3.秘庫器録(ひこきろく)の概訳について
秘庫器録(ひこきろく)巻第三 参議左大ベン従四位上兼行讃岐守源朝臣恒(みなもとのあそんわたる)等 撰んで勅する
太古のころから八坂瓊(やさかに)の五十箇の御統(みすまる)の玉を宝とした速須能神(はやすのみこと・素戔鳴尊・すさのおうのみこと)、天に登る時櫛玉(櫛明玉・くしあかるたま)の神から勾玉を授かった。須佐能神(素戔鳴尊・すさのおうのみこと)は天照姫太神(天照大神・あまてらすおおのかみ)に再度奉りました。これが神璽(しんじ)であります。少彦神(少彦名神・すくなひこのみこと・恵比寿)が粟茎(あわがら)から弾じかれて常世に行った時、海辺で国神(大国主神・おおくにぬしのかみ・大黒)は八坂瓊の勾玉と薬草(医学の始まり)を賜った。
懿徳(いとく)天皇2年7月(皇紀152年・推計西暦66)に今まで諸物の交易に穀を用いてきたが、これからは「美石宝玉」を用いよ。穀を用いるなかれ。諸国に八坂瓊の勾玉を模して宝玉造りを詔する。
孝霊(こうれい)天皇5年(皇紀375年・推計西暦162)4月に駿河国が赤色宝玉五百九十を献上とあり、以下6年2月に出雲国が青色宝玉九百、
11年7月に周防国が薄青宝玉五百六十、8月に駿河国が黄色宝玉二千三百、20年2月に伊豆国が白色宝玉2千黒斑宝玉二千四百、23年3月に相模国が白色宝玉五千三百、5月に陸奥国が黄色宝玉千三百、32年(皇紀402年・推計西暦174)9月に越後国が赤色宝玉九百、12月に信濃国が白色宝玉八百五十、と各国献上する。崇神(すじん)天皇時代には毎年献上されたので秘府略にも国名が不明です。
今の宝玉の所蔵は、青色宝玉三百八十種で形は大小有り・赤色宝玉二百七種で形は大小有り・黄色宝玉五百七十三種で形は大小有り・白色宝玉七百二十種で形は大小有り・黒色宝玉八百九種で形は大小有り・青班宝玉百八十種で形は一定のみ・黒班宝玉二百九十種で形は大小有る。
秘府略曰く崇神(すじん)天皇65年6月(皇紀628年・推計西暦275)に任那国の遣使、漢珍六億萬枚で不老不死薬を請う【
日本書紀・崇神天皇65年7月任那国の蘇那曷叱智(そなかしき)を遣わし朝貢してきた
】。今宮中に980枚所蔵され漢の銭で半両と五銖で皆小篆(てん)文なり。
秘府略曰く応神天皇(おうじん)17年5月(皇紀946年・推計西暦418)に武内宿禰(たけのうちのすくね)・和珥吉師(わじきちじ)等が協議して先朝(神功「じんぐう」皇后時代)から外国の貢物の金銀が沢山貯まっています、この金銀を以って貨幣を造る。宝石を用いるを止めよ。 応神(おうじん)天皇18年(皇紀947年・推計西暦418)玉を用いるを止めるなかれ。今宮中に30枚の銀幣があり円形の孔がある、文字があるのかは磨滅して判らない、金幣は文字が無い。(天武「てんぶ」天皇12年の銀を用いるを止め莫れと類似)
秘府略曰く反正(はんぜい)天皇2年5月(皇紀1067年・推計西暦455)に木莵(みみづく又はつく・武内宿禰の息子)の宿禰(すくね)議案し漢室の如く新たに銅幣を造る。方形の孔と銘文を著し天下に布告し、ここに至り始めてこの「珍」を造り、宝玉を用いるを止める。宮中に51枚の銅銭あり、四隅に卍字模様があると聞く、<著者は考えるに卍字は禾の古字で稲のことなり>。
鋳銭司記曰く 持統(じとう)天皇8年(694)3月に直広肆大宅朝臣麻呂(じきこうしおおやけのあそんまろ)・勤大弐臺忌寸八島(ごんだいにうてなのいみきやしま)・黄書連本実(きぶみのむらじほんじつ)らを鋳銭司(ぜにのつかさ)長官に拝領させた。文武(もんふ)天皇3年(699)12月に直大肆中臣朝臣意美麻呂(じきだいしなかとみのあそんいみまろ)を鋳銭司長官の拝領させ銅銭を鋳造する。宮中にこの2朝(持統・文武)の品は文字無しで形状細く小さい、未完成品で磨かず小銭18枚是なり
