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◇世界の名所旧跡◇

 『WIZ OE』の世界は我々の世界と繋がっています(例えば、災禍の中心の奥底に潜むララ・ムームーはエジプト人?ですし、災厄の城に漂着した水先案内人のル・モンテスはフランス人です)。
 そこで『WIZ OE』の世界のイメージを拡張するために、ここでは我々の世界の名所旧跡を紹介します。“混迷期”の文明や文化に相当する16世紀当時のものを中心としています。冒険者が訪れる地方には、どのような場所があり、どのような来歴なのか、その世界を想像する一助としていただければ幸いです。

■王国群(西欧地域)の名所旧跡

□サンタ・マリア・マッジョーレ・バシリカ (Basilica di Santa Maria Maggiore)

 聖マリア・マッジョーレ大聖堂。イタリアのローマに在るカトリック教会。名称は「偉大なる聖母マリアに捧げられた聖堂」の意で、教皇が建築させたローマの四大バシリカ(古代ローマ様式の聖堂)のひとつに数えられる。サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂は古代キュベレ神の神殿があった場所に築かれた。数回にわたる改修と1348年の地震に伴う崩壊の危機を乗り越え、ローマのバシリカ様式の聖堂では唯一原構造を残している貴重な建築物である。

□コロッセウム (Colosseum)

 ローマ帝政期、ローマ中心部に造られた円形闘技場。ウェスパシアヌス帝の治世70年に着工し、ティトゥス帝の治世80年に完成した。落成の際に100日間に渡る奉献式として、剣闘士の試合や模擬海戦などが行われた。続くドミティアヌス帝の治世中にも施設の拡張工事は続けられ、観客席の最上層部と天幕が完成した。フラウィウス朝の皇帝が建設者であることから「フラウィウス円形闘技場(Amphitheatrum Flavium)」が本来の名前である。なぜコロッセウムと呼ばれるようになったのは、諸説あり正確には分かっていない。

□サン・ピエトロ・バシリカ (Saint Peter’s Basilica)

 サン・ピエトロ大聖堂。ローマ市内ヴァチカン南東端に在るカトリック教会の総本山。最初は326年にコンスタンティヌス1世によって聖ペテロの墓所を参拝するための殉教者記念教会堂として建設された。アヴィニョン捕囚後1377年にローマに帰還した教皇ニコラウス5世によって、この聖堂が座所とされた。1505年に教皇ユリウス2世によって改築が決定された。以後、ルネサンス期、バロック期を通じて、ローマ教皇にふさわしい巨大教会堂として改築が進められ、当時の第一級の芸術家たちがその造営に携わり、その巨大さ、荘厳さ、内部装飾の豪華さを含めて、聖堂の中の聖堂と呼ぶにふさわしい威容を誇る。

→関連する宝物 : ローザドーロ / ピエタ / コンスティトゥートゥム・ドナティオ・コンスタンティニ

□パラッツィヴァチカニ (Palazzi Vaticani)

 ヴァチカン宮殿。イタリアのローマに在るサン・ピエトロ大聖堂に隣接するローマ教皇の住居。当初、ヴァチカンにはサン・ピエトロ大聖堂に隣接して修道院、巡礼者の宿泊施設、教皇の邸宅程度しかなかった。その後、教皇イノケンティウス3世やボニファティウス8世などが増築を行っている。1583年にクイリナーレ宮殿が竣工されるまで教皇の住居として使用された。その後もたびたび増築され、図書館、システィーナ礼拝堂、博物館施設などが建てられた。中でもラファエロが天井画、壁画を描いた「署名の間」(ラファエロの間)が特に有名である。

→関連する宝物 : ラオコーン

□サンタ・マリア・デル・フィオーレ・カテドラル (Cattedrale di Santa Maria del Fiore)

 聖マリア・フィオーレ大聖堂。イタリアのフィレンツェに在るカトリック教会。フィレンツェの大司教座聖堂であり、大聖堂、サン・ジョヴァンニ洗礼堂、ジョットの鐘楼の三つの建築物で構成される。名称は「花の聖母マリア」の意である。巨大なドームが特徴の大聖堂は、イタリアにおける晩期ゴシック建築および初期ルネサンス建築を代表するもので、フィレンツェのシンボルとなっている。1296年から140年以上をかけて建設された。外装は白大理石を基調とし、緑、ピンクの大理石によって装飾され、イタリア的なゴシック様式に仕上がっている。

□パラーゾピッティ (Palazzo Pitti)

 ピッティ宮殿。フィレンツェにあるルネサンス様式の広大な宮殿。トスカーナ大公の宮殿として使用された。1457年、フィレンツェの銀行家ルカ・ピッティによって建設が開始されたが、ピッティの死によって建設は中断された。1550年頃、初代トスカーナ大公であるメディチ家の当主コジモ1世によって買い取られ、建設が再開された。庭と宮殿の整備は、1590年頃まで約半世紀近く、コジモ1世、フランチェスコ1世、フェルディナンド1世と三代にわたって続けられた。また、多数の芸術家を支援したことで知られるメディチ家は、美術品の収集にも熱心だった。ルネサンスを代表する名画や宝飾品が、時の当主の手によってこの宮殿に集められた。

→関連する宝物 : フロレンティン / ダヴィデ / プリマヴェーラ

□トッレ・ピサ (Torre di Pisa)

 ピサの斜塔。イタリアのピサ市に在るピサ大聖堂の鐘楼。1173年に着工した際は垂直に建てられたが、地盤が柔らかいことから建設中に沈下が始まり南側に傾き始めた。その傾斜を修正しつつ、3期に分けて建設され、完成したのは1372年である。傾斜は修正できず、最上階のみ垂直に建てられている。

→関連する宝物 : テレスコープ / シデレウス・ヌンキウス

□ドゥオーモ・ミラーノ (Duomo di Milano)

 ミラノ大聖堂。イタリアのミラノに在る聖母マリアに献納された大聖堂。1386年に大司教アントーニオ・ダ・サルッツォとミラノ領主ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティの要求によって起工され、1570年代に献堂された。後期ゴシック建設の最高傑作とも称えられる。その後も幾人もの建築家の指揮の下で工事は続けられ、19世紀半ばに完成した。教会堂の屋根には135本の尖塔があり、尖塔の天辺にはひとつひとつに聖人像が立っている。そして一番高い尖塔には金のマリア像が輝いている。

□ドゥオーモ・モンツァ(Duomo di Monza)

 モンツァ大聖堂。イタリア北部、ロンバルディア州の都市モンツァに在る大聖堂。6世紀末にランゴバルド王国の王妃テウデリンデにより創建された。13世紀から14世紀にかけてゴシック様式で再建された。ファサードは緑と白の大理石による縞模様が施され、美しいバラ窓をもつ。イタリア王位の象徴である、キリストの磔刑に使われた釘で作られたというロンバルディアの鉄王冠を所蔵することで知られる。

→関連する宝物 : コローナフェッレア

□パラッツォ・ドゥカーレ (Palazzo Ducale)

 ドゥカーレ宮殿。ヴェネツィア共和国の総督邸兼政庁。サン・マルコ大聖堂に隣接した敷地に建つこのドゥカーレ宮殿は住宅、行政府、立法府、司法府、刑務所という複合機能をもった建物だった。8世紀に創建され、12世紀まで宮殿として使われた。幾度となく拡張と改修が行われ、14世紀から16世紀にかけて現在の姿に改修された。外観はゴシック風のアーチが連続し、イスラム建築の影響も見られる細やかな装飾が施されている。

→関連する宝物 : アストロノミカルクロック / マッパムンディ・フラ・マウロ

□サン・マルコ・バシリカ (Saint Mark’s Basilica)

 サン・マルコ寺院。イタリアのヴェネツィアで最も有名な大聖堂である。828年にヴェネツィア商人がアッバース朝のアレキサンドリアから聖マルコの聖遺物を盗んできたことを記念して建てられた。現在の聖堂は総督ドメニコ・コンタリーニが1063年頃に着工し、総督ヴィターレ・ファリエルが1090年代に完成させたものである。以後、幾度となく改修を受けている。東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスにあった聖使徒大聖堂を模して建てられたといわれ、ビザンティン建築である。

□ユニバーシタ・ボローニャ (Universita di Bologna)

 ボローニャ大学。イタリアのボローニャに在る大学。ヨーロッパ最古の総合大学であり、サラマンカ大学、パリ大学、トゥールーズ大学、モンペリエ大学、オックスブリッジと共に12世紀から13世紀までに設立された大学で、ヨーロッパ最古の中世大学群にあたる。世界の大学の原点とされ、「母なる大学」(Alma Mater Studiorum)とも雅称される。正確な創立年は定かでないが、すでに11世紀には法学校として教育活動が行われていたと伝えられる。創立以来9世紀を超える歴史の中には、ペトラルカやダンテ、ガリレオ、コペルニクスなどといった著名な才人が過去の在籍者に名を連ねている。

→関連する宝物 : コーパス・ユーリス・シヴィリス / ラ・ディヴィナ・コメディア / デ・レボルティオニブス・オルビウム・コエレスティウム / アルキドクセン / デ・インシグニス・エト・アーミス

□アバッツィア・モンテカッシーノ (Abbazia di Montecassino)

 モンテカッシーノ修道院。イタリア中部のカッシーノ郊外の岩山に建てられたベネディクト会の修道院。529年頃にヌルシアのベネディクトゥスによって、カッシーノの町の城壁に隣接していたアポロ神殿の上に建てられた。この修道院における祈りと労働を基本とする修道士の共同生活は、西方の修道制の雛型となった。しかし、この地は戦略上の要地に位置することから、たびたび戦災を被ってきた。11世紀になると指導力に優れた院長が続いたことから、活気を取り戻し、修道院も大幅に増築され、数々の優れた写本が作成された。

→関連する宝物 : イルミネイテッドマニュスクリプト

□サントゥアリオ・デッラ・サンタカーザ (Santuario della Santa Casa)

 イタリアの中部マルケ州のロレートに在るカトリック教会のバシリカ。「ロレートの聖母(La Modonna di Loreto)」を祀る地として知られる巡礼地である。伝説では、13世紀のサラセン人の聖地侵攻時に奇跡が起こり、ナザレで聖母マリアとその家族が暮らしていた家はダマルチアへ移されたという。その家は1294年にこの地に運ばれ、聖地となったとされる。現在のバシリカは1468年に工事が始まり、1587年に完成した後期ルネサンスとルネサンス様式が混合したものである。「ロレートの聖母」と呼ばれる聖母子像はいわゆる“黒い聖母”である。

□ドゥオーモ・モンレアーレ (Duomo di Monreale)

 モンレアーレ大聖堂。シチリア島パレルモに在る大聖堂。ノルマン建築様式の代表的な建物のひとつ。1174年、シチリア王グリエルモ2世の命により被昇天の聖母に捧げる教会として建築が始まり、1182年に完成した。1184年にローマ教皇ルキウス3世が出した勅書によって、首都大司教管区に昇格した。建設当時は12の塔を持つ巨大な壁に囲まれた大規模な司教宮と修道院があった。

□アーヘンカテドラル (Aachen Cathedral)

 アーヘン大聖堂。ドイツのアーヘンにある大聖堂。「皇帝の大聖堂」とも呼ばれる。北部ヨーロッパ最古の大聖堂である。786年にカール大帝がアーヘンの宮殿教会として建築され、814年に崩御するとこの地に埋葬された。その後、徐々に増築を重ねて現在の姿となる。建設当時はアルプス以北では最大のドーム建築だった。その後、増築を重ねたため、古典主義様式、ビザンティン様式、ゲルマン様式、フランク王国様式の要素を兼ね備える。936年から1531年にかけての約600年間に神聖ローマ帝国の30人の皇帝たちの戴冠式が執り行われた場所でもある。

→関連する宝物 : フラゲルム・デイ / インペリアルタリスマン / ロタールクロス

□カイザーブルク (Kaiserburg)

 ニュルンベルク城。“皇帝の城”とも呼ばれる。ドイツのバイエルン地方ニュルンベルクに在る城。神聖ローマ帝国の皇帝は一か所に留まらず居城を移しながら政治を行ったが、1050年から1571年まで全ての皇帝が一度は居城したのが、このカイザーブルク城である。皇帝カール4世は、1356年にニュルンベルクで即位後第1回目の帝国会議をニュルンベルクで行う勅令を出し、この慣例は1543年まで続けられた。また、1423年に皇帝ジギスムントがそれまで皇帝が持ち歩いていたりして特定の場所に保管されていなかった即位用のレガリアをニュルンベルク市に保管することを定めた。そのため、ニュルンベルク市は神聖ローマ帝国の帝都として特に重要な位置を占めていた。

→関連する宝物 : レイシュクローネ / コロネーションゴスペルス

□ケルンカテドラル (Cologne Cathedral)

 ケルン大聖堂。ドイツのケルンに在るゴシック様式の大聖堂。正式名称は「ザンクト・ペーター・ウント・マリア大聖堂(Dom St.Peter und Maria)」。ゴシック様式の建築物としては世界最大である。1248年にカロリング朝の大聖堂が火災で焼失した後、すぐにフランスのゴシック建築を学んだ建築家ゲルハルト・フォン・ライルによって再建の構想がされた。しかし、16世紀に入ると宗教改革の余波による財政難で工事が途絶し、正面のファサードの塔がひとつしかない状態が続いた。建設が再開されるのは19世紀に入ってからだった。

