母上様!
                                       於天神920812/0338
 北大路欣也の名作「動天」を見終わり、感激さめやらずの寅の刻であります。井伊直弼(1815〜60)も勝麟太郎(1823〜99)も出てきました。桜田門外の変も活写され、刀持ちのお小姓(ご先祖さま)を捜しましたが、見当たりませんでした。ところで、私はその方が常七さまなのか、その方は風流を嗜まれて市井に身を隠され、その御子が常七さまなのか、記憶がボケてしまいました。また、井伊家に仕えたご先祖の苗字を忘れました。どうかお教えくださいませ。前に書いて頂いたもの、どこかに大切にしまい込み、しまった場所が分からなくなりました。
 いや、待て、と常七さまの御霊が、私の手を取り、本棚の奥から、系図を出してくださいました。駿武の調べによると、常七様の妾・辻キミさまの没年が明治30年5月13日となっております。さすれば、彦一さまはその年の11月5日生まれとなり、私の亡父の母であるせい様はそれから5年後の明治35年の没となるのですね。ところで、辻キミ(以下、敬称略)の実父は、もともと彦根藩の武士であり、菅森姓であり、例の小姓であったわけですね。一度、僧となり、還俗して辻ノブと結婚し、女の姓を名乗ったのはなぜなのでしょうか?
 やはり、主家への気がねで、菅森姓は名乗れなかったのでしょうか?
 ノブの娘・キミが孤児になり、祇園に身を落としました。そして常七と結ばれるのですが、常七を河内生まれとすると、商家の出のようであり、気品のある武家の末裔であるキミに、むしろ見上げるように恋慕したと考えられます。
 七曜紋はもともと井伊の家紋であり、それが家臣の菅森家に伝わるというのは不思議です。もしぞ、親戚や姻戚であれば同じ紋の使用も可能であったでしょうが...?
 常七がもともと商人であったとすれば、庶民が姓と家紋を持つことを許されたときに、キミとの縁にて、井伊家の紋・七曜を拝借したと考えてもいいのでしょうか?
 別の説の、常七が彦根の侍であるということがまことであれば、常七とキミはともに彦根藩に縁があったこととなり、二人の結びつきは自然であり、常七の生家の紋が七曜だったということも、考えられます。しかし、どうも、キミの父の物語と常七の出自がゴッチャになったような気もいたします。
 常七は決して武士の商法でなく、茶商にも成功、キミを囲った剣菱屋でも両替商としても栄えたのですから、やはり血は河内の商人であったというのが、間違いのないところではありませんか。それ故、その商才を見込まれて、入り婿になったのでありましょう。
 すると、武家の血は井伊家の菅森→辻→せい、と流れ、他方、父方として、増田充夫→彦一と流れているのでありますね。つまり、増田家の血が入ったことにより、遺伝子の武士性が濃くなったと考えます。常七本家には、一切武士の血が流れず、いまの大阪の十菱白色ビルの当主のごとく、銅臭の強い根っからの商人一族が形成されたわけであります。大阪本家系統には、国三伯父のごとき芸術家はあっても、学者などは一人もいないようであります。福太郎さんにはお会いしましたが、裏千家宗匠といっても、京都の家元に出入りする商売の関係で、資格を取っただけで、別に茶道の奥義を修めたようには見受けられませんでした。これは、尚美会会長・松嶋徹さんからのご接待で、会食に招かれたときに、松嶋徹君も私と福太郎さんの人間の違いをはっきり見られたと思います。
 それにしても、剣菱の屋号での両替商としての常七さまの発展は目覚ましく、おそらく神戸の生田神社に灯籠を寄進したのも、キミとの剣菱時代と思われます。私も生田神社には放浪旅中何度もお参りしたことがありますが、十菱の灯籠に気がつかなかったのは、やはり空襲で、焼け崩れたためでありましょうか。銘酒・剣菱も常七さまがお始めになったようにも聞いていますが、誤聞でしょうか?
 また、亡父彦一は京の極楽寺から勝誉上人の法号を戴いているならば、別に禅宗からの戒名と矛盾しないのでしょうか?
 神戸の常七+キミの結びから生まれた8人の子供のうち、せい、きく、つやの3女は、みな十菱姓だったのは何故ですか? 認知でなく、養女として十菱家の戸籍に入れたのでしょうか?
 また、北海道でビ−ル事業を始めたお方のことも、送って戴いた資料を紛失しておりますので、もう一度お知らせくださいませ。
 残暑の候に大変でございますから、秋風が立ちましてからでも、改めてご教示下されば、幸せです。
 また、常七+キミの8人の子のうち、さらに武士の血が入ったのは、長女・せい(私の祖母)の系統のみと承知してよろしいのでしょうか? また、学者や芸術家が輩出したのは、せい様の子孫のみでございましょう? 
 また、祐二が彦一の異腹の弟であるということは、せいの早世で、妹きくが後添えになったと見ていいのですね。
 充夫の祖先に渡辺崋山(華は誤字です)がいたということですが、渡辺崋山(1793〜1841)が画家である以上に、洋学者であったという事実から、大切な遺伝子が私にも流れているようであります。
 もう、朝の5時28分となり、疲れましたので、一応ここで止めます。
                    
 いま、5:59AMです。30分ほどの瞑想で、頭痛と疲れが取れましたので、文のまとめを致します。6時からのバロック音楽を静かにFMで聴いております。
 このごろは、エヂソンみたいに、いつ眠ったか、あまり記憶がありません。今日(12日)から、またNYC法律の仕事に戻りますが、食業に移るといつも眠くて眠くてたまらぬ状態になり、全身これ機械となり、活気は失せてしまうのです。このところ、徹夜が多いのですが、不思議に体重が増えて58キロになっています。20代からの平均値を3キロ超過しております。
 天保10年(1839)に蛮社の獄というのがあり、私の祖先の渡辺崋山と高野長英らが断罪され、二人とも自殺しています。渡辺崋山は三河の国・田原藩の家老でありました。三河ですから、徳川家の譜代の臣と思われます。崋山は1841年に自殺しており、子孫の私はそれから、1992−1841=151年後に生存しています。実に無限に近いDNAの混合物が私を形成していることを思うと、不思議でなりません。その混沌のなかから、私の天職を捜すのでありますから、66年やそこらで結論は出ません。崋山や長英らは「尚歯会」を作っておりました。「歯」は年齢のことでしょうから、「お互い、長生きして国家のために立派な人生をやろう」という趣旨だったのでしょうが、前者は48歳、後者は46歳で非業の死を遂げているのは悲しくも皮肉なことです。松嶋徹君は尚美会の2代目です。あれ、またどこかから、前にご送付の資料が全部出てきました。1987年8月20日付けのご書簡も出てきました。5年間も眠っていたみたいです。
 常七さまは、朝鮮からウラジオストックまで貿易の手を広げたと書いてあります。私はアメリカだけと思っていたのに、本当に広大な活動をなさったのですね。よく記録を読み。また新たにリサ−チして、そのうち小説の形式で「常七の雄飛とロマン」とでもいった作品を書きましょう。
 「十菱麟父方祖先霊譜」という題で、2枚にわたり、母上は昭和48年(1973)に整理なさっておられます。私が愉美子と結婚する少し前です。驚きました。当時は忙しくて私には検討する余裕も興味もなかったので、14年後に落ち着いた頃を見計らって、お送り下さったものと、今(1992年8月12日)気付きました。
 父方祖父系統のうちに神道のお方がおられましたので、私に神道系の神がかりがあるということも解りました。私の大伯父が第一銀行の重役であり、京大卒の従兄・泰造さんが