こ目を開けてもらった。感謝感激して正しい善人になった人もあろうし、逆に見えるようになった目を利用して悪人の道に入った人もいたかもしれない。
 メ−ヘル・ババはアメリカで一回、インドで一回、交通事故に遭った。インドでは弟子の一人は死んでしまい、本人も大けがをして、その後遺症で生涯苦痛が残り、他界のときも苦悶の様子を見せた。長いあいだ沈黙を守ったこの「神人」が肉体を落とすときには、「言葉のなかの言葉」を発し、全人類は救われると予言したが、そのようなことは何一つ起こらなかった。普通の人は誰かの臨終の様子を見て、その人が本物の聖者であるかどうかを判断する。眠るが如き大往生で、死顔には微笑が浮かんでいたとか、死後硬直がなく、何日も死体が腐らなかったというような「証拠」があると、民衆は納得する。メ−ヘル・ババには納得性がない。私が『メ−ヘル・ババ序曲』を書きあぐねた理由はそこにもある。それなのに、事実として、メ−ヘル・ババの信者はまだ多数世界中に残っている。
 サイババにしても、愛する学生が二人もアシュラムの外で殺された事件が昨年起こったとき、民衆から、なぜサイババともあろう人がそれを防止できなかったのかという声が起こった。ごく普通の民衆の反応である。説明はいろいろ付いた。カルマ法則にサイババは干渉しなかったのだろう。所詮、肉体の死などはそれほど大騒ぎするようなものではなく、魂が輪廻の鎖から解脱するかしないかが大問題なのだからで、すべての解決がつく。
 しかし、輪廻のさなかにあって、今日明日のことであたふたしている人間にとって、そういう解説が救いになるのだろうか。狐狸庵先生の奥方の慢性の腰の痛みが、衛藤陸雄さんの気功でアッというまに消えたというような事実のほうが、人の気を引く。人類は徹底的にミ−ハ−である。ドとレがない。洞察と霊知が抜けている。

  1. 中傷
                                       在天神940219/1855
 神の悪口を書いている。これは冒涜の書となりつつある。神罰が当たるか。神を誉めそやす本を書こうとしたら、ウツの雲がやってきて、私の精神機能を封じてしまった。神を罵る本を書き出したら、悪魔が喜んで、魔王サタンが大群を繰り出して私を応援に来たとでも言うのだろうか。
 40日40夜の荒れ野の行で、悪魔がイエス・キリストに、「この石をパンに変えてみよ」と言ったとき、イエスは断わった。ちり紙を生卵に変える「あんでるせん」の店主は、ためらいもなく、石をレモンパンに変えるかもしれない。サタンがイエスに、「お前を世界の王様にしてやる」と言ったときにも、イエスは甘言を拒否した。私なら、やすやすと悪魔の誘惑に乗りそうである。超能力の有無は直接神の存在の証明にならない。悪魔でも幽霊でも、超能力くらいは操る。今のオカルト・ブ−ムの世界では、この辺がとことん曖昧になっている。中川雅仁さんは、治病の延長として、最近は霊障の処理をやっている。地縛霊を説得して病人の身体から引き離し、天界に上げてやる仕事である。中川気功の場では憑霊を受けている人たちが霊動を起こして、大騒ぎをするという。スブドのラティハン場でも同じような激しい霊動が起こることがある。スブドでは憑霊という説明はしないが、同じものだと感じる。サイババのアシュラムでは、そのような大騒ぎは一度も見たことがない。最初から憑霊者がサイババの傍に近づけないのか、光が憑霊を即座に消してしまうからだろう。
 中川雅仁さんは気さくで庶民的な人柄で、偉ぶらない好人物である。だが、去る2月11日に私が出席した大分市の体験講演会では、気のこもったバスタオルとハンドタオルのセットが一万円、気入りの飴玉一袋千円、ヒスイの首飾りなどは余り高価で覚えていない。すべてが市価の5〜10倍だったろうか。貧乏人の僻みでそう思うのかもしれない。しかし、本来無料の「気」がなぜ高価に販売されるのだろうかと、頭をかしげた。伊豆下田の1週間泊まり込みの講習会は40万円という。毎月一回というから、定員180人x40x12=8億6400万円になる。他人の懐ろ勘定をするのは下司(ゲス)だが、商売であることは間違いない。サイババは一切の金品を取らない。どこにこの違いが出てくるのか。いずれにせよ、貧乏な病人には手が出ない。サイババが嫌う中傷をまたやってしまった。中川さんに育てられた気功師が社会奉仕をしてくれることを望むばかりである。
 悪いものは見ザル、言わザル、聞かザルの三猿主義をサイババは説く。私は悪を見て、言って、聞いてしまう。だから、サイババの帰依者にはなれない。「怒りは最大の敵」と教えられて、ずいぶん怒れない人間になってしまったが、怒りの情念が完全に消えてしまったかどうかは分からない。「善いことだけを見て、聞いて、言って、行なう」のは最上であろうと納得するが、実行が伴わない。サイババの教えは私を縛り上げるので、苦しくて離れることにした。しかし、孫悟空と同じことで、どんなに遠くに逃げて行ったところで、そこには彼の5本指が虚空を貫く巨大な柱として立っていることだろう。
 私はサイババの「意訳」をすると、『サイババ発見』のなかに書いた。普通の日本人の民衆のなかに自分を戻して、普通の考え方と感じ方でサイババを表現しようと思ったのだ。それが『無より』である。徒手空拳である。手持ちの駒は何もない。美徳も善徳もなく、適当に悪人である。

  1. いつものどん底
                                       在天神940220/0007
 まったくどうでもよいテレビを見ているうちに、真夜中を過ぎてしまった。なかんずく、伊丹十三監督の映画は、いつもながらつまらなかった。そんなものを飛び飛びながらも見ていた自分自身もつまらなく、腹立たしい。夢と同じで、あの実体のないテレビの世界に私は逃避していたのに違いない。今はスイッチを切ってあるが、あと16分してまた劇映画が始まれば、懲りもせずスイッチをONにすることだろう。自分自身に直面するのが嫌なのである。直面すれば、いま書いているようなことをキリもなく書き連ねるだけのことだから、それは苦痛以外の何ものでもない。何も考えず、何も表現しなければ、それでよさそうなものであるが、意識を保っている以上、何かを考えないわけにはいかないし、それを言葉で表現しないわけにもいかない。心と言葉を持った人間の宿命みたいなものである。すべての人間が私みたいであるはずはなかろう。みな、何かもっと面白いことをして時間を過ごしているのだろう。何をしていてもつまらないという人間は案外少ないのではないだろうか。それ故、私のような種類の人間は鬱病者ということになってしまう。表現できるだけマシということで、医者は「軽度のウツ」とでもレッテルを貼ってくれるだろう。しかし、それはそれだけのこと。レッテルでウツが治るわけではない。
 大変な本を書き出したものだ。捨て小舟の漂流記とでも言おうか。こんな漂流がどこまで続いてゆくものだろうか。たしかに正直を誓って書いてはいる。ウソは書くまい、飾りごとも並べるまい、とは思っている。しかし、人間のありのままとは、こうもつまらない
無より