□シュパイアーカテドラル (Speyer Cathedral)

 ドイツの都市シュパイアーに在る赤い砂岩で造られた巨大なバシリカ式聖堂。正式な名称は「聖マリア・聖ステパノ大聖堂」だが、俗に「シュパイアー皇帝大聖堂(Kaiserdom zu Speyer)」とも呼ばれている。ロマネスク様式の最大級の大聖堂でもある。神聖ローマ皇帝コンラート2世が自身の墓所として建設を命じ、1030年から1061年にかけて建造された。後に、さらに7人のローマ皇帝、ローマ王たちやその妻の幾人か、そして多くの僧侶たちが葬られている。

□ケーニヒスベルクシュロス (Konigsberger Schloss)

 ケーニヒスベルクに在る城。プレゴリャ川が近くに流れ、交通の要衝だったこの場所には、かつてプルーセン人の砦が存在した。1255年にドイツ騎士団によって侵略された後、この場所に土塁と木材からなる砦が建造された。1257年に石造りのオルデンスブルク様式の城が建造された。この城は16世紀から18世紀にかけて、幾度かの拡張と防御力の増強が行われた。やがてドイツ騎士団総長の邸宅となり、後にプロイセン支配者の邸宅ともなった。

□ケーニヒスベルクカテドラル (Konigsberg Cathedral)

 ケーニヒスベルク大聖堂。ケーニヒスベルクに在るレンガ造りのゴシック様式の大聖堂。1333年から1380年の間に建築された。10世紀にプルーセン人に布教したことで知られるプラハのアダルベルトと聖母マリアに捧げられた大聖堂である。市内を流れるプレーゲル川にあるクナイプホーフに位置する。聖堂内にはコルネリス・フロリス作のドイツ騎士団総長、後に初代プロイセン公となったアルブレヒトの彫像がある。プロイセン公アルブレヒトやその親族はこの大聖堂に埋葬された。また哲学者カントの霊廟があることでも知られる。

□シュテファンドム (Stephansdom)

 シュテファン大聖堂。オーストリアのウィーンに在るゴシック様式の大聖堂。ウィーン大司教区の司教座聖堂である。ハプスブルク家歴代君主の墓所でもある。オーストリア公ルドルフ4世の命によって建造され、1359年に65年がかりで完成した。外観はゴシック様式で、内部の祭壇はバロック様式である。ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトとコンスタンツェ・ウェーバーの結婚式が行われ、また葬儀が行われた聖堂としても知られている。

□プラハキャッスル (Prazsky Hrad)

 プラハ城。チェコのプラハに在る城。ボヘミア国王や神聖ローマ皇帝の居城であり、世界で最も大きい城のひとつでもある。城はフラチャヌィの丘の頂に在り、その麓にはマラー・ストラナという城下町が在る。築城については史実と伝説(リブシェ伝説)が混在している。9世紀にボジヴォイ1世によって創建された。ロマネスク様式の宮殿が建てられたのは12世紀のことである。14世紀にはボヘミアの黄金時代を築いた神聖ローマ皇帝カール4世(ボヘミア王カレル1世)によって王宮がゴシック様式で再建され、城塞として強化された。1541年の大火で城は甚大な被害を受けたが、ハプスブルク家の支配下でいくつか新しくルネサンス様式の建物が建設された。

□セントヴィートカテドラル (Katedrala Svateho Vita)

 聖ヴィート大聖堂。チェコのプラハに在る大聖堂で、プラハ大司教の司教座聖堂である。プラハ城の内側に在り、多くのボヘミア王の墓を有する。ゴシック建築の代表例で、チェコで最も大きく重要な教会である。925年にボヘミア公ヴァーツラフ1世によって初期ロマネスク様式の円形建築ロトンダが建設された。ヴァーツラフが東フランク王ハインリヒ1世から聖遺物「聖ヴィートの腕」を授かったことから守護聖人ヴィートとした。1344年に神聖ローマ皇帝カール4世(ボヘミア王カレル1世)の後援を受けて、ゴシック様式の大聖堂が設立され、戴冠式が行われる教会、一族の地下納骨堂、聖遺物の保管庫、守護聖人ヴァーツラフの墓所として整備された。

→関連する宝物 : コデックスギガス

□プラハカレッジ (Praha University)

 プラハ大学。チェコのプラハに在る大学。1348年に神聖ローマ皇帝カール4世(ボヘミア王カレル1世)によって創立された。ヨーロッパにおいて有数の歴史を誇る大学である。カール4世は若い頃、パリの宮廷に預けられ、パリ大学で学問を修めた。長じて神聖ローマ帝国皇帝となった後、教皇クレメンス6世と交渉し、1347年に勅許を受け、翌1348年に首都プラハに大学を設置した。当時の大学と同じく、神学、医学、法学の上級3学部と教養学部から成っていた。学監はプラハ大司教とし、学生はプラハ市内だけでなくヨーロッパ各地から集まった。チェコ語の正書法を確立したヤン・フスが活躍したことで知られる。

□シャルトルカテドラル (Chartres Cathedral)

 ノートルダム大聖堂。フランス中部シャルトルに在る大聖堂。フランス国内で最も美しいゴシック建築のひとつとされる。元々ロマネスク様式の建物だったが、1194年の大火事で焼け、1220年にかけて再建された。左右の塔は建築された時代の違いにより異なった様式で建てられた。内部に設けられたステンドグラス窓も有名で、特に聖母マリアと幼いイエスを描写した聖母子像やアダムとイブの失楽園、ノアの箱舟を描いたものが名高い。

□ノートルダムカテドラル (Notre−Dame Cathedral)

 ノートルダム大聖堂。「ノートルダム・ド・パリ」の名でも知られる。パリのシテ島に在るカトリック教会の大聖堂。パリ大司教座聖堂として使用されている。ノートルダムとはフランス語で「我らが貴婦人」を意味し、聖母マリアを指す。かつてローマ帝国時代にユピテル神の神域であったが、ローマ崩壊後、1163年にキリスト教徒によってバシリカを建設し、1225年に完成した。双塔は1250年まで工事が続けられ、最終的な竣工は1345年となった。そのため、ロマネスク様式の特徴を一部に残した初期ゴシック建築の傑作となった。

□トゥール・デュ・タンプル (Tour du Temple)

 タンプル塔。フランスのパリに在る修道院。複数の建造物で構成されるが、ひと際目立つ大塔があったため「塔」と呼ばれた。かつてフランス王を凌ぐ財力と武力を備えていたテンプル騎士団の本拠地であったが、1312年にテンプル騎士団がフランス王フィリップ4世(美男王)の陰謀によって廃止されると、聖ヨハネ慈善修道会に分与された。後世、フランス革命以後は監獄として使用され、国王ルイ16世一家が幽閉された場所でもある。

□ユニヴェルシテ・デ・パリ (Universite de Paris)

 パリ大学。フランスのパリに在る大学。パリ大学はボローニャ大学、サラマンカ大学、トゥールーズ大学、モンペリエ大学、オックスブリッジと共に12世紀から13世紀までに設立された大学で、ヨーロッパ最古の中世大学のひとつである。創設期には神学、法学、医学の上級学部の下に教養学部が設置されていた。1257年、聖ルイ(ルイ9世)の宮廷付司祭ロベール・ド・ソルボンが、神学部の貧しい学生のためにソルボンヌ学寮を設立して以降、パリ大学は通称「ソルボンヌ(Sorbonne)」とも呼ばれる。アルベルトゥス・マグヌス、トマス・アクィナスやロジャー・ベーコンなど名だたる神学者を輩出している。

→関連する宝物 : スーマ・テオロギカ / プセウド・ディオニシウス・アレオパギタ / オプス・マユス

□カテドラールノートルダム・デ・ランス (Cathedrale Notre−Dame de Reims)

 ノートルダム大聖堂。パリの東北東に位置する街ランスにある大聖堂。フランク王国の国王クロヴィスがランス司教レミギウスにキリスト教改宗の洗礼を受けたことから、大聖堂では歴代フランス国王の戴冠式が行われた歴史を持つ。シャルトル大聖堂やアミアン大聖堂と並び、フランス国内におけるゴシック様式の傑作の一つと称される。

→関連する宝物 : ジュワイユース

□アミアンカテドラル (Amiens Cathedral)

 アミアンのノートルダム大聖堂。フランス北部の都市アミアンに在るカトリック教会の聖堂。正式名称は「アミアンにおける我が貴婦人の大聖堂(Cathedrale Notre−Dame d’Amiens)」だが、アミアン大聖堂と呼ばれることが多い。完全なものとしてはフランスで最も高い大聖堂である。司教エブラール・ド・フイイが1220年に大聖堂の建築事業を開始し、多くの建築家が引き継ぎ、1266年に完成したが、仕上げ作業はその後も続いた。数多くの優れた装飾や彫像が施されている。第四次十字軍がコンスタンティノープルから持ち帰ったバプテスマのヨハネの頭部と云われる聖遺物が納められている。

□ポワティエカテドラル (Poitiers Cathedral)

 サン・ピエール・ド・ポワティエ大聖堂。フランス西部の都市ポワティエにあるプランタジネット朝時代のゴシック様式の大聖堂。4世紀以来、カトリック教会の司教座が置かれた。また、サンティアゴ・デ・コンポステラの巡礼路にあたり、多くの巡礼者が訪れた。

□アベイ・デ・クリュニー (Abbaye de Cluny)

 フランスのブルゴーニュ地方、クリュニーに在るベネディクト会修道院。正式名称は「サン=ピエール・エ・サン=ポール・ド・クリュニー修道院(Abbaye de Saint−Pierre et Saint−Paul de Cluny)」である。アキテーヌ公ギヨーム1世により創建されフランス革命まで存続した。修道院は創建後、ただちに教皇に認可された。927年から1156年まで、5人のきわめて高名で影響力のある修道院長を輩出し、最盛期を迎えた。聖堂は3期にわたって建築され、最盛期はロマネスク様式の最大級の聖堂であった。

□シャトー・デ・シノン (Chateau de Chinon)

 フランスのロワール渓谷、シノンに在る城。ヴィエンヌ川とロワール川の合流地点の中州の高台に建築された。ヴィエンヌ川を通じてポワトゥーやリモージュとも、ロワール川を通じて西海岸のナントと繋がり、東はイル・ド・フランスにも繋がるため交通の便が良いことが特徴である。954年、ブロワ伯ティボー1世の拠点として築城された。12世紀にはアンジュー伯に属し、プランタジネット家出身のイングランド王ヘンリー2世の居城となっていた。アンジュー帝国の莫大な領土における南の中心地として、ポワティエとボルドーを支えていた。15世紀初期、フランス王太子(のちのシャルル7世)の居城となり、1429年にジャンヌ・ダルクが訪れ、王太子を見分けて決起を促したエピソードで知られる。

□シャトー・デ・ブロワ (Chateau de Blois)

 フランスのロワール渓谷、ブロワに在る城。ブロワ城はブロワの街の中心に建てられた。13世紀から17世紀にかけて造られた建物がいくつか、中庭を囲むように建っている。もともとブロワ伯の要塞だったが、ルイ12世が居城とし、1500年代の初めに城の再建とルネサンス様式の庭園の作成に取りかかった。フランソワ1世が王になると、クロード王妃はブロワ城を改修させてアンボワーズ城から移ろうとする。フランソワ1世は城に新しい翼を建設し、図書室を造った。中央には美しい彫刻に囲まれた八角形の螺旋階段があり、城の中央の庭園が見渡せる。この螺旋階段は、ルネサンス様式の傑作と称される。また、ジャンヌ・ダルクが1429年、オルレアンからイングランド軍に向けて出陣する前に、ランスの大司教から祝福を受けた場所でもある。

□シャトー・デ・シャンボール (Chateau de Chambord)

 フランスのロワール渓谷、シャンボールに在る城。ロワール渓谷に点在する城のうち、最大の広さを持つ。フランス王フランソワ1世が建設した。古典的なイタリアの構造に伝統的なフランス中世の様式を取り入れた、フレンチ・ルネサンス様式(北方ルネサンス様式)が特異な城である。1519年から1547年にかけて建築されたが、フランソワ王の客人であるレオナルド・ダ・ヴィンチが設計に関与していたと考えられている。シャンボール城は中央の本丸と4つの巨大な塔から成る。建築上の見所の1つに、二重らせんの階段が挙げられる。2つの階段を使えば、相手に出会うことなく3階まで昇り降りができる。この種の構造を有する建造物は世界でも珍しい。また、この城は敵からの防御を意図した構造物は何もなく、壁や塔、堀の一部は華麗に装飾され、当時としても時代錯誤なほどであった。

□シャトー・デ・アンボワーズ (Chateau d’Amboise)

 フランスのロワール渓谷、アンボワーズに在る城。城はロワール川を見渡す高台に建てられた。この場所にはガロ・ローマンの時代から砦が築かれていたという。11世紀に城が築かれた際には、悪名高いアンジュー伯フルク3世が要塞を石で再建した。1434年にシャルル7世の手に渡り、時とともに拡張と改修を重ねた。フランス建築では最初のルネサンスの装飾モチーフを導入している。また、城の庭にはフランスで初めてイタリア風レイアウトが採用された。これがフランス式庭園(幾何学的構成の庭園)の始まりである。シャルル7世、ルイ11世、シャルル8世、フランソワ1世らヴァロワ朝の国王たちに愛された。なお、フランソワ1世がレオナルド・ダ・ヴィンチを呼び寄せたクロ・リュセはすぐ近くにある。

