在天神940802/2159

瞑想の二大別

 KMとは「気瞑想」または「拡散瞑想」あるいは「解放瞑想」の日本語のイニシアルを採った略語です。
 拡散瞑想とは集中瞑点に対するもので、あらゆる瞑点はこの二つに大別されます。
 「集中瞑想」とは、神仏または礼拝の対象(特定の聖者、大師、グルなどを含む)のイメージ・画像を用いたり、あるいは集中を助けるマントラ(真言)や題目(法華経のような)や神仏名(南無阿弥陀仏や南無天理王命など)、さらに大師名号(南無大師遍照金剛など)を使用する瞑想です。蝋燭や水晶球を用いる瞑想もこの部類に入ります。その根本は、集中によって雑念を払うことにあります。
 これに反して、「拡散瞑想」は意思による集中を廃して、神仏または大自然・宇宙などの超絶観念(同時に実在)に自分の心身を打ち任せることから始まります。宇宙人と接触したと言われるアダムスキーが勧めた瞑想法もこれですし、インドネシア発祥のスブドにおけるラティハンや、ランドーン博士の「内的筋肉解放法」などもこの部類に入ります。(ランドーン法ではイメージ法を補助として用いることもあります。)
 拡散と集中は、一枚の紙の両面のようなところがあり、結局は一つとも言えます。なぜなら、拡散瞑想の極致は無心・無念・無想の境地であり、その「純白の無」に心身が集中してしまうからです。また、拡散瞑想中に体験される自然発露の身体の運動、呼吸変化、発声発語、神的・霊的な諸感覚(眼・耳・鼻・舌・鼻を経由する)には、「おのずからの集中」が生じるからです。
 集中瞑想は意思的であり、その意志が逆に働いて、自我意識を超えられないという難点
があります。たとえば、超越瞑点(TM)では、マントラを頼りにしますので、マントラを忘失したときには再びマントラに戻れと指導されています。ところが、そのマントラという道具が邪魔になるという瞑想者もいるのです。


KMに入る準備

 密室による独修であれば、裸体も構いませんが、普通の場合は、ベルトなどによる締め
つけのないゆったりとした衣服を着ます。ベルトが必要な場合には、なるべくベルトを援めます。ポケットから固形物や音の出るものを除きます。時計、指輪、ネックレース、総入れ歯などは外したほうがいいでしょう。 
 室内の照明はなるべく弱めます。真っ暗だと不安が起きる人もいるので、薄暗がりにして、周囲がぼんやり見える程度がいいでしょう。BGMその他、瞑想を助ける音楽は用い


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ません。気を散らすからです。
 身体をくつろがせてから、めいめい自分にとって楽な姿勢を取ります。自然体で立ってもいいし、正座や胡座でもいいのです。椅子のほうが楽な人はそうしてください。仰向けに横たわるのもいいですが、冬期は風邪を引かないように、足lこ軽く毛布などとを掛けてもかまいません。この場合、眠っても差し支えありません。また、KMの進行中に体位を変えるのは自由です。


先達・ガイド・イニシエーターの存在

 KMに熟練した人が「場」を作りますが、その人(日本語で先達と呼びます)の動作や発声・発語に注意を集める必要はありません。K M修行者は、めいめいの内部にある絶対者(神仏を信仰していない人は真理・大自然・法則のようなもの)に、全てを投げ出してKM行に入ります。
 これは音叉の共鳴に似ています。先達の魂音叉が鳴り出すと、その波動が参加者の魂音
叉に働きかけ、自然に共嗅が始まります。しかし、それは先達から来るものだと思うより、自分の奥底からの共鳴だと受け取るほうが正しいのです。先達に依存するのではありません。


内部からの動きや促しにブレーキを掛けない

 眼を軽く閉じて、KMの場に溶け込んでください。
 内部から身体を動がしたくなったら、素直lこその衝動に従ってください。欠伸でも背伸びでも、そのまま出してよいのです。呼吸を静めようと意志を使うことは不要です。必要ならば呼吸が激しくなることもあるからです。
 思いもかけない現象が始まっても、何も考えないことです。KMが終わってから、先達lこ質問すれば説明が得られますので、KMの場では頭脳知を一切使わないほうがよいのです。
 また、感情もゼロにしてください。無理に敬虔なうやうやしい感情を起こそうとすると、それが邪魔になります。
 無心・無感のまま、終始「おまかせ」です。
 素直は神への道、未知は恐怖の因ですが、その不安や恐怖も捨ててください。
 最初の段階では、周囲の気配や物音に全く注意を向けず、自分自身の内奥に入る気構えを保っていればよいのです。


所要時間と終了

 初期には20〜30分で充分でしょう。終了は先達が皆に知らせます。

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