神話時代の貨幣物語
平成16年2月15日
花野 韶
 和銅元年(708)の和同開珎発行のはるか昔に貨幣が使用されていたとする「秘庫器録」(ひこきろく)と称する奇書があります。現在は偽書で信用できないと記述そのものもが抹殺されています。本書を滝本誠一博士が自書の「日本貨幣史」に真書として取り上げ、古銭界では瀬戸浩平氏がボナンザの第6巻第12号(70/12)・第7巻第1号(71/1)に紹介しています。滝本・瀬戸両氏とも言っていますが、偽書と決め付けて読まずに内容の審議もしないのは疑問としています。瀬戸氏が発表して30年も過ぎ状況も変化していますので、秘庫器録(ひこきろく)の概訳を中心に神話時代の貨幣物語をいたします。
 日本書紀の天武天皇12年(683)4月15日「今より銅銭を用いよ、銀銭を用いること莫れ」3日後「銀を用いるを止め莫れ」で、銅銭は富本銭(ふほんせん)・銀銭は無文銀銭(むもんぎんせん)とする説が、飛鳥池遺跡で大量の富本銭発掘後日本書紀即ち国史はやはり正しかったとの結論にどうやら導かれそうであります。大津の崇福(すうふく)寺塔の着工跡から無文銀銭(むもんぎんせん)が出土し、崇福(すうふく)寺創建の天智天皇7年(668)まで無文銀銭の使用は遡れると考えられます。
 また鈴鹿市の北野古墳から1枚の無文銀銭が出土しています、天智・天武(てんち・てんぶ)天皇時代に追葬して銀銭が埋められたとされています。しかし大化2年(646)に孝徳(こうとく)天皇が墓制を定め天皇自らも含めて、全人民が金銀を埋葬することを禁止し、違反には一族を罰則することを定めた。この墓制を定めた後に銀銭を追葬するのは疑問で、やはり築造時の7世紀前半に無文銀銭(むもんぎんぜん)は存在し埋葬されたと思われます。
 さらに大阪市天王寺区から無文銀銭(むもんぎんせん)約100枚(72枚説もある)と大量に出土しましたので、天王寺区真法院町が無文銀銭(むもんぎんせん)の製造地であった可能性があります。恐らく都が近くの中央区法円坂地区(大阪城付近)にあった時期で孝徳(こうとく)天皇時代の前期難波宮(645〜653年)、それ以前となると神功(じんぐう)皇后以降では応神(おうじん)・仁徳(にんとく)天皇(皇紀960〜1060年・推計西暦【注1】 413〜452)の難波大隈宮(おおくまきゅう)・高津宮(たかつきゅう)までとさらに古い時代の都が該当します。

1.日本書紀を遡る
 さて日本書紀には顕宗(けんぞう)天皇2年(486)10月6日に「稲斛(いなこく)銀銭一文」とあります。この文の要約は「このとき天下は平安で人民はヨウ役( ようえき)に使われることもなかった。穀物はよく稔り、百姓は富み栄えた。稲一石は銀銭一文と高価に購( あがな) われ、牛馬は野にはびこった」(引用・日本書紀/宇治谷孟訳)。原文は「是時天下安平、民無ヨウ役、歳比登稔、百姓殷富、稲斛銀銭一文、牛馬被野」であります。後漢書で明帝紀永平2年(59)の文を挙げると「是時天下安平、民無ヨウ役、歳比登稔、百姓殷富、粟斛三十、牛羊被野」であります。これは粟斛三十→稲斛銀銭一文、牛羊→牛馬が変るだけでほとんど同じで修飾的に引用に過ぎない、事実の記録とは認め難いとしている内田銀蔵説(日本古代の通貨史に関する研究)が今日の定説であります(引用・日本の貨幣の歴史/滝沢武雄)。