→関連する宝物 : ダーム・ア・リコルヌ / ラ・ジョコンダ / ダ・ヴィンチ・マニュスクリプト

□サン・セルナン・バシリカ (Saint Sernin Basilica)

 サン・セルナン大聖堂。フランス南西部アキテーヌ地方の都市トゥールーズに在る教会。この地で布教を行い250年に殉教した聖サトゥルニヌスに献堂された教会。1096年ローマ教皇ウルバヌス2世がこの地を訪れ、建築が始まった。13世紀から14世紀にかけて増築され、ロマネスク様式の教会堂建築としてはフランス最大の規模を誇る。サンティアゴ・デ・コンポステラの巡礼路における重要な場所のひとつでもある。

→関連する宝物 : ラ・マジェステ・サント・フォア

□サン・マルタン・バシリカ (Saint Martin Basilica)

 サン・マルタン教会。トゥールのマルティヌスに献堂された教会。聖マルティヌスは殉教せずに列聖された初めての聖人である。トゥールの司教となり、この地で熱心な伝教活動を行った。死後、その墓所の上に礼拝堂が建てられ、後に拡張され大聖堂となった。巡礼の中心地となったが、宗教改革によって破壊された。

□モンサンミシェル (Monat Saint Michel)

 フランス西海岸、サン・マロ湾上に浮かぶ小島、およびその上にそびえる修道院。ノルマンディー地方南部、ブルターニュとの境に近いサン・マロ湾は潮の干満の差が激しい所で、潮の満ち引きの差は15mに及ぶ。そのため、修道院の築かれた小島は満ち潮の時は海に浮かび、引き潮の時には陸橋で陸と繋がる。修道院の主要部はゴシック様式だが、内部は様々な中世の建築様式が混ざっている。708年にアヴランシュ司教オベールが大天使ミカエルの啓示を受け、礼拝堂を作ったのが始まりで、966年にノルマンディー公リシャール1世がベネディクト会の修道院を建て、これが増改築を重ねて13世紀にはほぼ現在の形となった。以後、カトリックの聖地として多くの巡礼者が訪れている。

□カルナックストーンズ (Carnac stones)

 カルナック巨石群。フランス北部ブルターニュ地方のカルナックに在る巨石遺構。巨大なメンヒルが約4kmにわたり数列に並んでいる三つの列石群からなる。西側からメネク列石、ケルマリオ列石、ケルレスカン列石の主要3群に分かれ、メネク列石が最も長い。紀元前5000年あるいは紀元前3000年から紀元前2000年頃に造られたとされる。精霊や巨人が建てたという伝説が残されている。

□アルハンブラ (Alhambra)

 アルハンブラ宮殿。スペインのグラナダ南東の丘の上に在る城塞都市。宮殿と城塞を兼ねるだけでなく、住宅や官庁、兵舎、厩舎、モスク、学校、浴場、墓地、庭園といった様々な施設を備えている。大部分はナスル朝時代に建設され、スルタンの居所として用いられた。1492年、レコンキスタによってグラナダが陥落すると、スペイン王カルロス1世がこの地を避暑地として選び、宮殿を建設した。当時、イタリア留学していた建築家ペドロ・マチューカが正方形の建物の中央に、円形の中庭を設けるという設計をし、スペインにおける純イタリア様式の傑作と言われる。

→関連する宝物 : ティソーナ

□セビリアカテドラル (Sevillie Cathedral)

 セビリア大聖堂。レコンキスタ以前はこの地に巨大なモスクが建っており、隣接するヒラルダの塔はかつてモスクのミナレットであったが、それを改装して大聖堂とした。スペイン最大の大聖堂である。

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□サンティアゴ・デ・コンポステラ・カテドラル (Catedral de Santiago de Compostela)

 サンティアゴ大聖堂。スペインのガリシア地方に在る大聖堂。ヨーロッパ三大聖地のひとつで、サンティアゴ巡礼の終着点に位置する。9世紀頃、この地にイェルサレムで殉教した聖ヤコブの遺骸が埋葬されたことから教会堂が建設された。997年にムーア人によって破壊されたが、1075年に再建が始まった。その後も増改築が重ねられ、基本となるロマネスク様式の設計に精巧なバロックとゴシック様式の装飾を施した、絢爛豪華な建築様式の集大成となった。

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□ファルムブリガンティウム (Farum Brigantium)

 “ヘラクレスの塔”とも呼ばれる。スペイン北西ア・コルーニャの半島に建つローマ建築の灯台。トラヤヌス帝の時代に建設された。塔の土台の礎石の碑文からルシタニア属州アエミニウム出身のガイウス・セウィウス・ルプスという建築家によって、マルス神に捧げられて建築されたことが知られる。2世紀から現代に至るまで灯台をして利用され続けている。

□モナステリオ・デ・モンセラート (Monasterio de Montserrat)

 サンタマリア・モンセラート修道院。スペインのカタルーニャ地方バルセロナ近郊にあるモンセラート山に築かれたベネディクト会の修道院。伝説では、880年に岩山から強い光が放たれているのを地元の羊飼いが気づき、調べてみると洞窟の中で聖母子像を見つけたという。現在「黒い聖母像(La Moreneta)」と呼ばれている聖母子像であるが、重すぎて運べなかったため、この地に大聖堂が建立されたとされる。12世紀から13世紀にかけてロマネスク様式の教会が建てられた。当時の主要な巡礼地のひとつだった。

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□ジェロニモ・モナステリー (Saint Hieronymites Monastery)

 ジェロニモ修道院。ポルトガルの首都リスボンに在る修道院。聖ヒエロニムスにあやかったヒエロニムス会の修道院。ヴァスコ・ダ・ガマによるインド航路開拓およびエンリケ航海王子の偉業を称え、1502年にマヌエル1世によって着工され、1511年に回廊など大部分が完成したものの、マヌエル1世の死やスペインとの同君連合による中断などもあり、最終的な完成は19世紀に入ってからである。その建築資金は、ヴァスコ・ダ・ガマが持ち帰った香辛料の売却による莫大な利益によって賄われた。

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□ヴァレッタ (Valletta)

 マルタ島東部に位置する港湾都市。聖ヨハネ騎士団の本拠地。騎士団は中東における十字軍国家の主力のひとつだったが、アッコンの陥落後、本拠地をキプロスに移して海軍(海賊)となってイスラム勢力と戦い続けた。後にロードス島に本拠地を移し、ロードス騎士団と呼ばれた。1444年にはマムルーク朝のスルタン、1480年にはオスマン帝国のメフメト2世の襲撃を受けたが騎士団はこれを撃退した。しかし、1522年、オスマン帝国のスレイマン1世が400隻の船団と20万の兵力で来襲した。騎士団は7千の兵力で必死の防戦を行ったが、衆寡敵せずロードス島を明け渡して撤退した。騎士団は再び本拠地を失ったが、教皇クレメンス7世と神聖ローマ皇帝カール5世の斡旋により、シチリア王からマルタ島を借りることになった。その後、イスラムやヴェネツィアのユダヤ人の船舶に対して海賊行為を続けた。1565年に再びオスマン帝国の大船団の襲撃を受けるが、スペインの救援とスレイマン1世の死(1566年)によってかろうじて防衛に成功した。この時の騎士団総長ジャン・ド・ラ・ヴァレットにちなんで都市の名が付けられた。

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□ジュガンティーヤ (Gganttija)

 地中海に浮かぶゴゾ島にある新石器時代の巨石神殿複合体。その名はマルタ語で「巨人の塔」を意味する。マルタに在る巨石神殿群の中で最古のものとされる。ジュガンティーヤの二つの神殿は新石器時代(紀元前3600年から2500年頃)に建設されたもので、5500年前からあり、世界的にも最古の宗教施設のひとつである。

 

■北方辺境(北欧地域)の名所旧跡

□ロンドンタワー (Tower of London)

 イングランドのロンドンを流れるテムズ川岸、イーストエンドに築かれた城塞。1066年にイングランドを征服したウィリアム征服王が1078年にロンドンを外敵から守るための要塞として、ホワイトタワーを建設し、リチャード1世が城壁の周囲の濠の建設を始め、ヘンリー3世が完成させた。以降、王朝が変遷しても国王の居住する宮殿として1625年まで使われた。

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□ウェストミンスターアベイ (Westminster Abbey)

 ウェストミンスター寺院。イングランドのロンドン、ウェストミンスターに在るイングランド国教会の教会。聖ペテロ修道教会。歴代イングランド王の戴冠式が執り行われ、内部の壁と床には歴代の王や女王、政治家などが多数埋葬されている。11世紀にエドワード懺悔王が建設し、1066年以降、イングランド王の戴冠式が行われている。1245年、ヘンリー3世によってフランスの建築家が招かれ、フランスのゴシック建築にならって改装を始めた。14世紀末までにおおよそ完成するが、その後も長期間にわたって様々な様式で増改築されている。王の戴冠式を行う「エドワード懺悔王の礼拝室」には、スコットランドから略奪したスコットランド王権の象徴「スクーン石」の嵌め込まれた戴冠式用の玉座が在った。

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□テンプルチャーチ (Temple Church)

 テンプル教会。イングランドのロンドンに在るイングランド国教会の教会。12世紀後半にフリート通りとテムズ川の間にテンプル騎士団イングランド本部として建てられた。1307年のテンプル騎士団廃止後、イングランド王エドワード2世が教会を王家の管理下に置いた。後にテンプル教会を借りて法学校を運営していた聖ヨハネ騎士団に教会が与えられた(この法学校は現在の法曹院、インナー・テンプルとミドル・テンプルに発展する)。1540年、ヘンリー8世がイングランドにおける聖ヨハネ騎士団の活動を廃止させたため、再びテンプル教会は王家の資産となった。教会内に安置されている中世騎士の肖像墓、建物が円形教会であることで有名である。

□ダラムカテドラル (Durham Cathedral)

 ダラム大聖堂。イングランド北東部のダラムに在るイングランド国教会の大聖堂である。1093年に創建された。ノルマン様式の教会としては最も精巧な建築物として知られる。リンディスファーン島の聖人リンディスファーンのカスバートの聖遺物を保有している。ダラムの主教は代々、絶大な権力をもつ領主主教であり、19世紀半ばまで権勢を誇った。

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□ストーンヘンジ (Stonehenge)

 イングランド南部ソールズベリーの北西に位置する環状列石。円陣状に並んだ直立巨石とそれを囲む土塁からなる先史時代の遺跡。紀元前2500年から紀元前2000年頃に建てられたと推測されている。馬蹄形に配置された巨大な門の形の組石5組を中心に、直径100mの円形に30個の立石が配置されている。夏至の日にヒールストーンと呼ばれる玄武岩と中心にある祭壇石を結ぶ直線上に太陽が昇ることから、設計者には天文学の高い知識があったと考えられている。

□サットン・フー (Sutton Hoo)

 イングランド東部イースト・アングリアのサフォーク州ウッドブリッジ近くで発見された7世紀アングロサクソン時代の船葬墓。船葬墓とは、船の船体を遺体を収める棺として用いた墳墓である。豊かな副葬品が出土し、中世初期のイングランドを知る上で考古学的に極めて重要な遺跡である。副葬品から627年に死去したイースト・アングリア王レッドウォールドの墓と推定されている。

□ハドリアヌスウォール (Hadrian’s Wall)

 イングランド北部に在るローマ帝国時代の城壁跡。広義にはローマ帝国の国境線を防御する防御壁「リメス」の一部であり、ローマ帝国最北端の国境線でもある。2世紀に第14代ローマ皇帝ハドリアヌスにより建設された。当時、ローマ帝国領であったブリタニアはたびたび侵攻してくるケルト人に悩まされており、その侵攻を防ぐため、122年に工事が開始され、完成には10年の歳月がかかった。完成当初は土塁だったが、その後石垣で補強され、一定間隔で監視所や要塞も建築された。ローマ帝国滅亡後もスコットランドに対する防御壁として、17世紀まで使用され続けた。

□ウプサラドゥムシェルカ (Uppsala Domkyrka)

 ウプサラ大聖堂。スウェーデンのウプサラにあるスカンディナヴィア諸国で最大の教会。大聖堂の建設はガムラ・ウプサラから大司教座が移転した1287年から始まったが、完成までに1世紀以上を要した。大司教オラウス・ラウレンティ時代の1435年から使用され始めたが、当時は完成に至っていなかった。当時スウェーデンで崇拝されていた聖ラウレンティウス、スウェーデンの守護聖人聖エリク、ノルウェーの守護聖人聖オラーヴに献堂された。中世からスウェーデン王の戴冠式が行われ、また歴代のスウェーデン王が埋葬されている。

□ウルネス・スターヴチャーチ (Urnes Stave church)

 ウルネス・スターヴ教会。ノルウェーのベルゲネス地方にある樽板教会。支柱と梁で構成された中世の木造教会で、教会の荷重を支える太い支柱(stav)がそのまま建築技術の名前になっている。1130年前後に建築されたと推測されている。ウルネスの教会建築は。キリスト教建築とヴァイキング建築が結びついたいわゆるウルネス様式と呼ばれるスカンディナヴィアにおける動物を模したスタイルである。

□イェリングマウンド (Jelling Mounds)

