んなこと上手くゆくはずもないが)が、私の中心問題ですし、知的部門は多少の興味とリサーチの忍耐があれば、いつでも出来ることですから、本当にそれはどうでもいいことなのです。
 たとえば、あなたが言った「愛せない」、つまり愛が零れない、溢れ出さないという現象が一番大切なのです。ツルコは保育園のウンコ垂れの幼児の世話をしながら、「自分ははんとに愛のない人間だ」と悩みに陥りました。シャーリーに言わせると、自分のネガに罪意識(自己叱責)を持つと、もっとひどいネガになるというわけですが、それを消すというのは、pent−up情念を爆発させることではなく、無限にそういう自分を赦してゆくことだというのですが、それに気づいた彼女は、映画TV仲間で女王のように振る舞いだしました。あるいは女預言者のように、あるいは女神のように。

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書簡集リスト
 そういう道は、むかし私自身も辿ったような思い出もあり、何か懐かしい感じがしますが、シャーリーの悟りが私にとっても最終であるとは、どうも思えません。
 Yが寝所(和平、通子、日女と一緒の6畳)に入る物音がしました。01:13です。
 ヘコキムシを13匹つかまえたと、彼女が言っていました.田舎ですから、臭い虫ともゲジゲジとも同居です。また、猫の赤ん坊が5匹生まれたそうです。私はそれどころではない。アルの力を借りてでも(LSDがあったらなあ!)、このウツから脱出して、畑にトーモロコシとインゲンの種子を蒔いて、ナスと胡瓜とトマトの苗を植えたい。明るくなったら、床屋にも行きたい。無礼無関心粗野な村人にハラを立てない爺になりたい。村民は完全なエゴイストです。人間はみなそうだし、勝手至極なものだが、都会人とかインテリはそこらへんをカムフラージュしているから、本当の人間の姿というのは田舎でないと分からないのです。デリケートな思いやりなどは、自己満足で終わってしまい、イナカ民族には蚊が刺したほどの価値もない。金持ちか、みんなにバラ撒いてくれるかぐらいが、判断基準です。
 だから、紳士顔もインテリ顔も優しい顔も宗教顔もナンニモ要らない。ありのままで、プスッとしているならそれでいいし、会う人ごとに喧嘩を売ったって、それでいいわけだ。神経無用です。カイチョウには思いも寄らぬ世界でしょうな。
 そこへカルマ説が出てきて、ネガOH!NO!ということになると、またサイに掴まってひどい目に会います。
 PACE早すぎだと零眼は言った。(涼顔のことです。)サイの足取りは速いのかね。もし、そうだったらついて行かないほうがいい。息が切れて早死するから。
 サイにはPACEなどないのではないかね.無理に言えば、0〜∞なのだろう。
 小さい津を好むのもそれは自由です。彼の道だから。みんな勝手に自分の道を選べばそれでいいのですが、一番むずかしいのは他人の道ではない自分の道の発見です。それは発見するまでもなく今歩いているではないですか、と喜界島の神父さんは私に説教しました。私はうべなわず、ゴールをまたもや無限際に置きました。しかし、ほんまにくたびれた。道は捜すから、かえって見えなくなるので、今は今のまま、私の場合ならウツはウツ、そこから逃げようもないとあきらめて、それで終りというカミガミの筋書きが、なかなか読めなかった。
 私がソウウツだ、キチガイだと宣伝すると、ほとんど全ての人が私を忌避して、遠くに逃げて行ってしまいます。それに犯罪や110番をからめると、絶対的に私は孤独になります。それを臆面もなく、ずっとやってきました。(それが自己設計?)
 そして、世間のさまを見て、絶対エゴイズムが人類社会の本質だということを、怒りながら骨身に染みこませてきました。(泣かなかった!)
 みんながそれをやっているのだから、それを私もすればラクになるのです。現に、Yはそれを毎日立派にやっています。ところが、このリンサンは宗教的教養が邪魔して、みんなのようになれなくて、独りでむだ骨を折ってきました。
 そりゃそうだ。前世を言えば、私は暴政を布いた帝王だったから、人民の大反撃も受けました。ロマノフ王朝みたいな非業の最期はあまり思い出せませんが、対極の乞食の貧乏は何度もやってきたようです。故に、私は乞食が懐かしい。財宝と栄誉の儚さは、誰よりもよく知っています。学者の世界の底の残さもよく知っています。ところが、貧乏と人からの悪罵と打擲は、これこそ底に着いた底ですから、インチキもたばかりもない、本当の安心がありました。
 その懐かしさはありながら、今回の生は縮約版、凝縮resumeでありました。大急
ぎで出来るかぎりの前世復習をして、どうしても70歳までにはそれを済ませ、あと何か新しいものを創造しなくてはなりません。

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