無より
天才的と思っている場合もあるし、ゲ−テのように、万人が天才と認める場合もあります。故に、躁鬱症を天才病と呼ぶ人がいます。分裂病はあまりそのようには呼ばれませんが、エドガ−・アラン・ポ−は分裂病と言われていたのではないでしょうか。そうなると、精神病的分類と関係なしに、天才は天才であり、凡人は凡人だということになるのかもしれません。相変わらず、パラグラフが長くなっています。
 今は5:22AM。かなり速いスピ−ドでこれを書いています。しかし、これでもウツのはずです。ソウになればソウウツの話は自動的に止まるはずですから。この手紙はおそらく非常に長くなるはずです。この書式だと、1文書は4頁で終わりになります。これを書くという内的自己刺激によって、幸いにも(つまり、うまく行って)、ソウ転するならば、その時がこの手紙のTHE ENDでしょう。この手紙を書くことに興味を失うでしょうから。
 ある医者が、ウツ患者を眠らさないように、周囲にロックの音楽をガンガン鳴らしたりしたら、その不眠の果てにソウ転したという治験例を前に発表したことがあります。そういうソウ転が永続したかどうかは知りません。一時的ではなかったかと、私は疑っています。それにしても、自然の経過にまかす以外にも、意識で意識に(つまり、脳作用に)何らかの働きかけをして、それが脳内物質、きっとあのアナンダマイドというマリフアナに似たアミド物質のようなものを生成して、ウツを解消するということが可能ではないだろうか。私は患者でありながら、今は医者みたいな考え方、または仕事をしています。化学物質は副作用が多いし、それは単に、ソウの上端とウツの下端をチョン切るだけのことしかしておりませんから、精神活動による脳内物質生成への促しということを考えているのです。今のような思考活動がそれです。ウツ患者はウツという状態にしか関心が持てないという事実を逆用して、ウツ患者にウツのことを徹底的に、ほとんど無限に、ヘトヘトになるほど語らせたらどうなるかという実験を、私はやっているようであります。これは長いセンテンスになりました。パラグラフも長くなりました。
 つまり、ウツ患者の愁訴を最大限にまで持って行って、言わば患者がトコトンわめけば、生体のなかにある魂とでもいったものが、これは放っておけないぞと活動を始め、ウツを消すアナンダマイド(ほかにも将来他の物質が発見されるかもしれません)を製造するのではないかということです。サイババは、神は人が願う前にその内容を良く知っているという考えもあるが(それはバイブルにイエスの言葉として出ています)、神は母親のようなもので、乳児がワアワア大声で泣けば、駆けつけて乳房を含ませるというところがあるから、神への願いや求めは、はっきり意識化して言葉に出して言いなさいと、クリスチャンの米人ヒスロップに教えたことがあります。そして、祈り乞い求めるのは、神に対する人の義務だとも言いを続けています。しかし、極めて倫理的な団体なので、ダルマを守るという点では、他のどのキリスト教グル−プよりも清純ですから、サイババが最高のアヴァタ−ルであり、サチャ・サイババが言うとおり、彼が「イエスを地上に送った天の父とは自分なのだ」と宣言したのが事実であれば、サイババはあの「エホバの証人」を可愛がって、その発展を助けているでしょう。奇跡願望が利己的・物質的であるということを、何度も強調するサイババだから、奇跡を無視してダルマ生活を主体とする「エホバの証人」たちは、ヒンドゥ−教徒以外では、サイババ最愛の人間グル−プではないかしらと思います。

 ウツの話から、私は離れて来ています。泣き叫ぶ赤子と母なる神。ならば、私の失業による貧困も、私は大声で叫んで神に訴えるべきです。どうせ神は私などに大した関心は持っていやしないやとか、貧病治しの妙薬などあるものかとか、棚ボタは落ちやしないとか、タカをくくっている私は、ひもじくて泣いている赤ん坊ではありません。武士は食わねど高楊枝みたいな生意気な人間です。今多くの日本人は、アフリカやインドのような極貧に呻いているわけではありません。大借金を招いても自己破産か何かでお茶を濁せる社会です。しかし、『教皇予言』の社会が来たら、とても今みたいにテレビを見て旨いものを食べて時間潰しをしているようなことにはゆきません。天理教祖ミキは神の迫りで全財産を放出し、水しか飲み食いするものがないというところまで落とされました。そして、その後に奇跡力を授かり、あの大宗教を作りました。貧乏と奇跡がリンクしています。
 『無より』という今書きかけの私の本は、きっとこういうことを結論としたかったのでしょう。この長い手紙をあの本の一つの章に使ってもいいなと、いま思っています。私の貧乏の結末がどうなるかは、あの本の範囲をはみ出すでしょう。私が「私家版」を書き続けてゆくうちに地球と日本社会の大動乱が、私の著述にかぶさってくるでしょう。語り部として私は語り続けてゆくでしょう。語る力を完全に剥ぎ取られるまでは。
 私はここまでを読み直し、整理して、『無より』のなかに嵌め込みます、そして、プリントアウトしたものを一部あなたに郵送します。結びの言葉は、全人類に贈りたい次の一行です。
             いつもお元気・快活であられるように祈っています!

                        王神 如風
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