 イェリング墳墓群。デンマークのユトランド半島中部イェリング近郊に在るルーン文字の刻まれた10世紀の石碑と墳墓群である。石碑はふたつあり、ひとつはイェリング朝の開祖ゴーム老王とチューラ王妃の事績が刻まれ、もうひとつは彼らの子であるハーラル青歯王の記念碑である。ハーラル青歯王がデンマークとノルウェーを征服したことと、デーン人のキリスト教への改宗を祝って建てられた。これらの石碑は北欧の土着宗教とデンマークのキリスト教化の移行期を表している。また墳墓にはゴーム老王とチューラ王妃が葬られていたとされる。後に王の遺体は近くの教会に改葬されたと推定されている。

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■東方辺境(東欧地域)の名所旧跡

□ザメククレスキ・ヴァヴェル (Zamek Krolewski na Wawelu)

 ヴァヴェル宮殿。ポーランドのクラクフに在るポーランド王宮殿。ポーランド王のカジミェシュ3世により970年に建てられた。1020年に歴代ポーランド王の戴冠式を行い、また埋葬されることになるヴァヴェル大聖堂も付属して建設された。ポーランド王国が存続した約500年に渡って修築、改修が行われ、ロマネスク様式とゴシック様式の建物によって構成されている。

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□マーチャーシュテンプロム (Matyas Templom)

 ハンガリー王国の首都ブダ(現ブダペストの西側部分)の中心に在る教会。正式名称は「聖マリア聖堂」。13世紀半ばにハンガリー王ベーラ4世の命でブダ城内に後期ゴシック様式で建造された際、「聖母マリア聖堂」と名付けられた。しかし、後の1497年に南の塔の建造を含む増築を命じた名君マーチャーシュ1世の名で広く呼ばれるようになった。ハプスブルク家最後の皇帝カール1世を含め、ほぼ歴代のハンガリー国王の戴冠式がこの聖堂で行われた。

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□セント・ソフィア・カテドラル (Saint Sophia Cathedral)

 聖ソフィア大聖堂。キエフの中心にある大聖堂。1037年にキエフ大公国ヤロスラウ大公によって建立され、ルーシの大司教座が置かれた。大聖堂はビザンツ様式で建てられ、レンガ色の壁と鉛色のドームを持ち、内部は色彩に富んだモザイク、フレスコ画、イコンで飾られていた。名称はビザンツ帝国コンスタンティノポリスにあった聖ソフィア大聖堂にちなんで名付けられた。ウラジーミル・スーズダリ大公国やモンゴル帝国の襲撃を受け、荒れ果てたこともあったが、1569年にウクライナ・カトリック教会の司教座となり大規模な修理が行われた。

□ウスペンスキーカテドラル (Uspenskiy Cathedral)

 生神女就寝大聖堂。モスクワ大公国の母教会であり、ロシア正教会の著名な大聖堂である。イヴァン3世の命により1475年から1479年にかけてイタリア人建築家アリストーテリ・フィオラヴァンティによって建築された。生神女とは正教会における聖母マリアを指す称号である。ルネサンスとロシアの伝統を融合した、明るく広々とした傑作である。内部はフレスコ画と「ウラジミールの生神女」「ヴラヘルネの生神女」を含む多数のイコンによって装飾されている。

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■東部教国(中東地域)の名所旧跡

□オロス・アトス (Oros Athos)

 アトス山。ギリシア北東部エーゲ海に突き出したアトス半島の先端にそびえる山。その周辺は正教会の聖地となっており、「聖山」の名でも呼ばれる。伝承によれば、生神女マリアが旅の途中で嵐に遭ってアトスの海岸に避難したとき、その美しさに心惹かれ自らの土地としたとされる。961年に聖アサナシオスが東ローマ皇帝から勅許を得て、メギスティ・ラヴラ修道院を建設した後、多くの修道院が建設された。その後、東ローマ帝国の影響力が衰え、幾度となく略奪が行われ荒廃したが、ブルガリア帝国やセルビア王国など東欧諸国から荘園の寄進が行われ復興した。1382年以降、オスマン帝国の勢力下に入り、1453年に東ローマ帝国が滅亡したが、オスマン帝国は修道院の半島以外の荘園を没収したものの宗教活動と自治を認めたため、修道院は存続することができた。

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□デルフォイ (Delphi)

 デルフォイ神殿。パルナッソス山の麓にあるアポロン神を祀る神殿。この地は古代ギリシアにおいては、“世界の中心”と信じられていた。ギリシア最古の神託所として知られ、神憑りになった巫女シビュラによって謎めいた詩として告げられる託宣は、神意として古代ギリシア人に尊重され、時には都市国家ポリスの政策決定にも影響を与えたとされる。

□トロイア (Troia)

 トロイア遺跡。イリオス(Ilios)とも呼ばれる。トルコ北西部、ダーダネルス海峡以南にあったとされる古代都市の遺跡。ホメロスの叙事詩『イーリアス』で描かれたトロイア戦争によって滅ぼされた都市の遺跡とされる。

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□パルテノン (Parthenon)

 パルテノン神殿。アテナイのアクロポリス上に建設されたアテナ神殿。紀元前447年に建設が始まり、紀元前438年に完成した。古代ギリシア建築のドーリア式建造物の最高峰とされる。また装飾彫刻もギリシア美術の傑作である。6世紀にはキリスト教の生神女マリア聖堂となり、コンスタンティノープル、エフェソス、テッサロニキに次ぐ巡礼地となった。1456年にオスマン帝国によって占領された後、モスクに改装され、神殿内にミナレットが設けられた。

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□ミュケナイ (Mycenae)

 ミュケナイとはエーゲ文明のうち、ペロポネソス半島のミュケナイを中心に栄えた青銅器文明である。紀元前1450年頃、アルゴリス地方で興り、ミノア文明と同じく地中海交易によって発達した。巨石を用いた建築が特徴で、堅牢な城壁に囲まれた都市を築いた。

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□クノッソス (Cnossus)

 クノッソス宮殿。ギリシアのクレタ島にある青銅器時代最大の遺跡。複雑な構造をした宮殿で、ミノア文明で儀式や政治の中心であったと考えられている。宮殿の一辺は160m以上あり、部屋は1200室以上、部分的には4階建ての建造物すらあったとされる。ギリシア神話のミノス王の逸話は隆盛を誇ったミノア文明を、ミノタウロス伝説で有名なラビリンスはこのクノッソス宮殿の廃墟をモデルにしたと推定されている。

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□バールベック (Baalbek)

 レバノンの東部、ベッカー高原の中央に在る古代遺跡。バールベックとは「ベッカー高原の主神」を意味し、ここにフェニキアの神バアルが祀られていたことに由来し、本来はフェニキア系の神々の聖地だった。しかし、後にローマ系の神々と習合し、祭神はジュピター、ビーナス、バッカスと呼ばれるようになった。遺跡はこれら三神を祀る三つの神殿から構成される。世界でも有数のローマ神殿跡である。

□クラック・デ・シュヴァリエ (Krak des Chevaliers)

 シリアのトリポリの東に位置した峰に築かれた十字軍時代の代表的な城で、当時の築城技術の粋を究めたものと評価されている。アラビア語では「カラット・アル=ホスヌ(Qalat al−Hosn)」(城塞都市の意)とも呼ばれる。アンティオキアからベイルートへ向かう海沿いの道や、内陸から地中海に出る峠道を扼している。1142年から1171年まで、聖ヨハネ騎士団の拠点として使用され、十字軍国家の防衛網の一角を成していた。1271年にマムルーク朝のバイバルスの調略によって落城した後は、マムルーク朝副王の居城となった。

□アヤソフィア (Ayasofya)

 聖ソフィア大聖堂。トルコのコンスタンティノープル(現イスタンブール)に在るモスク。東ローマ帝国時代に正統派キリスト教の大聖堂として建設され、帝国第一の格式を誇る教会、コンスタンティノープル総主教座であった。東ローマ帝国滅亡後、1453年よりモスクとして改築された。東ローマ帝国の代表的な遺構であり、ビザンティン建築の最高傑作と評される。

□トプカプ・サライ (Topkapi Sarayi)

 トプカプ宮殿。コンスタンティノープル(現イスタンブール)旧市街のある半島の先端部分、三方をボスポラス海峡、マルマラ海、金角湾に囲まれた丘に位置する。オスマン帝国の君主の居住した宮殿。メフメト2世が、1460年頃に造営を開始し、1478年頃に完成した。宮殿は君主の住居であると同時に、オスマン帝国の行政の中心地として機能した。

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□ルメリ・ヒサル (Rumeli Hisari)

 オスマン帝国のメフメト2世がコンスタンティノープル(現イスタンブール)郊外に造営した城塞。「ローマ人の土地(ルメリ)の要塞」という意味をもつ。メフメト2世が東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを攻略中の1452年にわずか4ヵ月ほどの短期間で造営し、攻略の拠点となった。当時のコンスタンティノープルは、マルマラ海と金角湾にはさまれた半島の一帯に中心部があり、海と古代ローマ帝国来の堅固な城壁に守られた難攻不落の城塞都市となっていた。金角湾の入り口には東ローマ帝国によって鉄製の太い防鎖が張られ、オスマン艦隊の進入を阻止していたが、メフメト2世は艦隊を陸上から丘越えで金角湾に移動させるという奇策に出てコンスタンティノープルを陥落させた。

□カッパドキア (Cappadocia)

 トルコの中央アナトリアのカッパドキア地域にある奇石群と古代ローマ時代にギリシア人のキリスト教徒によって建設された地下都市。この地域への初期の移住はキリスト教が伝播した頃の古代ローマ後期にさかのぼる。史跡の中にはギョレメのオルタハネ、ドゥムス・カディル、ユフス・コックとベジルハネの教会、岩から彫られた家々と縦抗がある。広範囲にわたる地下都市カイマクルやデリンクユが発見されている。内部には教会、学校、ワイナリー、食料貯蔵庫などが作られ、約2万人が暮らしていたと考えられる。各階層は階段や傾斜した通路でつながれている。

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□パムッカレ (Pamukkale)

 トルコ西部デニズリ地方の石灰華段丘からなる丘陵地のこと。トルコ語で「綿の宮殿」の意味で、この地方が良質な綿花の産地であることによる。二酸化炭素を含む弱酸性の雨水が台地を作っている石灰岩中に浸透し、炭酸カルシウムを溶かした地下水となる。その地下水が地熱で温められて地表に湧き出し温泉となり、その温水中から炭酸カルシウムが沈殿して、石灰による純白の棚田のような景観を作り出している。

□ノアズ・アーク (Noah’s Ark)

 ノアの方舟。旧約聖書の『創世記』で語られる大洪水の際に、ノアとその家族、多種の動物を乗せた巨大な方舟。アララト山に漂着したとされており、古くから発見の報告が幾つか記録されている。

□クッバ・アッ・サフラ (Qubba al−Sakhra)

 岩のドーム。イェルサレムにあるイスラムの聖地。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教にとって重要な関わりをもつ“聖なる岩(Foundation Stone)”を祀っている。そのため、このドームはその神聖な岩を覆った記念堂であり、礼拝所としてのモスクではない。岩のドームはかつてイェルサレム神殿内にあり、ウマイヤ朝第5代カリフ、アブドゥルマリクによって688年に着工し、692年に完成した。外装は1554年にオスマン帝国のスレイマン1世の命によって、建築家ミマール・スィナンが大理石と瑠璃色のトルコ製タイルによって装飾されている。

□ホーリーセパルカーチャーチ (Chaurch of the Holy Sepulchre)

 聖墳墓教会。イェルサレムに在るキリストの墓とされる場所に建てられた教会。ゴルコタの丘はこの場所にあったとされる。ローマ帝国皇帝コンスタンティヌス1世は325年頃にキリストの磔刑の場所、ゴルゴタに教会を建てることを命じた。その後、イェルサレムは二度のユダヤ戦争によって破壊され、ゴルゴタの位置は不明となった。伝説によれば、326年にコンスタンティヌスの母ヘレナがイェルサレムを訪れ、この地で聖十字架などの聖遺物を発見し、ゴルゴタと比定し、教会が建てられた。その後、幾度となく戦乱によって破壊されたが、1048年に東ローマ帝国皇帝コンスタンティヌス9世モノマコスが再建した。

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□マスジド・ハラーム (Masjisd al−Haram)

 メッカの大モスク。アラビア半島西部のメッカにあるイスラム教のモスク。中庭にはイスラム教の最高の聖地であるカアバ神殿がある。イスラム教徒のなすべき五行のうち、礼拝と巡礼において特別な存在である。692年にウマイヤ朝のアブドゥルマリク・ブン・マルワーンによって、カアバ周辺の整備が行われ、8世紀末までにワリード1世によって大理石の柱、礼拝室の拡張、ミナレットの付設が行われた。1570年にオスマン朝のセリム2世によって改修が行われ、装飾されたドーム屋根と支柱の増築が行われた。

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□アル・マスジド・アン・ナバウィ (al−Masjid an− Nabawi)

 預言者のモスク。メディナに在るモスクで、イスラム教第二の聖地。預言者ムハンマドの霊廟。622年、ムハンマドは信者と共にメディナに移住、いわゆるヒジュラ(聖遷)を行った。メディナにはムハンマドの住居となる煉瓦製の方形の建物が建てられ、モスクとなった。632年、ムハンマドが没するとこのモスクに埋葬された。706年、ウマイヤ朝カリフ、ワリード1世によって新しいモスクが建築された。その後、何度か火災に遭ったが、1483年にマムルーク朝のスルタン、アシュラフ・カーイトバーイによって再建され、オスマン帝国時代に修復されて現在のモスクに至る。