元明(げんめい)天皇和銅元年2月に大納言大伴朝臣宿禰安麻呂(おおとものあそんすくねやすまろ)銭文をつくり銘は和銅開珍(わどうかいちん)、皇帝が親書し鋳銭司に与える。4月に銀銭を鋳造始め5月に之を行う7月近江に鋳銭司を置く、右大臣藤原不比等(ふひと)が銭文を書き改める。3年正月に大宰府銅銭を奉納する、播磨鋳銭司銅銭を奉ずる。2月に長門鋳銭司銅銭を奉ずる。この時の和銅銭所蔵す、銀銭860枚銅銭3230枚。(続日本紀は銀銭・銅銭で銭銘が無く、さらに現品「和同開珎」と違う「和銅開珍」としている)
聖武(しょうむ)天皇天平宝字元年(749)7月に皇帝が銭文を御書す、銘は開基勝寳(かいきしょうほう)なり、河内鋳銭司陸奥の貢金で鋳造する、一銭は旧銭千銭に当たる。2年正月に天皇自ら太平元寳(たいへいげんぽう)の銘で御書きし、山城の鋳銭司にて対馬の銀で銀銭を鋳造する、銀銭十枚は金銭一枚に当たる。(続日本紀では金銀銅銭共に760年発行)今所蔵するのは金銭30枚銀銭110枚
廃帝(淳仁「じゅんにん」天皇)天平宝字4年(760)2月に中納言多治比直人広成(たじひのまひとひろなり:遣唐使)銘萬年(まんねん)通寳の銭文作る。沙門円興銭文を書く3月鋳造始め一を旧銭十に当てる。今所蔵大銭280枚・小銭580枚(多治比直人広成は21年前に死亡)
称徳(しょうとく)天皇天平神護元年(765)8月に参議石上朝臣宅嗣(いそのかみあそんやかつぐ)銘神功開寳(じんごうかいほう)の銭文を作り、沙門慈尊銭文を書き鋳銭司に与える、9月に鋳造を始める旧銭十をこれ一に当てる。今所蔵大銭300枚小銭470枚(続日本紀では等価値通用である点が異なる)
桓武(かんむ)天皇延暦15年(796)9月に皇帝自ら銘降平永寳(りゅうへいえいほう)の銭文を作り、沙門空海銭文を書く11月鋳造始め一を旧銭十に当たる。19年鋳造銭量を減らし、形状も基準より小型化する。親書で文字を書き改める永の字が二水降平になっている。今所蔵大銭300枚小銭500枚親書銭200枚(空海は遣唐前の23歳ごろで書文は疑問)
嵯峨(さが)天皇弘仁9年(818)10月に皇帝自ら銘富壽神寳(ふじゅじんぽう)の銭文を作り自ら親書して銭文を書き、鋳銭司にわかつ。11月鋳造始め一を旧銭十に当てる。十年2月に沙門空海銭文を書き鋳造量を増やす。12年5月に橘逸勢銭文を書き鋳銭司に分与える。親書の品は富の4画の一が省略されている、寿貫は口の字が中になっている、空海の銭は区別できない。今所蔵する大銭560枚小銭780枚
仁明(にんみょう)天皇承和2年(835)正月嵯峨(さが)太上天皇は銘承和昌寳(じょうわしょうほう)の銭文を作り左大臣藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ・百川の長男)が書いたのを鋳銭司に与えた。9月に鋳造始め一を旧銭十銭に当てる。今所蔵大銭305枚小銭400枚
嘉祥元年(848)8月に皇帝自ら銘長年大寳(ちょうねんたいほう)とし、参議藤原朝臣良明銭文を書き鋳銭司に与えた。9月に鋳造始め一を旧銭十に当てる。今所蔵大小あり1112枚
清和(せいわ)天皇貞観元年(859)2月に参議藤原朝臣氏宗(ふじわらあそんむねのり)銘饒益神寳(にょうやくしんぽう)とし、沙門素石字を書き4月に鋳銭司に与えた。鋳造始め一を旧銭十に当てる。今所蔵480枚。貞観12年(870)正月右大臣藤原氏宗奉り銭文を貞観永寳(じょうかんえいほう)とし銭文を書き鋳銭司に賜う一を旧銭十枚に当てる。今所蔵935枚
宇多(うた)天皇寛平2年(890)4月に右大臣藤原朝臣直奉銭文と銭書を鋳銭司に与える、その銭銘は寛平大寳(かんぴょうたいほう)一を旧銭十に当てる。5月に鋳造始める今所蔵1200枚
醍醐天皇延喜3年(903)10月に右大臣源朝臣光銭文を作り小野道風が書き、銭銘は延喜通寳(えんぎつうほう)一を旧銭十に当てる。今所蔵銅銭893枚鉛銭2320枚(日本紀略では延喜7年発行と4年の違いがある)
嘉元元年(1303)3月29日王蔵の本書を写す金沢文庫 安政6年(1859)金沢文庫で写す 照井 璞平 建歴2年(1212)3月宣旨(引用・日本経済大典第一)
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