 これで天智天皇7年(668)の崇福寺創建時には無文銀銭の存在は認めても、顕宗(けんぞう)天皇2年(486)の銀銭の存在を認めない人がほとんどです。しかし古代には書籍がいつでも読める書店・図書館が無いので引用は恥じでは無く、むしろ記憶力即ち頭脳が優れる証としていました。また本当に銀銭の語句は日本書紀の編者の作り話で書かれたのでしょうか?もし顕宗(けんぞう)天皇2年(486)に銀銭が無ければ素直に「・・稲斛布何端」と布等の自然交換品の記載で良く、実際に銀銭が存在したので明確に「銀銭一文」の文字になったとも考えられます。
 対馬の銀発見(天武「てんぶ」天皇3年・674)後に鋳造した和同銀銭でも、出雲の出土銀銭を鉛同位体比分析して朝鮮半島産の鉛と結果(引用・藤井一二/和同開珎)が出ています。国内に産していなかった古代の銀は朝鮮半島産と考えた方が自然です。
 これは高句麗好太王碑文(西暦391年)にある日本軍が出兵し新羅・百済を従属させた結果かもしれません。この記述が日本書紀に合致するのは神功(じんぐう)皇后の新羅遠征が成功した仲哀(ちゅうあい)天皇9年(皇紀860年)の記載文と思われます。即ちこの皇紀860年が西暦391年であったと推量できます。その後新羅が日本に沢山の貢物をし、その品に金・銀・絹織物がありました。

2.和漢三才図会(わかんさんさいずえ)の貨幣の始り
 和漢三才図会(わかんさんさいずえ・注2)は江戸時代の百科事典でありますが59巻金の部で銭の始りが記述してあります。概略は「思うに我が国で銭がいつの世から用いるようになったのかは分からない。或る記に次のように云う、反正(はんぜい)天皇2年、木莵(みみづく・つく)の宿禰(すくね)大前(おおさき)の宿禰(すくね)が相談していった。むかしは米を以って物を買った。今は玉で物を買う、共に確固とした理由もない。よって文を銅にあらわし、孔に緒を貫き通し、是を用いると使い安い、と。そこで天皇は勅して、龍はよく雨を降らし、馬はよく物を運びます、龍はいたって霊物なので軽々しく用いてはならない、馬をもって文とするのがよいであろう、(文字選定基準か?)といわれた。この時始めてこの珍(貨幣)を造り世用が充足し、人民皆喜ぶ、龍足(たり)と云う、その後勅で銭の価値を定め、金銭一文は銀銭十文とし、また銀銭一文は銅銭十文とし、銅銭一文は米1升が買える、とした。(引用 古事類苑・和漢三才図会8/平凡社)
 顕宗(けんぞう)天皇2年(486)より古い反正(はんぜい)天皇2年(皇紀1067年・推計西暦455)に銅銭を発行し金銭・銀銭・銅銭がそれぞれ一対十文交換であったと記されています。国史の日本書紀でも無文銀銭(むもんぎんせん)の顕宗(けんぞう)天皇2年の記載は事実と認められないとされているのに、さらに古い時代を記した和漢三才図会(わかんさんさいずえ)ではなおさら完全に無視されています。なお銀銭1文で米1斗(籾2斗)になり、稲一石銀銭一文とする顕宗(けんぞう)天皇2年の文章との米価値の違いが気に掛ります。和漢三才図会(わかんさんさいずえ)で以後の銭部の要約は日本書紀の二十四代顕宗(けんぞう)天皇の世稲斛は銀銭一文であった。四十代天武(てんぶ)天皇銀銭を廃して銅銭を用いた。続日本紀の四十二代文武(もんふ)天皇はじめて鋳銭司を置く。四十三代元明(げんめい)天皇の和銅元年七月近江に和銅開珍を鋳造させた。廃帝(淳仁「じゅんにん」天皇)金銭は開基勝寳(かいきしょうほう)、銀銭は太平元寳(たいへいげんぽう)とし銅銭は萬年通寳(まんねんつうほう)としたとあります。
 さらに時代は下り相国寺の仲正蔵主(ちゅうしょうぞうす・字は仲芳)応永8年(1401)明に渡る。楷書を善くしたので明人が認めて、仲正蔵主が永楽通寳の銭文を書いたとあります。(永楽銭の中正手の銭文筆者か?)


3.