□ペトラ (Petra)

 死海とアカバ湾の間にある渓谷にある都市の遺跡。名前はギリシア語で崖を意味する。ペトラの地は、中東での人や物の行き交う交通の要衝であり、ナバテア人の首都として砂漠を移動するキャラバン隊の中継基地であった。105年にローマ皇帝トラヤヌスに征服され、ローマのアラビア属州に組み込まれた。その後、通商路から外され徐々に衰退し、749年のガリラヤ地震の被害により放棄された。宝物殿エル・カズネ(Al Khazneh)は、砂岩の岩肌を彫って造られた古代ギリシア建築の影響を受けた優美なもので、王家の墳墓として造られたと推測されている。

→関連する宝物 : ホーリーグレイル

□パルミラ (Palmyra)

 シリア中央部のタドモルに在るローマ帝国時代の都市遺跡。北から流れるワジアブオベイド川と、西から流れるワジアイド川が形成した扇状地にあるオアシスに建設された。この地は地中海沿岸のシリアやフェニキアと、東のメソポタミアやペルシアを結ぶ交易路となっており、シリア砂漠を横断するキャラバンによって非常に重要な中継点だった。紀元前1世紀から3世紀まで、シルクロードの中継都市として発展し、2世紀にペトラがローマに吸収されると、通商権を引き継ぎ、絶頂期に至った。ローマの軍人皇帝時代にパルミラ帝国が成立し、270年頃に君臨した女王ゼノビアの時代にはエジプトの一部も支配下に置いていたが、ローマ皇帝アウレリアヌスによって273年に攻め滅ぼされ、廃墟と化した。

□イシュタルゲート (Ishtar Gate)

 イシュタル門。バビロンの北域に位置する8番目の門。紀元前575年、新バビロニアのネブカドネザル2世により建設された。青い釉薬瓦で、バビロンの女神イシュタルと共に、神獣ムシュフシュやオーロックスの浮き彫りなどが施されている。紀元前225年頃にビザンチウムのフィロンの著した『世界七不思議』のひとつに挙げられていた。

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□ジッグラト (Ziggurat)

 ウルのジグラット。シュメール語で、「エ・テメン・ニグル」(E−Temen−Nigur)と呼ばれる。ウル第三王朝の王ウル・ナンムが建造したとされる日乾煉瓦を組み上げて建てられた巨大な聖塔。最上部に月の神ナンナを祀る神殿が置かれていた。

→関連する宝物 : ウル・スタンダード

□バベルタワー (the Tower of Babel)

 バベルの塔。シュメール語で、「エ・テメン・アン・キ」(Etemenanki)と呼ばれる。シュメール人が建築を開始し中断していたものを、カルデア人の新バビロニア王国のナボポラッサル王が再建に着手し、その息子であるネブカドネザル2世の時代に完成した。バビロンのマルドゥク神殿の中心部に築かれた七層建ての巨大なジグラット。旧約聖書『創世記』のバベルの塔の挿話は、バビロン捕囚時代に目にしたエ・テメン・アン・キに影響されたと推測されている。

→関連する宝物 : ハンムラビコード・ステラ

□ペルセポリス (Persepolis)

 アケメネス朝ペルシア帝国の首都。紀元前520年にダレイオス1世が建設を始めた。当初、帝国の中心として構想され、クーヒ・ラハマトの山裾にて自然の岩盤を利用して建設された。都市の建設は、アルタクセルクセス1世の治世前半まで継続して行われた。アケメネス朝を滅ぼしたアレクサンドロス3世によって、略奪と破壊が行われ廃墟となった。

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□マスジット・イ・シャー (Masjed−e Shah)

 サファビー朝ペルシアの首都イスファハンに在るイスラム寺院。ペルシア語で「王の墓」を意味する。1598年、アッバス1世はイスファハンに首都を移し、大規模な都市整備計画に基づいて市街の建設を始めた。二層のアーケードで囲まれた広場を中心に、南辺にこのモスクを配置した。外装を青を基調とした精密なアラベスク模様のタイルで覆った荘厳なモスクであり、イランの近世イスラム建築を代表する傑作とされる。

→関連する宝物 : シャー・ナーメ

□マスジット・イ・ジャーメ (Masjed−e Jame of Isfahan)

 イスファハンのジャーメ・モスク。ペルシアのイスファハンに在る会衆のモスク。金曜モスクとも呼ばれる。771年に建設されたイスファハンで最も古いモスクであり、絶え間なく増改築が行われた結果、建物のどの部分がいつ建てられたのか判別できない複雑な歴史をもつ。少なくともブワイフ朝時代、セルジューク朝時代、イルハン朝時代、ティムール朝時代、サファビー朝時代と手が加えられ、さながら「イラン・イスラム建築の博物館」とも言える様相を呈している。

 

■南方暗黒大陸(アフリカ地域)の名所旧跡

□カルタゴ (Carthage)

 紀元前にアフリカ大陸の北岸を中心に地中海貿易で栄えたフェニキア人による国家の首都。チュニス湖東岸に在った。地中海の貿易によって、盛時には巨大な経済力や軍事力を誇り、地中海の西部の海上交易を支配し、地中海貿易の中心地として機能した国際的な都市国家であった。アフリカ北岸の広域やイベリア半島の南側を領土として支配した地中海南岸に本拠地を持つ当時の大国であり、地中海北側に本拠地を持つローマと対等に競い合った。しかし、約1世紀にも渡るポエニ戦争によってローマに滅ぼされ、都市は徹底的に破壊されたが、後にアウグストゥスによって再建され、ローマ帝国西方の第二都市となった。ローマ帝国滅亡後、698年にウマイヤ朝に占領され、以後はチュニスにその役割を奪われ、衰退した。

□アルジェ (Algiers)

 北アフリカの西部地中海に面した港湾都市で、紀元前1200年頃にフェニキアがこの地に植民して交易所を置いたのを起源とする。ポエニ戦争後はローマ帝国の領土となりイコシウムと呼ばれたが、5世紀中頃にゲルマン系ヴァンダル族によって一時侵略された。次に東ローマ帝国が支配したが、650年にアラブ人に駆逐された。950年頃、先住民族ベルベル人のズィール朝によって現在の市街が創建され、アルジェと名付けられた。1516年にバルバリア海賊のバルバロス・オルチとバルバロス・ハイレッディン兄弟がアルジェ占領に成功する。バルバロス兄弟は対スペイン戦のため、オスマン帝国に帰属した。1538年のプレヴェザの海戦によってオスマン帝国が地中海の制海権を掌握すると、アルジェはオスマン帝国艦隊の拠点となり、ヨーロッパ諸国から“海賊海岸”として恐れられた。

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□アル・カラウィーン (Al−Qarawiyyin)

 アル・カラウィーン大学。モロッコのフェズに在る大学。世界に現存する最古の大学である。モスクに付属するマドラサ(イスラム神学校)としてイドリス朝カリフのファティマ・アル・フィフリによって859年に創設され、以後イスラム圏の主要な教育の中心地のひとつとなった。その教育はイスラム神学、イスラム哲学、イスラム法、イスラム法学、アラビア語学に集中している。創建以来、代々の王朝によって拡張されてきた。

□アル・アズハル (Al−Azhar)

 アル・アズハル大学。エジプトのカイロに在る大学。970年に建立したアル・アズハル・モスクに付属するマドラサ(イスラム神学校)としてファティマ朝支配下のカイロに設立された。当初、街の名にちなんでアル・カヒーラ・モスク(カイロのモスクの意)と呼ばれていたが、後にアズハル(預言者ムハンマドの娘ファティマの称号「アル・ザフラー」にちなんだ名)と呼ばれるようになった。イスラム神学、イスラム哲学、イスラム法、アラビア語学、ギリシア哲学、天文学、論理学の部門を擁するシーア派の学府として発足した。当時、イスラム世界で背教的とされたギリシア哲学を奨励したため、イスラム世界の哲学研究の中心となった。その後、アイユーブ朝のサラディンによってスンナ派の学府となった。1517年、マムルーク朝を破ってカイロを征服したオスマン帝国のセリム1世はアズハルを廃止することなく存続させた。

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□ギザ・グレートピラミッド (Giza Pyramid Complex)

 ギザの三大ピラミッド。造営時期は紀元前2500年頃とされ、古代エジプト第4王朝時代に建設された。古代エジプト王国のファラオの墓陵であり、被葬者はクフ王、カフラー王、メンカウラー王とされる。それぞれのピラミッドには王妃たちのピラミッドや衛星ピラミッド、参道やマスタバ墓群などが付属しており、いわゆるピラミッド複合体を形成している。カフラー王のピラミッドの参道入り口にそびえたつギザの大スフィンクスも、このピラミッド複合体の一部に含まれている。

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□スフィンクス (Great Sphinx of Giza)

 ギザの大スフィンクス。古代エジプトの古王国時代に作られ、ギザの三大ピラミッドの傍に在る巨大なスフィンクス像。全長73.5m、全高20m、全幅6m。石灰岩の丘を掘り下げたもので、一枚岩から掘り出された世界最大の像である。紀元前2500年頃、第四王朝カフラー王の命により、第二ピラミッドと共に作られたとされる。

□カルナックテンプル (Karnak Temple)

 カルナック神殿。エジプト、テーベのナイル川東岸に在る古代エジプトの神殿複合体。中心はアメン神に捧げられたアメン大神殿となっている。荒廃した神殿、祠堂、塔門およびその他の建造物の膨大な構成から成る。100ha以上におよぶ広大な古代宗教遺跡である。複合体の建造は、中王国時代(紀元前2055〜1650年頃)の統治中に始まり、残存する新王国時代からの建造物のほとんどがプトレマイオス朝の時代(紀元前332〜32年)まで継続された。カルナック周辺は古代エジプトにおいて“イペト=スゥト(Ipet−sut)”すなわち「諸々の中で選り抜きの場所」であり、アメン神を頂点とする第18王朝(紀元前1550〜1295年頃)のテーベ三柱神崇拝の中心地であった。

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□ルクソールテンプル (Luxor Temple)

 ルクソール神殿。エジプトのルクソール(古代テーベ)東岸に在る古代エジプト時代の神殿複合体。元々、カルナック神殿の中心を形成するアメン大神殿の付属神殿として、エジプト第18王朝ファラオのアメンホテプ3世によって建設された。神殿後方にはアメンホテプ3世およびアレクサンドロス3世によって建設された祠堂がある。ローマ時代には、神殿周辺は軍の要塞となり、基地が置かれた。

□アブジンベル (Abu Simbel)

 アブシンベル神殿。エジプト南部に在るヌビア遺跡。砂岩でできた岩山を掘り進めて作られた岩窟神殿。大神殿と小神殿からなる。新王国時代第19王朝の王、ラムセス2世によって築かれた。大神殿は太陽神ラーを、小神殿はハトホル女神を祭神としている。この神殿では年に2回、神殿の奥まで日の光が届き、神殿の奥の4体の像のうち、冥界神であるプタハを除いた3体を明るく照らすようになっている。

□キングストンブバレー (the Valley of the Kings Tombs)

 王家の谷。エジプト、テーベのナイル川西岸にある岩山の谷に在る岩窟墓群。古代エジプトの新王国時代の王たちの墓が集中していることから名付けられた。24の王墓を含む64の墓が発見されている。新王国時代以前の王墓の多くが盗掘にあっていたことから、トトメス1世によって自分の墓の在処を隠す目的で、この谷に初めて岩窟墓が建設された。その後の長い歴史の中で王家の谷にある墓の多くも盗掘を受けたが、1922年に発掘されたツタンカーメン王の墓は唯一未盗掘で、副葬品の財宝が完全な形で発見された。

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□ベテ・ギョルギア (Biet Ghiorgis)

 聖ゲオルギー教会。エチオピアの北東部ラリベラに在る岩窟教会堂。ザグウェ朝のラリベラ王が君臨していた12世紀から13世紀にかけて建造されたと推測される。11の聖堂と関連する礼拝堂などの建造物群からなる。最も秀逸とされるのが、聖ゲオルギウスに捧げられた教会堂である。いずれも巨岩を掘り下げて作られている。当時、ヨーロッパの伝説にあるアフリカに存在するとされたキリスト教徒の王国、プレスター・ジョンの国はエチオピアだと考えられていた。

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□ジェンネグレートモスク (Great Mosque of Djenne)

 泥のモスク。ニジェール川の支流バニ川に浮かぶ島に建設された都市ジェンネに築かれたモスク。1280年頃にイスラムに改宗したジェンネ王コワ・コアンボロが宮殿を壊し、跡地に壮麗なモスクを建てたのが起源である。ほとんど泥で建てられている。

□トンブクトゥ (Tombouctou)

 西アフリカのニジェール川の中流域、川の湾曲部に位置する砂漠の民トゥアレグ族の都市。マリ帝国、ソンガイ帝国の時代に繁栄し、遠くヨーロッパでも「黄金郷」として知られた。この地は古代よりサハラ砂漠を越えたアフリカ内陸の黒人と北アフリカから来るベルベル人やムスリムの商人との交易拠点であった。トンブクトゥは、遊牧民トゥアレグ族の特定の季節だけの野営地が起源であるが、その後、金や象牙、奴隷、塩などの交易品が行き来するサハラ砂漠の通商路において重要な中継地として都市へ成長し、この地に興隆したガーナ王国、マリ帝国、ソンガイ帝国を通じて莫大な富が集まる重要都市となった。1500年代初頭、トンブクトゥの繁栄は頂点を迎え、その途方もない富の物語や伝説が伝えられたことを動機として、多くのヨーロッパ人がアフリカへの探検に向かった。

