去る8月に名古屋で開かれた牧野元三君の講演会でも、彼は明言しました。「ダルシャンのとき、スワミの傍に座れたとか座れなかったとかいうことはどうでもよいのです。病気の奇跡的治癒があったとかなかたとかの問題も同じ次元です。物質化現象の有無も同じです。最も大切なことは、人生苦からの離脱、モクシャと呼ばれる最終解脱です。」
 まことにその通りと、私は昔のまな弟子の神我実現を祝して涙しました。物質化現象の
奇跡を通じて、サイババが衆生を引き付けてきたのは、それを機縁として、人類が「真に求めるべきものを求めるようになるため」の方便でした。
 名古屋のその会で、或る人が立って質問しました。「解脱を約束された牧野先生には、どんな超能力が備わっているのでございましょうか?」元三君の答えは簡明でした。「そ
んなものはありません。」
 牧野元三君は私との16年間行乞中に、ベッドの上で空中浮湯をしたこともあったし、P K的に機械のの故障を直したり、手のひらで病気を治したりしたこともあります。私自身も神戸で心臓が止まりかけたときに、彼によって救われたことがあります。それにも拘わらず、彼は自分自身の起能力を否定しました。オカルト志向は、神を知らないエゴ人間の誤った目標追求にしかすぎません。
 目覚めた人々に、今や静かに内面的変化が進んでいます。肉体の滅亡や財産の喪失などは全くどうでもいいのです。それより一刻も早く、「神とともに生き、全被造物=creature を無我無執の愛で包む人生」に切り替えるべきです。


ダルシャンの情景
                                         在天神941005/1409
ほっからかしの菜園が気になり、26日ぶりに見にゆきました。鶏糞と木灰とEM の元肥が

                      ー6/8−
まだ効いていて、牛芳は盛んに茂っていました。茄子も旅立ちまえに剪定してあったため、大きな実をたくさん付けていました。ピーマンも生り続けていました。唐辛子は実が多すぎて、とても一家では食べられないことが分かりました。韮は旱魃のため、早めに薹(トウ)が立ち、白い花をつけて、ちょっと食ベられない状態でした。蔓なしインゲンはもう枯れていました。愉美子は蛇が柿くて、この10畳分の菜薗に入り込まないので、雑草はギツシリ生えていました。5人の子供たちも、農村に住んでいながら、農業には全く興味なし。今は筑後市の大谷短大の寮に入っている長女・王玉は、この家に暮らしていたころ、胡瓜と茄子の苗の見分けがつかないほどでした。それが今の日本の子供たち!
 ソウル・オリンピックの頃の韓国では、「農は国の大本」という大きな立て看板をあちこちに見ました。今、日本が農作物を買いつけている発展途上国もそのうち農業難れを起こすのは、充分に予測できることですから、そのときになってジタバタしないように、日本人は農業の振興lこ努力せねばならないと、私は前から痛感しています。
 Zグループ30人はほとんど都会の人たちでした。ために、プッタパルティのあの雑踏の門前町で、ささやかな露天商を出して、あのひねこびた栄養不良の野菜を売っている痩
せこけた農婦を目にしても、何にも感じなかったことでしょう。プッタパルティではあばら骨の出た犬がたくさんおりましたが、気候と地味(チミ)の良いホワイトフィールドでは、割合肥えた犬がいました。どちらにも猫はほとんど見かけません。
 スワミのご移動とともに、私たちはプッタパルティに数泊後、ホワイトフィールドに移りました。ヒンドゥー教のお祭りに来ていた印度人群衆は、遠いホワイトフィールドに移動するような財力を持ちませんので、ホワイトフィールドのアシュラム(ブリンダヴァンと呼ばれています)の群衆は殆どが外国人で、たまに印度人が混じっている程度でした。
 ダルシャン場は、皆さんがたぶん写真でご賢になったように、上に簡単なプラスティックの屋根があるだけです。その手前の空地で整列して、くじ引きでどの縦列の人たちが最
初に入場するかを決めるのですが、その整列場に入る前段階にも、皆が待っている場所があります。整列開始の合図があると、多くの人は先を争って走り出します。ところが、そ
ういう人たちに限って、くじ引きに外れて後から入場するのを、私はじっと見つめていました。「焦れば神から遠ざかる」というサイババの教えを思い出していました。日本人には走り出す人が少なく、寝坊して遅く看いた人ですらも(私がその一例)、なぜかスワミのお通りになる場所の近くに座れました。
 ブリンダヴァン最後のダルシャンでは、日本人グループは、慣例に従って、真っ先に入場できました。私は通路の横から二列自でした。私の斜め左に座った徳島のアキラさんは、直接スワミに話しかけて “Interview Please!” とお願いしたようでしたが、スワミは通りすぎて行かれました。その後ろにいたハヌマン(私が付けた仇名です)は、お盆に沢山のキャンディーを用意していました。スワミはそれを快く祝福してくださり、幾つかを日本人グループの頭上に撒いてくれました。ダルシャンが終わってから、ハヌマン君はそのお盆を頭頂に乗せたまま座っていましたら、他の外国人や印度人が回りに集まって、そのキャンディーを手に手に取ってゆきました。
 昨年2月の第一訪印のときと違って、私には何のお願いもなかったので、ただお礼を申し上げたかっただけでしたが、やはり毎日泣いてばかりいました。去年よりらに奥のカルマが洗浄されてゆくことを実感しての有難涙です。去年の2月の初ダルシャン以来の、死にそうにも感じた14カ月の魂の苦悶を思い出し、その後の物心両面の鮮やかなお救い上げにに感謝して大泣きをしていたのでした。
 これを書いている今でも、涙がこぼれて仕方がありません。私の背後のアイワ・コンポで、サイババ大学の男女学生によるバジャンの合唱テープが鳴っています。
 私は「アガスティアの葉」にも、ハラガッパ先生の孤児院にも行きませんでした。沖縄

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の求道者から預かった20万円は、孤児たちへの寄付ということでしたから、それはハラガツパ院長の親友のE・アショカン氏に委ねました。
 「アガスティアの葉」は naadi と呼ばれています。あの「葉」を扱う占い者は、バンガロールにもマドラスにもいましたが、私はもともと運命判断に興味を持っておりません。Zグループからは7人の旅友が、飛行機で遥か南の「葉の村」に飛びました。そのうち5人は失望して帰り、2人は大喜びで帰って来ました。その内情を詳しく語る“気”は、今の私にはありません。アムリット(またはアムリタ)を戴きには、かなり多数の人がチャータード・パスで行きましたが、あの奇跡を疑う人が多かった事実には、私はつくづく驚きました。ビブチですら、疑う人は多いのですから、それも当たり前かもしれません。モノの次元でサイババを知ろうという人は、感動もしないし、多くは失望して帰国します。しかし、そういう「感じない人」ですらも、帰国して数カ月または数年経てば、自分が現人神(あらひとがみ)の恩寵と運命修正を受けたことに気づくはずです。


乞食に怒った私
                                        在天神941005/1510
 いつもの2倍量になろうとしているこの10月号です。プッタパルティでも、ホワイトフィールドでも、私はアシュラム外の印度人旅館に泊まりました。アシュラム内は静粛が守られ