民生委員が来ます
                                        在橿原980520/0755
 電話したら、心配していた森川民生委員がまもなくお見えになるそうです。
 今日は30度近くまで気温が昇るという予報で、朝からすがすがしい爽やかな夏の朝のようです。私は4時に起き、6時にはおなかを空かし、自分でまた蛤のお汁を作りました。昨夜3個で、今朝の残り3個は少し古いと思って味噌味にしました。果たして、どうしても口を開けないのが一つありました。死んでいたのです。むかし、私だか誰だかが死んだハマグリをこじ開けて食べたのを見たような気がします。駄目ですね。食料危機の時代と違って、今は当時いなかったバクテリア類がうんとこさ存在するはずです。捨てました。
 テレビを見ていても、なにも邪魔になりません。CMだって、そのまま流せるほどです。ただわたし、頭が本当に馬鹿になったみたいで(多年の夢)、ほとんどアタマ(mind)を使わずに、TVを見ています。考えずに「気」で見ているだけです。だから、手紙を書きながら、そばにCMが鳴っていても、さほどうるさいと思いません。手紙に気が向けば、テレビには気が行きません。TVはあって無きがごとしとなります。モ−ツアルトが、村人と世間話をしながら、名曲を五線紙の上に書いていたというのも、この境地でしょうね。また、キリストが弟子たちをよそに遣わすとき、「その時その場で言うべき言葉は、その都度、おまえたちの舌に与えるから、何も心配しないでいいよ」と言ったのもそれでした。 弟子はほんとうにポ−ッとして馬鹿同然になって、その大事なイベント(会見やら申し開きやら)に赴いたのです。脇から見たら、全く阿呆同然でしたでしょう。「お暑いお天気ですね」と話しかけられても、「はあ」と言って相手の顔をマジマジと見つめるだけでは、馬鹿よりは気違いと思われたかもしれません。私も今そんなふうです。

 ところで、民生委員が来たら何と言おうか。ほら始まった。マインドによる予定計画癖が。いらした。私は簡明に本心を言いました。(1)鬱病が突如消えたこと。(2)もうあの病院に一歩も近づきたくないこと。民生委員は快諾しました。彼はウサギ年で、私より一つ下ですが、腰が曲がっており、見たところ私より年長者のようです。やれやれ。

何事も急がずに
                                       在橿原980520/0848
 あと2時間ちょっとで、畑田キミコさんが来ます。痛いお尻では満足な接待はできませんが、逆に向こうがお茶を入れてくれるようになるのかしら。
 この[かしはら通信]を書き出すまえは、大急ぎで「至急特報」を書こうと思っていましたが、自宅に落ち着くと、また気分が大きく変わりました。食えなくなる・カネが欲しいだけでは、どうも私の全心身を動かすエネルギ−にならないのです。
 その辺の要点だけ記せば、
 1)イチのみなさん(というよりあなた)のご喜捨が、笊の目から漏れる水にならないように、私は福祉の役人にウソをつきとおします。「イチ同胞団」からの寄進は、一般の寄付とは違うと、今の私ははっきりした信念を持っています。
 2)「神立銀行」の頭取さんのお声がかかったら、あなたの窓口を開いてください。
 3)いずれ50万円くらいがいつも自由になる身の上となったら、書く内容も大きく変わってくるでしょう。恒産なければ恒心なしは孟子の言葉ですが、私は昔からこの格言を馬鹿にしていました。コウサンは安定した財産、コウシンは安定した精神のことです。もちろん、イエスさまは皮袋一杯の宝石を寄進されても、翌日には全額を貧民に施してしまわれましたから、あのかたは人間というより神才・神の子です。私らの真似ができるお方ではありません。ただ、「キリストをまねびて」という古典があるように、われわれは真似をするだけです。目標がイエスさまなのです。

 イエスさまは、何事もせかせかとはなさいませんでした。わずか33.5年の生涯でも、彼がせっかちだった瞬間は一つもありませんでした。70台に入った私がウロチョロセカセカしたら甚だみっともないことであります。
 この[かしはら通信]も、16ペ−ジでゆっくり完結しましょう。そのうち、また二人のホ−ムヘル−パ−が来てくれると思います。

畑田キミコ来着
                                        在橿原980520/1106
 今、橿原神宮前駅からキミコちゃんが電話を寄越しました。橿原タクシ−の電話番号(22−2828)を忘れての問い合わせです。不思議なことに、私自身がその瞬間その番号を忘れていました。ふすまに貼ってある番号をゆっくり読み上げました。彼女は息をハアハアいわせていたので、きっと、彼女の呼吸が静まるまでは、私の都合でその番号を言うわけにいかなかったのでしょう。畑田キミコ(敬称と愛称ともに省略)のタクシ−が着いた物音がしました。

 午後2時7分。キミコは私に出前でチャ−ハンを奢ってから帰ってゆきました。私は実験でレッドを飲み始めました。頭痛がこない。アル中は変わらずか。ウツだけが抜けたのだろうか。飲んでいれば、またウツが戻るのかなあ。飲んでも飲まぬでも、ウツでもソウでも、「根は変わりませんからね」と昨日、松嶌徹さんが電話で言っていました。
 断酒・断煙になったといえば、信用度は上がるのでしょうかね。でもどうもおかしい。今わたしは飲んでいます、吸っています。
 キミコと俗話をしていたら、やたら飲みたくなったのは事実です。そんなことよりは、ブラウン・ランド−ン博士の話の続きをしましょう。

あと三日で死ぬ
                                        在橿原980520/1440
 ブラウン・ランド−ンは1945年に、「98歳で健康のまま他界」しました。なぜか10月10日が命日。村井英人の手紙を思い出しませんか。
 博士は73歳のとき、一流の心臓専門医たちが「あなたはもう三日しか生きられませんよ」と宣告しました。絶対安静が必要だというのです。ところが、博士は診察室を飛び出して、自家用車を駆って50マイルもぶっつづけに走り、自宅の書斎に入ると、自分が死んだあと協力者に続けてもらいたい仕事のリストを、綿密に作成し始めた。(このあたりは、自分の1960年の文章の引き写しです。)このときの仕事量だけでも、もし彼の後継者がこれを受け継いで完成したとしたら、10年はかかっただろうと、私の文章にあります。
 「そして、ブラウン・ランド−ンは死んだか。いや、その後かれはさらに25年も生き延びたのである」と私の文章は締めくくっています。
 自分で自分の文章を引き移していたら、だんだん当時の意識になってきて、今の「ウツが抜けたはずの」意識があやふやになってきました。REDを飲んでも頭痛は来ない、タバコをのんでも首肩が凝らないという妙な状態になっています。面倒だから、広田酒店に菊正宗を注文しました。あれ、いよいよ形は元どおり。
 畑田キミコが来る1〜2時間前から、身体が寒くて寒くてたまらなくなり、冬の服装以上に厚着をし(室温23度)、ふとんに潜ってガタガタしていました。これは霊的現象だとは分かっていました。彼女が辞去してから、また身体が暖かくなり、いま一枚一枚と衣類を脱いでいます。あのキチガイ病院でも、私は多くの霊障を受けたと思います。とにかく耐え切れなくなって
かしはら通信・その1