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□グレートジンバブウェ (Great Zimbabwe)

 ジンバブウェ神殿。ジンバブウェ高原の南端、サビ川の上流に位置する大規模な石造建築遺跡。ジンバブウェとは、ショナ語で“石の家”を指す一般語のため、遺跡を指すときは語頭にグレートを付けるのが慣例となっている。遺跡の中心部にある石造建築物群は、50世帯近くにおよび王の一族の住居であったとされる。

 

■シャンバラ亜大陸(インド、東南アジア地域)の名所旧跡

□モヘンジョ・ダロ (Moenjodaro)

 インダス文明最大級の都市遺跡。紀元前2500年から紀元前1800年にかけ繁栄し、最大で4万人近くが居住していたと推測される。しかしその後は短期間で衰退した。原因としてさまざまな説があげられたが、近年の研究では大規模な洪水で衰退したと考えられている。名前は現地の言葉で「死の丘」を意味する。本来の名称は、インダス文字が未解読のため、判明していない。

□タフテ・バヒー (Takht−Bahi)

 パキスタンのガンダーラ平野を見下ろす丘の上に建設された仏教遺跡。ペルシア語で「源泉の玉座」の意で、近くに川があったことからこのように呼ばれたとされる。クシャーナ朝のカニシカ王によって2世紀半ばに建造された。その後、密教の中心地として7世紀まで存続した。ガンダーラは仏像の起源とされる地域で、ギリシア美術とヒンドゥー美術を融合させたガンダーラ美術は、他の地域の仏像造形に強い影響を及ぼした。

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□ラホールフォート (Lahore Fort)

 パキスタンのパンジャーブ地方の都市ラホールにある城塞。ラホールの歴史は古く『ラーマヤーナ』の時代まで遡ることができる。考古学的には1021年のマフムードによるガズナ朝の征服以前から街があったとされる。1241年にモンゴル帝国の征服によって破壊されたが、1267年に奴隷王朝第9代スルタン、バルバンによって再建された。1398年、ティムール軍によって再度破壊されたが、1421年にはサイイド朝第二代君主ムバラク・シャーによって再建された。1566年、ムガル帝国第3代皇帝アクバルによって再建された。以降、ムガル帝国の歴代の皇帝たちによって増築と拡張が続けられた。

□クトゥブ・ミナール (Qutub Minar)

 インドのデリーに在る世界でもっとも高いミナレット。1200年頃、奴隷王朝の建国者であるクトゥブッディーン・アイバクによって、クワットゥル・イスラム・モスクに付属して建てられた。ヒンドゥー様式とイスラム様式が混在した様式となっている。敷地内には415年に建てられて以来、錆びない鉄柱として知られる“デリーの鉄柱”が在ることでも知られる。

□フマーユーントンブ (Humanyun’s Tomb)

 デリーに在るムガル帝国の第二代皇帝フマーユーンの霊廟。インドにおけるイスラム建築の精華のひとつと評され、その建築スタイルはタージ・マハルにも影響を与えたとされる。皇帝フマーユーンは1540年にパシュトゥン人の将軍で後にシェール・シャーと名乗るシェール・ハンに大敗し、これ以降インド北部の君主の座を奪われペルシアに亡命し、流浪の生活を送った。やがてペルシアのサファビー朝の支援を受けて、シェール・シャーの死後1555年にアーグラとデリーを奪回して北インドの再征服に成功したが、翌1556年に事故死した。フマーユーンの死後1565年、ペルシア出身の王妃であるハージー・ベーグムによってヤムナー川の畔に壮麗な霊廟が建築された。ペルシア出身の建築家サイイド・ムハンマド・イブン・ミラーク・ギヤースッディーンとその父ミラーク・ギヤースッディーンの2人の建築家によって9年の歳月を経て完成された。その建築は、ムガル帝国の廟建築の原型を示すといわれている。

□ラール・キラー (Lal Qila)

 インドのデリーにあるムガル帝国の城塞。「赤い城(Red Fort)」とも呼ばれる。ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンがアーグラから遷都し、自らの名を冠した新都シャージャハーナーバート(Shahjahanabat)における居城として築いた。1639年から9年かけて1648年に完成した。名称の由来ともなった城壁の赤い色は、建材として用いられた赤砂岩のものである。

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□アーグラフォート (Agra Fort)

 アーグラ城塞。赤砂岩で築かれた城壁の色から通称「赤い城」(Lal Qila)とも呼ばれる(しかし、デリーの城も同じく「赤い城」と呼ばれるため、通常はデリーの方を指す)。デリーからアーグラへの遷都に伴い、ムガル帝国第3代皇帝アクバルの命によって1565年に着工して、1573年に完成した。その後、ジャハーンギール、シャー・ジャハーンまで3代の皇帝の居城となった。アウラングゼーブが兄弟間の後継者争いに勝つと、父であるシャー・ジャハーンをタージ・マハルの見える城塞内の「囚われの塔」(ムサンマン・ブルジ)に幽閉してデリーに移った。外側から見ると赤砂岩主体の「赤い城」であるが、城内の宮殿には白大理石も多用されている。ムサンマン・ブルジの内壁や床は幾何学的な装飾が施された白大理石でできている。

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□タージ・マハル (Taj Mahal)

 タージ・マハル廟。インド北部アーグラに在るムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが、1631年に死去した愛妃ムムターズ・マハルのために建設した総大理石の墓廟。インド・イスラム文化の代表的建築である。1632年に着工し、1653年に竣工したとされる。設計にはイスラム世界中から建築家や工芸家が招集され、建築には2万人ともいわれる職人が集められた。建材もインドのみならず、アラビア、中国、チベットなどから取り寄せられたという。

□チットールガル (Chittorgarh)

 インド北部ラジャスターン地方の都市チットールガルに在る城塞。メーワール王国の首都チットールガルに建てられた宮殿、門、ヒンドゥー教やジャイナ教の寺院、2つの記念塔を含む要塞である。1303年にデリー諸王朝ハルジー朝のアラー・ウッディーン・ハルジーが当時の王ラタン・シングの王妃パドミニーの美しさを聞きつけて、それを奪うためにチットールガルを包囲し、攻め落としたという伝説が残る。その後、メーワール王国はハンミーラによって1326年に再興したものの、1535年にクジャラート・スルターン朝のバハードゥル・シャーによって城が占領された。しかし、クジャラート・スルターン軍がムガル帝国軍に敗れたため、復興することができた。1567年には、メーワール王国ウダイ・シング2世がムガル帝国アクバルへの服従を拒んだことから包囲され、落城した。この時、籠城した兵士はすべて討ち死にし、残された女たちは略奪や奴隷とされることを怖れ焼身自殺したという。

□ブリハディーシュヴァラテンプル (Brihadeeshvara Temple)

 ブリハディーシュヴァラ寺院。インド北部タンジャーヴールに在るヒンドゥー寺院。1002年、チョーラ朝ラージャラージャ1世によって建築され、1010年に完成した。当初はラージャラージャ1世の名を冠したラージャラージェーシュヴァラ寺院と呼ばれた。その規模や構成から南方型ヒンドゥー教寺院建築の頂点と評される。

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□ラーニー・キ・ヴァーヴ (Rani ki vav)

 王妃の階段井戸。インド西部グジャラート地方のパータンに残る階段井戸。インドの宗教文化とも結びついた独特の階段井戸は特に西インド地方に幾つも在るが、サラスヴァティー川沿いに築かれたこの7層構造の階段井戸はその中でも代表的なものである。井戸という名称だが、実際にはヒンドゥー教やイスラム教とも結びついた一種の神殿のような建物である。この階段井戸はラージプート諸王朝のひとつチャウルキヤ朝のビーマデーヴァ1世の亡き後、王妃ウダヤマンティが11世紀中に建造した。この地では古代から水と結びついた女神信仰が盛んだった。

□ヴィジャヤナガル (Vijayanagara)

 インド南部のトゥンガバドラー川およびクリシュナ川以南からコモリン岬に至る南インドを支配したヒンドゥー王朝、ヴィジャヤナガル王国の首都。数多くの宮殿やヒンドゥー教寺院が造営されたが、1565年ターリコータの戦いでムスリム5王国の連合軍に敗北し、その略奪を受けて廃墟と化した。その後、第4王朝アーラヴィードゥ朝の君主ティルマラ・デーヴァ・ラーヤがヴィジャヤナガルから南方のペヌコンダへと遷都した。

□ルンビニ (Lumbini)

 ネパールの南部タライ平原に在る小村。仏教の開祖、釈迦の生まれたとされる地。仏教の四大聖地のひとつ。マーヤー・デーヴィー寺院を中心に、アショカ王が巡礼したときに建立された石柱、釈迦が産湯をつかったという池などが残る。ルンビニの地名は多くの文献に記載され、実在していた事は確認されたが、具体的な位置は長く忘れ去られており、仏舎利塔の黄金の舎利容器から人骨が発見され、アショカ王が「ブッタがこの地で生誕したのでルンビニ村の租税を軽減する」と刻ませた石柱が発見されたことにより、釈迦が史実の人物であると証明された。

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□アーナンダテンプル (Ananda Temple)

 アーナンダ寺院。ビルマのマンダレー地方パガンに在る仏教寺院。イラワジ川中流域の東岸の平野部に大小さまざまな仏教遺跡が林立している。アーナンダ寺院はパガン遺跡を代表する最大の寺院遺跡である。上部座仏教を導入し、ビルマ族最初の統一王朝を築いたパガン朝第3代王チャンスィッターによって、11世紀末から12世紀初頭にかけて建設された。寺院内部には、4つの仏像が安置され、釈迦の生涯を描いた80点の浮彫が施されている。名前は釈迦十大弟子のひとり阿難陀にちなんで付けられた。

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□シュエダゴン・パゴダ (Shwedagon Pagoda)

 ビルマのヤンゴン中心部に在る仏教寺院。伝説では約2500年前に建てられたとされているが、実際には6〜10世紀の間に建立されたと推測される。インド人商人が釈迦から聖髪をもらい受け、この地に納めたのが起源とされる。地震によって幾度も破壊されており、現在の仏塔の原型は15世紀頃に成立したとされる。

□ワット・マハータート (Wat Mahathat)

 タイのアユタヤにある仏教寺院の廃墟。木の根に覆われた仏頭で知られる。『アユタヤ王朝年代記』に拠れば1374年にパグワ王ボーロマラーチャ1世による建立と伝えられる。完成したのはラーメースワン王の治世となる。寺院の建築は、中央にロッブリー様式の大きな仏塔があり、その回りを小さな仏塔が囲み、その回りを回廊が囲んでおり、礼拝堂と仏堂が東西にあったと推測されている。

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□アンコール・トム (Angkor Thom)

 カンボジア北西部トンレサップ湖北岸に在るクメール王朝の城塞都市遺跡。12世紀後半、ジャヤーヴァルマン7世によって建設されたとされる。堀と城壁に囲まれており、外部とは南大門、北大門、西大門、死者の門、勝利の門の5つの城門でつながっている。各城門は塔になっていて、東西南北の四面に観世音菩薩の彫刻が施されている。また門から堀を結ぶ橋の欄干には乳海攪拌を模したナーガになっている。またこのナーガを引っ張るアスラと神々の像がある。

□アンコール・ワット (Angkor Wat)

 カンボジア北西部トンレサップ湖北岸に在るクメール王朝のヒンドゥー教寺院遺跡。12世紀前半、アンコール王朝のスーリヤヴァルマン2世によって、ヒンドゥー教寺院として30年を超える歳月を費やして建立された。1431年頃にアンコールが放棄されプノンペンに遷都されると一時忘れ去られるが、再発見され、アンチェン1世が1546年から1564年の間に未完成だった第一回廊北面付近に彫刻を施した。孫のソター王は仏教寺院への改修し、本堂に安置されていたヴィシュヌ神を4体の仏像に置き換えた。

□プレアヴィヒア (Preah Vihear Temple)

 カンボジア北西部ダンレク山地内に在るクメール王朝のヒンドゥー寺院遺跡。名称はクメール語で「神聖な寺院」の意味で、サンスクリット語からきている。ダンレク山地の断崖の頂上に在る。9世紀にクメール王朝によって創建されたときはヒンドゥー教のシヴァ神を祀る寺院だった。その後、数世紀にわたって増改築が重ねられ、今日の姿は11世紀前半のスーリヤヴァルマン1世と12世紀前半のスーリヤヴァルマン2世の治世に増築されたものである。ヒンドゥー教がこの地域で衰退すると仏教寺院となった。

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□ボロブドゥール (Borobudur)

 ジャワ島中部のケドゥ盆地に在る大規模な仏教遺跡。世界最大級の石造仏教寺院である。シャイレーンドラ朝時代、大乗仏教を奉じていたダルマトゥンガ王によって、780年頃から建築が始まり、792年頃に完成した。後にサマラトゥンガ王の代に増築された。平原の中央にある丘に盛り土をした上、安山岩や粘板岩を積み上げて造られている。レリーフは、その構図の巧みさ、洗練された浮彫彫刻の技法、細部表現の優雅さで知られ、仏像とともにインドのグプタ美術の影響が強く認められる。