秘庫器録(ひこきろく)の概訳について
 秘庫器録(ひこきろく)巻第三 参議左大ベン従四位上兼行讃岐守源朝臣恒(みなもとのあそんわたる)等 撰んで勅する
 太古のころから八坂瓊(やさかに)の五十箇の御統(みすまる)の玉を宝とした速須能神(はやすのみこと・素戔鳴尊・すさのおうのみこと)、天に登る時櫛玉(櫛明玉・くしあかるたま)の神から勾玉を授かった。須佐能神(素戔鳴尊・すさのおうのみこと)は天照姫太神(天照大神・あまてらすおおのかみ)に再度奉りました。これが神璽(しんじ)であります。少彦神(少彦名神・すくなひこのみこと・恵比寿)が粟茎(あわがら)から弾じかれて常世に行った時、海辺で国神(大国主神・おおくにぬしのかみ・大黒)は八坂瓊の勾玉と薬草(医学の始まり)を賜った。
 懿徳(いとく)天皇2年7月(皇紀152年・推計西暦66)に今まで諸物の交易に穀を用いてきたが、これからは「美石宝玉」を用いよ。穀を用いるなかれ。諸国に八坂瓊の勾玉を模して宝玉造りを詔する。
 孝霊(こうれい)天皇5年(皇紀375年・推計西暦162)4月に駿河国が赤色宝玉五百九十を献上とあり、以下6年2月に出雲国が青色宝玉九百、 11年7月に周防国が薄青宝玉五百六十、8月に駿河国が黄色宝玉二千三百、20年2月に伊豆国が白色宝玉2千黒斑宝玉二千四百、23年3月に相模国が白色宝玉五千三百、5月に陸奥国が黄色宝玉千三百、32年(皇紀402年・推計西暦174)9月に越後国が赤色宝玉九百、12月に信濃国が白色宝玉八百五十、と各国献上する。崇神(すじん)天皇時代には毎年献上されたので秘府略にも国名が不明です
 今の宝玉の所蔵は、青色宝玉三百八十種で形は大小有り・赤色宝玉二百七種で形は大小有り・黄色宝玉五百七十三種で形は大小有り・白色宝玉七百二十種で形は大小有り・黒色宝玉八百九種で形は大小有り・青班宝玉百八十種で形は一定のみ・黒班宝玉二百九十種で形は大小有る。
 秘府略曰く崇神(すじん)天皇65年6月(皇紀628年・推計西暦275)に任那国の遣使、漢珍六億萬枚で不老不死薬を請う【 日本書紀・崇神天皇65年7月任那国の蘇那曷叱智(そなかしき)を遣わし朝貢してきた 】。今宮中に980枚所蔵され漢の銭で半両と五銖で皆小篆(てん)文なり。
 秘府略曰く応神天皇(おうじん)17年5月(皇紀946年・推計西暦418)に武内宿禰(たけのうちのすくね)・和珥吉師(わじきちじ)等が協議して先朝(神功「じんぐう」皇后時代)から外国の貢物の金銀が沢山貯まっています、この金銀を以って貨幣を造る。宝石を用いるを止めよ。 応神(おうじん)天皇18年(皇紀947年・推計西暦418)玉を用いるを止めるなかれ。今宮中に30枚の銀幣があり円形の孔がある、文字があるのかは磨滅して判らない、金幣は文字が無い。(天武「てんぶ」天皇12年の銀を用いるを止め莫れと類似)
 秘府略曰く反正(はんぜい)天皇2年5月(皇紀1067年・推計西暦455)に木莵(みみづく又はつく・武内宿禰の息子)の宿禰(すくね)議案し漢室の如く新たに銅幣を造る。方形の孔と銘文を著し天下に布告し、ここに至り始めてこの「珍」を造り、宝玉を用いるを止める。宮中に51枚の銅銭あり、四隅に卍字模様があると聞く、<著者は考えるに卍字は禾の古字で稲のことなり>
 鋳銭司記曰く 持統(じとう)天皇8年(694)3月に直広肆大宅朝臣麻呂(じきこうしおおやけのあそんまろ)・勤大弐臺忌寸八島(ごんだいにうてなのいみきやしま)・黄書連本実(きぶみのむらじほんじつ)らを鋳銭司(ぜにのつかさ)長官に拝領させた。文武(もんふ)天皇3年(699)12月に直大肆中臣朝臣意美麻呂(じきだいしなかとみのあそんいみまろ)を鋳銭司長官の拝領させ銅銭を鋳造する。宮中にこの2朝(持統・文武)の品は文字無しで形状細く小さい、未完成品で磨かず小銭18枚是なり
