シバ神の破壊

天鳥さん!
                                     於天神920808/1819
 必然性がないので、やはりDECOPに気が移らない。
 食業はやらないと、自分と家族が餓死するとか、ホ−ムレスになるとかいう恐怖が支えになっています。
 恐怖が土台になっている活動に碌なものはない。
 そんなものを本気でやりたいという人は、いったいこの世に一人でもいるのかな。
 大体、眠い。眠さがまず邪魔をする。いそいそとやれるときなら、眠気は来ないだろうな。
 台風は去って、近所被害が何万円とかそれぞれ言っている。うちも、紅葉の木が折れたり、瓦が飛んだり、何万円かに相当するのだろうが、そんな計算に興味がない。いまは、やはり眠ります。18:24。

 20:25に目が覚めました。もう、台風の気配全くなく、周囲静かです。「霧の旗」まで30分もない。そんな半端時間に翻訳などやれない。9時2分から10時54分まで、このフィルムは続きます。そのあと、必然性がなくても、食業がやれるのだろうか。やはり、そこまでの意識になるかどうかが問題です。金は要る。鳩さんは蟻さんたちに紙幣という名の葉っぱを落としてやらないといけない。そうしないと、蟻たちは飢えてしまうのです。溺れて池の中に沈没してしまうのです。そこに、鳩の哀れみがあって、鳩は葉っぱを運んでくるのでしょう。君たちは食業をチャンとこなして、それから娯楽としてビリア−ドをやる。世間は文句を言わない。私は世間のすべての人が当たり前としていることの第一歩で足が動かないのです。
 月給鳥という鳥が嫌だったのは、20代からでした。だから、鳥部分の仕事を余儀なくされながら、ほかのことに意識の中心を置き、家庭を作っては壊すことばかり考えてきました。そして、それを実行してきました。何も変わっていません。
 松本清張は朝日の正社員ではなく、雇員の身分で、つまらない仕事を割り当てられ、こつこつと研究を続け、作家として身を立てようとし、芥川賞を取ってから成功しました。辛抱をしたのです。山頭火は初めは実家の酒屋を継ぐつもりだったのでしょう。趣味の自由律の俳句のほうが好きで、家業を潰してしまい、酒も好きだったし、女房は逃げてしまいました。尾崎放哉は東大出で保険会社に勤めていましたが、続かず、あの通り放浪の俳人となり、小豆島の小屋で貧窮のうちに死にました。作品のレベルは放哉が遥かに上ですが、ふたりはよく対比されます。生活が似ていたからです。そして、死後の人気度は前者のほうが上で、映画すら作られたが、後者は世間的にはそれほど知られていません。いずれにせよ、世間的成功を断念した人たちで、一般の食業をせず、乞食という最低限度の食業(これも仕方なく)をやり、死ぬまでは生きていました。詩人ではあるが、脱俗僧の生き方に似ています。
 そういう「異人」はどこの社会にもいるものでしょう。私もそれに生まれついてしまいました。それが私の持ち前です。あの二人は俳句が本業だったのでしょう。それとも、俳句に表現される前の内面生活が本業で、作品はたまたま生まれた排泄物だったのかもしれません。しかし、やはり井泉水を感心させるような名句を物したいという「野心」はあったのでしょう。私にはそういうものもありません。
 若いソクラテスは徴兵で戦争には行ったが、これは食業ですらなく、歩哨に立って哲学していました。中年になったら青年と話し合うことに生きがいをもっていました。私もそれに似ています。相手はだれでもいいのですが、素材はおのずから限られています。

 「霧の旗」を見た。シバ神の話であった。破壊を徹底するためなら、すべてを、自分の一番大切な物も犠牲にする女がシバとして出てきた。破壊に妥協はなかった。しかし、シバは神なのである。
 イエズスも「われは地上に剣を投ぜんために来たれり」と言い、家庭内をバラバラに分裂すると言い、ぺテロの逆さ十字架刑も予知しておられた。しかし、これらのイエズスの破壊性を、ほとんどの、結婚式を商売にしている教会は少なくとも全部、説教壇の上から語らない。だが、ISAまたはISSAは、印度で修行していたとき、シバのことを知っていた。しかし、シバの反面である、生殖と創造と維持の性質も知っており、「天の父」という言葉で、その親様性を強調して、民衆のなかに入って行った。しかし、彼は地獄を知っていた。だからこそ、シバをよく知っていた。エロイエロイラマサバクタニも本音の叫びだ。教会の壁にかかっているあの甘ちょろいイエスの絵を見ると、私は腹が立つか、風邪をひきそうになる。
 愉美子の強大なエゴは、私の破壊力に耐えるだろうか。当人にその自信はあるようだが、やはりトウロウの斧であろう。
 私は今の家庭を破壊し、次の人生を創造する。なぜなら、私は今の6人の子供を、過去の16人の子供よりも特に愛しているわけではないから。そして、ツルコやオリコと同じく、私はユミコを妻と認めていないから。。

 妻でありつづけて、私から死の形で去ったのはマサコだけであった。あれ以来、私は寡夫。それとも、私は結婚の第一回から、男やもめであったのかもしれない。そう言ったほうが正確であろう。ツルコがいみじくも言ったように、「あなたはどんな女でもいい人なのだわ」かもしれない。そして、またツルコが言ったように、「あのかたは、もともと結婚などするべきではない人なのです」であるかも。
 私には重大な前世障害があるに違いない。それを解いてくれる力を持っているのはサイババ一人と信じている。
 この手紙、愉美子にも見せ、コピ−を母にも送ります。

                                        ALWAYS SEVEN

                                               lyn sun
          
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