 

■東方蛮国(中央アジア地域)の名所旧跡

□グーリ・アミール (Guri Amir)

 中央アジアのサマルカンドに在るティムール朝建国者のティムールおよびその家族の霊廟。テュルク・ペルシア建築史上の重要な建築物である。ペルシア語で「王の墓」を意味する。青いドーム状のこの建築物の中にはティムールとその息子シャー・ルフやミーラーン・シャー、孫のウルグ・ベクとムハンマド・スルターンの墓がある。またティムールの師であったサイイド・バラカの墓も含まれる。グーリ・アミール廟は外部から見るとひとつのドーム状の建築物に見える。建物は青色のドームが建物の上部に付属したような構造となっている。壁の外装は青、淡青と碑文を記した幾何学模様の白のテラコッタ製のタイルからできている。

→関連する宝物 : ティムールルビー

□バーミヤン (Bamiyan Valley)

 中央アジアのカブール北西230kmの山岳地帯に位置するバーミヤン渓谷に在る都市。都市の近郊には1世紀からバクトリアによって石窟仏教寺院が開削され始めた。石窟の数は千以上にものぼり、グレコ・バクトリア様式の流れを汲む仏教美術の優れた遺産である。5世紀から6世紀ごろに二体の大仏を始めとする多くの巨大な仏像が彫られ、石窟内にはグプタ朝のインド美術やササーン朝のペルシア美術の影響を受けた壁画が描かれた。バーミヤンの仏教文化は栄華を極め、630年に唐の仏僧玄奘がこの地を訪れたときは大仏が美しく装飾され、僧院には数千人の僧が居住していたという。

□ザナドゥ (Xanadu)

 上都。モンゴル帝国(元朝)のクビライがモンゴル平原南部に設けた都。元朝の夏の首都として使われた。1275年に上都を訪問したマルコ・ポーロが『東方見聞録』に記録したことによりヨーロッパにその存在が知られるようになり、「ザナドゥ」の名で呼ばれた。1256年に劉秉忠(子聡、後に大都の設計も手掛ける)に命じて金蓮川付近の閃電河の河畔に、王府となる開平府を建設させた。これが上都の始まりである。1279年に南宋が滅ぶと首都は南の大都(現在の北京)に遷され、開平府は名を上都と改められて陪都となり、夏営地すなわち夏の間に皇帝が避暑と政務を行う行宮とされた。上都はほぼ正方形に近い形状をしており、外側から、外城・内城・宮城の三つの方形の都城が存在した。また上都の東西には、東涼亭と西涼亭という狩猟用の行宮も存在した。1369年に明に占領され、開平府と改名された。その後、永楽帝は何度かモンゴル親征を行ったが、1403年に開平衛を独石口へと撤退させ、以後上都は放棄され廃墟となった。

 

■中央山岳より東方(東アジア地域)の名所旧跡

□ポタラパレス (pho brang Potala)

 ポタラ宮殿。チベットの都市ラサのマルポリの丘の上に建てられた宮殿。7世紀半ばにチベットを統一した吐蕃第33代のソンツェン・ガンポがマルポリの丘に築いた宮殿の遺跡をダライ・ラマ5世が増補、拡充するかたちで建設された。名前の由来は観世音菩薩の住むとされる補陀落のサンスクリット語の「ポータラカ」(Potalaka)による。

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□雲崗石窟 (Yungang−Shiku)

 雲崗の石窟寺院。元は霊巌寺と呼ばれた。北魏の沙門統である曇曜が文成帝に上奏して、460年(和平元年)頃に桑乾河の支流の武周川の断崖に開いた「曇曜五窟」に始まる。三武一宗の廃仏の第一回、太武帝の廃仏の後を受けた仏教復興事業のシンボルとして造られたのが巨大な石仏であった。以後、大規模な石窟の造営が続けられ、中国仏教彫刻至上で雲崗期(460〜493年)と呼ばれる一時代を築いた。

□莫高窟 (Mogao−Ku)

 敦煌の近郊に在る仏教遺跡。ここで発見された敦煌写本でも有名である。敦煌の東南に位置する鳴沙山の東の断崖に南北に約600の洞窟があり、そこに2400以上の仏像が安置されている。また壁には一面に壁画が描かれている。作られ始めたのは五胡十六国時代に敦煌が前秦の支配下にあった時期の355年あるいは366年とされる。仏教僧楽ソンが彫り始めたのが最初であり、その次に法良、その後の元代に至るまで1000年に渡って彫り続けられた。

→関連する宝物 : 敦煌写本

□万里長城 (Wanli−Changcheng)

 中国の城壁の遺跡。匈奴のような北方の異民族が侵攻してくるのを迎撃するために、秦代の紀元前214年に始皇帝によって建設された。長城は始皇帝によって建設されたと一般には考えられているが、実際にはその後いくつかの王朝によって修築と移転が繰り返され、現存の「万里の長城」の大部分は明代に作られたものである。この現存する明代の長城線は秦代に比べて遥かに南へ後退している。

□紫禁城 (Zijin−Cheng)

 中国の北京に在る宮殿。元が造ったものを明の永楽帝が1406年から改築し、1421年に南京から北京に遷都して以来、清朝滅亡まで宮殿として使われた。1644年の李自成の乱で明代の紫禁城は焼失したが、李自成の立てた順朝を滅ぼし北京に入城した清朝により再建され、清朝の皇宮として皇帝とその一族が居住するとともに政治の舞台となった。

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□始皇帝陵 (Shihungdi−Ling)

 西安北東の驪山北側にある秦の始皇帝の陵墓。陵を取り巻くように約8000体にも及ぶ兵馬俑を収めた俑抗が配置されている。地下には棺を収めた宮殿が造られ、天井には星座が描かれ、宮殿の周囲には水銀を流して黄河や長江、海が再現されていたという。中国を統一した始皇帝は、即位と同時に延べ70万人を動員し、37年を費やして自らの陵墓を造営した。当初、陵の上には宮殿や楼閣が築かれていたが、秦を滅ぼした楚の項羽によって破壊されたとされる。

→関連する宝物 : 金婁玉衣 / 兵馬俑

□乾陵 (Qian−Ling)

 中国の梁山の山上に在る唐の高宗と則天武后の陵墓。唐の盛運絶頂の時、則天武后が造営したもので、規模が壮大である。自然の山を利用して造られた陵だが、正面に門闕があり、参道の両側に並ぶ石造彫刻の飛竜馬、石馬、石人、石牌、特に60の蕃酋石像が有名である。

→関連する宝物 : 唐三彩 / 蘭亭序

□殷墟 (Yin−Xu)

 古代中国殷王朝後期の首都の遺構。河南省安陽市の市街地西北郊に位置する。殷王朝後期(紀元前14世紀から紀元前11世紀頃)、竹書紀年によれば第19代王盤庚による遷都から第30代帝辛(紂王)の時代の滅亡に至るまでの期間、殷の首都が営まれていたと伝えられる。盗掘された甲骨片の発見が契機となり発掘が開始され、この地が殷の首都の遺跡であることが確認された。宮殿や工房跡、歴代王の墳墓などが発掘された。特に第22王武丁の夫人であった婦好の墳墓はほぼ未盗掘の状態で発見され、豊かな副葬品が出土している。

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□黄山 (Huang−Shan)

 中国の華東東北部に位置する景勝地。伝説の仙境を思わせる独特の景観から、「黄山を見ずして、山を見たというなかれ」と言われる。黄山の名は伝説上の王、黄帝がこの山で不老不死の霊薬を飲み、仙人になったという言い伝えに基づく。峰と雲が織り成す風景は、まさに仙人が住む世界「仙境」と言われ、多くの文人が憧れ、水墨画、漢詩などの題材となった。

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□大秦寺 (Daqin−Si)

 中国における景教(中国に伝来したネストリウス派キリスト教)の寺院(教会)の一般名称だが、唐代の長安に存在した大秦寺が特に有名である。中国への景教の伝来は、635年にネストリウス派宣教師団が長安に到着したことから始まる。638年に景教は朝廷より公認され、長安に寺院が建立されたが、当時は波斯寺(波斯はペルシアの意)と呼ばれていた。745年に大秦国(東ローマ帝国)から、高僧佶和(ゲワルギスの音写)が訪れると、教団の名称が「波斯教」から「大秦景教」に変更され、「大秦寺」に改称された。しかし、845年に武宗が道教を保護する一方で、仏教などの外来宗教の弾圧(会昌の廃仏)を行い、中国の景教は衰滅した。

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□祐国寺鉄塔 (Youguo−Si−Teita)

 中国の開封の北東部にある仏教寺院の塔。単に鉄塔とも呼ばれる。寺は五代後晋の創建で、北宋の乾徳年間(963〜967年)に当地に移ったという。塔は北宋の1049年の建立で、北宋初期に建てた開宝寺福聖院の木塔が焼失した5年後、仁宗の下勅により同塔を模して建設された。八角13層、楼閣式で内部にらせん状の階段が上層まで通じている。外壁に飛天、獅子、草花など種々の文様を浮彫された黒鉄色の琉璃磚を嵌めており、その外観から鉄塔の名で呼ばれる。

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□雷峰塔 (Leifeng−Ta)

 杭州の西湖南岸に在る仏塔。975年に建てられ、6年をかけて完成した。伝説では、呉越王の銭弘俶により、その寵妃である黄氏が子を得たことを祝うために建てられたとされ、古くは「黄妃塔」(または黄皮塔)とも呼ばれた。「雷峰」の名は、西湖南岸の夕照山の最高峰である雷峰頂に由来する。八角形で五層からなるレンガと木で造られた楼閣式の塔であり、庇や廊下、欄干は木造だった。塔の内側の八面には『華厳経』の石刻があり、塔の下には金剛羅漢十六尊があったが、後に浄慈寺に移された。

□白鹿洞書院 (Bailudong Shuyuan)

 中国の江西省廬山の麓にある書院(私学校)。中国四大書院のひとつ。南宋時代には朱熹と陸九淵、明代の王陽明ら代表的な儒家学者がここで講学した。五代十国の時代、この地に学校が建てられ、これを廬山国学と言った。南宋時代の1179年、朱熹は白鹿洞書院を再建した。元代に紅巾の乱によって全焼したが、明代の1436年に再建された。

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□泉州 (Quanzhou)

 中国大陸南東部に位置する福建省の都市。唐代にはベトナムやインド、アラビア半島にまで及ぶ海上交易ルートが確立し、明州や広州と並ぶ貿易港となった。1279年に崖山の戦いで南宋が滅亡すると、元朝に協力したアラブ人の蒲寿庚が重用され港湾都市として発展した。「陶磁の道(海のシルクロード)」の拠点として漢人のほかにもアラブ人やペルシア人などが居住する国際都市として発展し、『アラビアンナイト』にも「船乗りシンドバッド」の住む舞台として登場する事からも中世イスラム世界にも知られた都市であったことが推察され、またマルコ・ポーロの『東方見聞録』には「ザイトン(Zaiton)」の名称で紹介されている。14世紀にはイブン・バットゥータも訪れ、『三大陸周遊記』に約100艘の大型ジャンクと数え切れないほどの小型船が停泊する「世界最大の港」と記している。

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□武寧王陵 (Wuningwang−Ling)

 朝鮮半島中西部の公州に在る古墳。百済第25代王の武寧王とその王妃の陵とされる。公州はかつて百済の首都であり、宋山里古墳群から墓誌が出土し、王墓として特定された。古墳は王と王妃を合葬したレンガ造りの墳墓で、金環の耳飾り、金箔を施した枕、足乗せ、冠飾などの金細工製品、中国南朝から舶載した銅鏡、陶磁器など約3000点近い華麗な遺物が出土した。

□金閣寺 (Kinkakuji)

 鹿苑寺。京都北部に在る臨済宗相国寺派の寺院。建物の内外に金箔を貼った三層の楼閣建築である舎利殿は金閣、舎利殿を含めた寺院全体は金閣寺として知られる。相国寺の三界塔頭寺院である。寺名は開基である室町幕府3代将軍足利義満の法号、鹿苑院殿にちなむ。山号は北山。

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□正倉院 (Shousouin)

 奈良東大寺の境内に在る校倉造の大規模な高床式倉庫。聖武天皇、光明皇后ゆかりの品をはじめとする天平時代を中心とした多数の美術工芸品を収蔵している。756年、光明皇后が夫である聖武太上天皇の七七忌に際して、天皇遺愛の品々や薬物を東大寺の廬舎那仏に奉献したのが始まりである。献納品目録である東大寺献物帳も正倉院に保管されている。

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□中尊寺 (Chusonji)

 陸奥の平泉に在る天台宗の寺院。山号は関山。開基は奥州藤原氏初代の藤原清衡。後三年の役で奥州奥六郡を支配下に置き、平泉を本拠地とした清衡は、自身の極楽往生を祈願し、釈迦如来と多宝如来を安置する多宝寺を1105年に建立した。その後、廟堂として建立した金色堂は堂の内外を総金箔張りで覆われ、須弥壇の中に、清衡、基衡、秀衡の三代の遺体が安置されている。

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■新大陸(南北アメリカ地域)の名所旧跡

□コロッサルヘッド (Colossal Head)

