より』とした。「無より」何が始まるのか。無から生まれるものがあるのか。また、あの眠気がやってきた。無理に目を見ひらいているわけにもいかない。
 夢のなかで、天然色の活劇ものと白黒の「響き」という映画を見た。白黒はつまらなかったので、途中でやめて目を覚ました。午後4時半になっている。いつもそうだが、夢のなかまではウツは追いかけてこない。たっぷり睡眠を取るとウツから抜けるということは、今までに何度もあった。ウツは生命エネルギ−の枯渇なのだろう。『メ−ヘル・ババ序曲』が書けなくなった一昨日の前の晩は、東京のコウジさんという友に、夜遅くまで通信テ−プを100分以上も録音していた。あれからおかしくなった。エネルギ−の使いすぎだったと思う。夢の世界は現在意識の少し下の浅い層である。だから、覚醒直後はその内容を或る程度覚えている。しかし、やはり階層が違うから、何もかも覚えているというわけにはいかない。
 世にもつまらない本を書いている気がする。問題意識がない。突き詰めたいというテ−マがない。自分が何かに燃えて、その燃え立つ炎のなかに読者を誘い込んで、いっしょに人々を燃やしてしまおうという熱意がない。ダイナミズムがない。ダイナミックな意欲がない。前に書いていた本、きっと『サイババ発見』のなかで、私は神に「私の意志を取り上げたまえ」と祈ったことがあった。「自分の意志」では神に到達できないことを知ったので、私の意志をゼロにして、そのかわりに、この心身を神の意志で満たしてくださいと祈ったのだった。その結果がこうなってしまったのかもしれない。それなら、何も神に文句を言うことはできない。
 『メ−ヘル・ババ序曲』の書き始めのころは、自分が悩む能力をも失っていることに気がついた。元妻・愉美子が生活苦に悩んでいるのを見ても、私は知らない顔をしていた。「なるようにしかならない」と思って、何を言われても黙っていた。悩みの加勢をしても問題は好転しないと思っていた。同情のできない無感動の元夫である。共通の子供6人がいる。彼らを育てるのは親の義務である。しかし、義務という言葉は空疎であって、私に訴えない。それが義務だと知っていても、私にはお金を稼ぐ能力がない。お金を掻き集める努力をしても、それが徒労に終わることを知っているので、もうそれをしない。神さまが私たちの家族に何らかの関心を持っているならば、何とかしてくださるだろうと思っている。しかし、メ−ヘル・ババははっきりと、「物質的利益を求めて神に近づいても、神は知らん顔をしているよ」と言っている。「奇跡専門のグルや聖者と、私は違うのだよ」とも言っている。「自分が本来神であるという最終的目覚めを願う者なら来なさい。そして、私を愛して愛しぬきなさい。そうすればいつか願いどおりにしてやろう」と言う。私からは、あまりに飛び離れた要求である。
 庶民的なサイババは、指輪でもネックレ−スでも病気治しでも就職でも、一般大衆の願いを簡単に叶えてくれるように見える。しかし、それは帰依者の信仰の強さに比例するようであり、またこちらがどんなに熱烈に乞い求めても、お恵みが下るか下らないかは、やはりサイババ側の気まぐれによるように見える。『サイババ思慕』という本を書いていた去年は、死に物狂いにサイババを思い詰めていた。その思い詰めの動機は、今と同じ失業と生活困窮だった。その思い詰めの効果かどうかは知らないが、3ヵ月悩み続けたら、仕事が天から降ってきた。もちろん、サイババの恩寵と思って感謝した。それから半年、食業に励んでから、また失業がやってきた。また、同じ思い詰めと悩みに入るのが必要かどうかということになると、私には判断が付きかねる。たとえ必要だとしても、喜んであの悩みを繰り返すという気は私にない。悩まないと幸せにならないという方程式があるのだろうか。あっても、私はそれを採用しない。べつの方程式を取りたい。悩んでも悩まなくても、幸福と不幸は人生の因果法則に従って、それぞれの時にやってくる。その辺で落ち着きたい。そして、この「まえがき」は終わる。

  1. ドとレが抜けている
                                       在天神940219/1749
 長崎県川棚町に「あんでるせん」という喫茶店があって、そこの店主が「サイババと肩を並べる」ほどの奇跡を行なうと、高校物理教師の衛藤陸雄さん(803北九州市小倉南区企救丘2−5−3、電話093−963−3997)が私家版の『気功療法士への道』第4部で書いている。超能力者の名前は久村俊英さん。30代後半、誠実、知的、ハンサムとある。手の平の上で電球を点灯したり、ティシュ−ペ−パ−を生卵に変貌させたりするという。500円玉に火のついたタバコを差し込んで穴を明けるという。その事実を私は疑いはしないが、彼に私の貧乏病は治せないと思う。カルマ的・運命的に私に引っ付いているこの貧病は、衛藤陸雄さんがやっている中川気功でも治せまい。シナの気功とはまるで逆の無限エネルギ−を用いるという「真気光」を放射する中川雅仁さんは、モスクワの病院に入っていたチェルノブイリの被爆患者200名を、5日間で全部退院させたということであるが、エイズも癌も治すという中川気功で、私の貧病が治るのだろうか。
 インド、アフリカその他の集団的貧困は、サイババですら治せないか治さない。ましてや、人口2800人のこの寒村・清川村で最貧困と思われる私の家族などは、目にも止まらぬと思う。みずから招いたカルマだから、これはそのまま法則に任せての放置だろう。神は法則の創造者であるから、たまには法則をくつがえして、物理法則を越えた奇跡を行なうことも可能であり、カルマ法則を消すことも例外的には自由だろう。しかし、やはり普通は、物を落とせば下に落ちるし、「あんでるせん」の店内のように、そこらで千円札が蝶々のように虚空をヒラヒラするわけではない。私の貧乏は、たしかに棚からボタ餅が落ちるのを待ってはいるが、そう簡単に棚ボタ現象が起きるわけではない。
 奇跡は人類の見果てぬ夢である。誰しも、逆境にある人は、娑婆という飛んでもない所に生まれてきたものだと嘆いている。だからこそ、人は宗教に走り、超能力に憧れる。ただ「清らかな人間」になりたいというだけの願いで、神仏を求める人は世界にいるのだろうか。いてもそれはごく少数だろう。生まれながらの盲が神の子・イエスにお願いして、
無より