 元明(げんめい)天皇和銅元年2月に大納言大伴朝臣宿禰安麻呂(おおとものあそんすくねやすまろ)銭文をつくり銘は和銅開珍(わどうかいちん)、皇帝が親書し鋳銭司に与える。4月に銀銭を鋳造始め5月に之を行う7月近江に鋳銭司を置く、右大臣藤原不比等(ふひと)が銭文を書き改める。3年正月に大宰府銅銭を奉納する、播磨鋳銭司銅銭を奉ずる。2月に長門鋳銭司銅銭を奉ずる。この時の和銅銭所蔵す、銀銭860枚銅銭3230枚。(続日本紀は銀銭・銅銭で銭銘が無く、さらに現品「和同開珎」と違う「和銅開珍」としている)
 聖武(しょうむ)天皇天平宝字元年(749)7月に皇帝が銭文を御書す、銘は開基勝寳(かいきしょうほう)なり、河内鋳銭司陸奥の貢金で鋳造する、一銭は旧銭千銭に当たる。2年正月に天皇自ら太平元寳(たいへいげんぽう)の銘で御書きし、山城の鋳銭司にて対馬の銀で銀銭を鋳造する、銀銭十枚は金銭一枚に当たる。(続日本紀では金銀銅銭共に760年発行)今所蔵するのは金銭30枚銀銭110枚
 廃帝(淳仁「じゅんにん」天皇)天平宝字4年(760)2月に中納言多治比直人広成(たじひのまひとひろなり:遣唐使)銘萬年(まんねん)通寳の銭文作る。沙門円興銭文を書く3月鋳造始め一を旧銭十に当てる。今所蔵大銭280枚・小銭580枚(多治比直人広成は21年前に死亡)
 称徳(しょうとく)天皇天平神護元年(765)8月に参議石上朝臣宅嗣(いそのかみあそんやかつぐ)銘神功開寳(じんごうかいほう)の銭文を作り、沙門慈尊銭文を書き鋳銭司に与える、9月に鋳造を始める旧銭十をこれ一に当てる。今所蔵大銭300枚小銭470枚(続日本紀では等価値通用である点が異なる)
 桓武(かんむ)天皇延暦15年(796)9月に皇帝自ら銘降平永寳(りゅうへいえいほう)の銭文を作り、沙門空海銭文を書く11月鋳造始め一を旧銭十に当たる。19年鋳造銭量を減らし、形状も基準より小型化する。親書で文字を書き改める永の字が二水降平になっている。今所蔵大銭300枚小銭500枚親書銭200枚(空海は遣唐前の23歳ごろで書文は疑問)
 嵯峨(さが)天皇弘仁9年(818)10月に皇帝自ら銘富壽神寳(ふじゅじんぽう)の銭文を作り自ら親書して銭文を書き、鋳銭司にわかつ。11月鋳造始め一を旧銭十に当てる。十年2月に沙門空海銭文を書き鋳造量を増やす。12年5月に橘逸勢銭文を書き鋳銭司に分与える。親書の品は富の4画の一が省略されている、寿貫は口の字が中になっている、空海の銭は区別できない。今所蔵する大銭560枚小銭780枚
 仁明(にんみょう)天皇承和2年(835)正月嵯峨(さが)太上天皇は銘承和昌寳(じょうわしょうほう)の銭文を作り左大臣藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ・百川の長男)が書いたのを鋳銭司に与えた。9月に鋳造始め一を旧銭十銭に当てる。今所蔵大銭305枚小銭400枚
 嘉祥元年(848)8月に皇帝自ら銘長年大寳(ちょうねんたいほう)とし、参議藤原朝臣良明銭文を書き鋳銭司に与えた。9月に鋳造始め一を旧銭十に当てる。今所蔵大小あり1112枚
 清和(せいわ)天皇貞観元年(859)2月に参議藤原朝臣氏宗(ふじわらあそんむねのり)銘饒益神寳(にょうやくしんぽう)とし、沙門素石字を書き4月に鋳銭司に与えた。鋳造始め一を旧銭十に当てる。今所蔵480枚。貞観12年(870)正月右大臣藤原氏宗奉り銭文を貞観永寳(じょうかんえいほう)とし銭文を書き鋳銭司に賜う一を旧銭十枚に当てる。今所蔵935枚
 宇多(うた)天皇寛平2年(890)4月に右大臣藤原朝臣直奉銭文と銭書を鋳銭司に与える、その銭銘は寛平大寳(かんぴょうたいほう)一を旧銭十に当てる。5月に鋳造始める今所蔵1200枚
 醍醐天皇延喜3年(903)10月に右大臣源朝臣光銭文を作り小野道風が書き、銭銘は延喜通寳(えんぎつうほう)一を旧銭十に当てる。今所蔵銅銭893枚鉛銭2320枚(日本紀略では延喜7年発行と4年の違いがある)
 嘉元元年(1303)3月29日王蔵の本書を写す金沢文庫 安政6年(1859)金沢文庫で写す 照井 璞平 建歴2年(1212)3月宣旨引用・日本経済大典第一