 巨石人頭像。メキシコ湾岸のオルメカ文化の遺跡に見られるネグロイド的な風貌の人物の頭部を模した巨大な石像。材質は玄武岩や安山岩で、概ね2〜3m程度。十数体が発見されている。オルメカの歴代君主あるいは宗教儀式でもあった球戯の競技者の肖像ではないかと推測されている。

□チチェン・イッツァ (Chichen Itza)

 ユカタン半島の付け根の密林に在る後古典期マヤの遺跡。北部はトルテカ期、南部にはプウク期の建物が残っている。マヤの最高神ククルカンを祀るピラミッド、通称「カスティーヨ(Castillo)」がある。大きな9段の階層から成り、四面に各91台の急な階段が配され、最上段には正四方の神殿がある。北面の階段の最下段にククルカンの頭部の彫刻があり、春分の日・秋分の日に太陽が沈む時、ピラミッドは真西から照らされ階段の西側にククルカン(蛇)の胴体が現れ、ククルカンの降臨と呼ばれている。

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□エル・カラコル (El Caracol)

 カラコル天文台。ユカタン半島の後古典期マヤの遺跡チチェン・イッツァ内にある遺構。906年に建設された、中央部に天体観測に用いられたと推測されるドーム状屋根を備えた石造りの建築物。ドーム部には縦に細長い窓がある。この窓は天体観測における重要な照準線となっており、西側は春分の日の日没、月が最北端に沈むときの方向2つを確認することができる。

□テンプロ・デ・ロス・ゲレーロ (Templo de los Guerreros)

 戦士の神殿。ユカタン半島の後古典期マヤの遺跡チチェン・イッツァ内にある遺構。祭壇の周囲に顔の描かれた石柱が並んでいることから、この名で呼ばれている。石柱は全部で746本ある。祭壇の上には、生贄の心臓を取り出す際に用いられたとされるチャクモール像(Chacmool)が置かれている。

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□トラチウアルテペトル (Tlachihualtepetl)

 メキシコ東部のチョルーラにある階段ピラミッド。先コロンブス期の新大陸において、使われた建材の量としては最大の建築物である。名前はナワトル語で“人工の山”を意味する。ピラミッドの高さは55mで底辺は450mにも及ぶ。ピラミッド内にある神殿にはアステカ文明の神であるケツァルコアトルの壁画が遺されている。16世紀にスペインの征服者エルナン・コルテスが訪れた時には、既に放棄されており、その上に雨の神チコナウキアウィトルの神殿が建っていたとされる。

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□トゥーラ・シココティトラン (Tula Xicocotitlan)

 メキシコ北東部にある後古典期の遺跡。トゥーラとは「都市」を意味する。トルテカ帝国の首都とする伝承がある。神殿上に戦士像が林立しており、神殿の周囲に置かれた列柱などの構造が、チチェン・イッツアの“戦士の神殿”に似ていることから、両者に交流があり、トゥーラの影響がチチェン・イッツアに及んだとする説がある。

□パレンケ (Palenque)

 メキシコ南東部にあるマヤ文明の都市遺跡。7世紀に最盛期を迎えた宮殿を中心とする都市の遺構。王族の住居であった宮殿を中心に、碑文の神殿、十字の神殿など数多くの神殿がある。特に壁一面にマヤ文字が刻まれていることから「碑文の神殿」と呼ばれる神殿の基部から、7世紀に在位していたパカル王の墓室が発見され、副葬品の翡翠の仮面などが発見されている。

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□ウシュマル (Uxmal)

 メキシコ東部のユカタン半島にある古典期後期から後古典期のマヤ文明の遺跡。ウシュマルという名は、コロンブス到達前の古いマヤ語の名称で“三度にわたって建てられた街”という意味である。建物は漆喰のつなぎを使用しないで精巧に切り出された切り石を使用して建てられている。

□ピラミーデ・デル・アディビーノ (Piramide del Adivino)

 魔法使いのピラミッド。ウシュマル内にある遺構。急傾斜で有名な118段の階段を上ると、頂上には神殿がある。このピラミッドは良好な状態の建造物であり、小さな神殿が順次大きな神殿へと拡大された。魔法使いの老婆が暖めた卵から生まれてきた小人が、超自然的な力で一夜のうちに造ったというマヤの伝説から、“小人のピラミッド”とも言われている。

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□テオティワカン (Teotihuacan)

 メキシコ中東部に在るテオティワカン文明の中心となった巨大都市遺跡。当時のアメリカ大陸では最大規模を誇り、メソアメリカの中心的都市として機能していた。テオティワカン人の宇宙観、宗教観を表す極めて計画的に設計された都市で太陽のピラミッド、月のピラミッドそして南北5kmにわたる道「死者の大通り」が基点となり各施設が配置されている。この都市で祀られた神々は、農業・文化と関係深いケツァルコアトルや水神トラロック、チャルチウィトリクエ、植物の再生と関係あるシペ・トテックなどである。テオティワカンとは、ナワトル語で「神々の都市」という意味で、これは12世紀頃にこの地にやってきて、すでに廃墟となっていた都市を発見した、アステカ人が命名した。アステカ人はテオティワカンを後々まで崇拝の対象とした。

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□サンピラミッド (Pyramid of The Sun)

 太陽のピラミッド。テオティワカン内にある遺構。名前はテオティワカンが放棄されて数百年後に訪れたアステカ文明の人々が名付けたもので、元の名称は分かっていない。古代テオティワカンの人々は、石材を積んでピラミッドを建築し、その上から石膏で仕上げ、鮮やかな色彩の壁画を施していた。しかし、石膏や壁画の大半は歳月によって失われ、わずかに数点の絵が残っている。ピラミッド頂上にあった祭壇は、失われており、崇拝されていた神については何もわかっていない。

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□ムーンピラミッド (Pyramid of The Moon)

 月のピラミッド。テオティワカン内にある遺構。ナワトル語で“母”もしくは“石”という意味であるテナン(Tenan)と呼ばれる。テオティワカンの北端にあり、その真北に見えるセロ・ゴード山を模倣するように建築された。正面の斜面には、死者の大通りから繋がるタルー・タブレロ構造で4段の階段状の祭壇があり、ピラミッドの頂上の舞台にまで繋がっている。かつてこの壇上には、ピラミッドの麓で彫刻が見つかった月と水と豊穣の女神を讃えるための、式典を行う壇があったと考えられている。

□テノチティトラン (Tenochititlan)

 アステカ帝国の首都。最盛期には人口約30万人だったとされる。テスココ湖の島上に建設された。現在のメキシコシティに相当する。テノチティトランはナワトル語で「石のように硬いサボテン」を意味する。16世紀初頭、スペイン人の征服者エルナン・コルテスによってアステカが征服された後、1520年代に破壊された。コルテスは植民地「ヌエバ・エスパニョーラ」の首都、現在のメキシコシティをテノチティトランの廃墟の上に建て、その別名メシコを新しい都市の名とした。在りし頃のテノチティトランは、湖の湖岸といくつかの橋で結ばれていた。都市には多くの水路が築かれ、橋が渡されて、都市のすべての場所は、徒歩でもカヌーでも訪れることができていた。

→関連する宝物 : クィーン・イサベル

□ティワナコ (Tiahuanaco)

 ボリビア西部にあるプレ・インカ期の遺跡。チチカカ湖沿岸から約17kmほどに位置する。徹底的に破壊され、また風化も激しいため、昔日の面影はほとんど残されていない。この文化の起源は紀元前までさかのぼるとされるがはっきりとはわかっていない。紀元750〜1100年にかけて最盛期を迎えたとされる。アカパナと呼ばれるピラミッド状の遺跡や太陽の門、顔が壁から突き出して並んでいる装飾を施した半地下式方形広場などの構造物が残されている。

→関連する宝物 : ペイガンゴールデンナイフ / ムーンゴッドゴールデンマスク

□ポトシ (Potosi)

 ボリビア南西端ポトシに在る銀山。1545年、先住民インディオにより銀鉱が発見され、翌年ポトシが建設されてからスペイン人による本格的な採掘が開始された。1548年には銀鉱とリマ港を結ぶ通商路上にラパスが建設され、商業の中心として急速に発達した。特に1578年に水銀アマルガム法が採用されると低品位鉱が利用可能となり、1578年以降ミタ制度(インディオ成人男子を7年毎に1年間鉱山労働させる制度)によって労働力が確保されたことから銀の算出量が急増し、1640年頃まで高水準を保った。ヨーロッパに流入した莫大な銀は物価の高騰(価格革命)をもたらした。

→関連する宝物 : シルバーインゴット

□マチュ・ピチュ (Machu Picchu)

 アンデス山脈のウルバンバ谷に沿った山の尾根にあるインカ帝国の遺跡。スペイン人による征服によりインカ帝国は滅亡したが、アンデス文明は文字を持たないため、マチュ・ピチュ遺跡が何のために造られたのか、首都クスコとの関係など不明のままである。遺跡には大きな宮殿や寺院、石の建物が約200戸、段々畑が40段あり、インカの王族や貴族の避暑地としての冬の離宮として利用されたと推測されている。

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□ナスカ・ラインス (Nazca Lines)

 ナスカの地上絵。ナスカ川とインヘニオ川に囲まれた平坦な砂漠の地表に、砂利の色分けによって描かれた幾何学図形や動植物の絵であり、古代ナスカ文明の遺跡である。図形群があるエリアは縦横30kmもある非常に広大なもので、全体に無数の図形が描かれている。地上絵の線について、夏至と冬至に太陽が日没する方向に一致するものがあり、暦学に関連する遺構であると推測されているが、何のために造られたのか解明されてはいない。

□イグアスフォール (Iguazu Falls)

 南アメリカ大陸にある世界最大の滝。パラナ川との合流点より上流のイグアス川にあり、季節で変化する水量により150から300の瀑布が出現する。最大の瀑布である悪魔の喉笛は高さ82m、幅150mのU字型で長さ700mに亘る。玄武岩からなるパラナ高原の端にあり、100年で30cm削られ上流へ後退している。

□グランドキャニオン (Grand Canyon)

 北アメリカ大陸アリゾナ州北部にある峡谷。コロラド高原がコロラド川の浸食作用によって削り出された地形であり、先カンブリア時代からペルム紀までの地層を目の当たりにできる。1540年9月に征服者フランシスコ・バスケス・デ・コロナドの名を受けて金を探していたガルシア・ロペス・デ・カルデナスの一隊によって発見された。

□プエブロ・ボニート (Pueblo Bonito)

 北アメリカ大陸南西部のコロラド高原サンファン盆地の中にあるチャコ・キャニオンの遺跡群のひとつ。チャコ・キャニオンで最大級の構造物で、石を積み上げて最大4階にもわたる石造りの建物で650の部屋をもつ壮大な建造物が残されている。地域の中心的な宗教施設だったと推測されている。宗教的な儀式や交易などで定期的に集まり、宿泊していたとされる。当時、ヨーロッパの伝説にある黄金郷“シボラの七都市”のひとつと信じられていた。

→関連する宝物 : アンモライト / カルメット

□モニュメントバレー (Monument Valley)

 北アメリカ西南部のユタ州南部からアリゾナ州北部にかけて広がる地域一帯の名称。メサといわれるテーブル形の台地や、さらに浸食が進んだ岩山ビュートが点在し、あたかも記念碑(モニュメント)が並んでいるような景観を示していることからこの名がついた。

□ナイアガラフォール (Niagara Falls)

 北アメリカ大陸のエリー湖からオンタリオ湖に流れるナイアガラ川にある滝。景観の美しさで知られる。最終氷期の後退期に形成され、五大湖の水流がナイアガラ崖線を経て大西洋に流れ込む過程にある。滝の高さはあまりないが幅が広く、単独で流れる滝の水量では北アメリカで最も規模が大きい。

 

■その他の地域の名所旧跡

□モアイ (Moai)

 イースター島にある人面を模した石像彫刻。島の海に面した高台に、多くの場合海に背を向けてかつての住居跡を取り囲むように多数建てられた。大きさは3.5m程度のものが多いが、最大級のものは20mにも及ぶ。島で産出する凝灰岩で作られており、建造中に放棄されたものも含め約900体が確認されている。建造された目的は諸説あり、未だ解明されていない。

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□ナンマトル (Nan Madol)

 ミクロネシア諸島のポンペイ島に在る人工島群の総称。オセアニア最大の規模を誇る遺跡。人工島が築かれ始めたのは西暦500年頃とされ、その後ポンペイ島全土を支配したシャウテレウル王朝が成立した1000年頃から本格的に建築され、1200年頃から1500年頃までに最盛期を迎え、多数の巨石建築物が建立された。人工島は玄武岩の枠の内側をサンゴや砂で埋めて造ったもので、100以上の人工島が水路で隔てられている。人工島の上には王や司祭の住居、墓所、儀式場、工房など玄武岩を積み上げた様々な巨石建築物が築かれたが、どのような技術を使ったのかは解明されていない。かつて太平洋に存在したムー大陸の一部であり、高度な文明を築いた帝国の首都ヒラビプアの遺跡とする説もあるが、考古学的には否定されている。

□ウルル (Uluru)

 オーストラリア大陸にある世界で二番目に大きい一枚岩。ウルルはオーストラリア先住民のアナングよる呼び名で、イングランドの探検家によって名付けられたエアーズロック(Ayers Rock)も広く知られた名称である。“エアーズロック”という名称は1873年、イングランドの探検家ウィリアム・ゴスが探検行の途中で発見し、当時の南オーストラリア植民地首相、ヘンリー・エアーズにちなんで名づけたものである。

 


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