社長の声

今後も弊社社員とともに、創意工夫・創意無限の考え方で、お客様のために、日夜研究したいと思います。

この業界に入ったいきさつは、父が愛知県から10代半ばで来阪し、船場で布帛の裁断師の修行していました。その後昭和20年代に布帛製造卸、今で言うアパレルの会社を興しました。裁断台や生地置き場は私の遊び場でもありました。しばらくは規模も大きくなり、順調に推移していましたが、私が小学生の時に倒産し、細々と数人で営業していましたが10代半ばで父が亡くなり、廃業となりました。私も何とか衣料に関する仕事をしたいと思い、20歳を過ぎて大阪モード学園の夜間に入学しました。3年間昼間は配達業の正社員として働き、フォークリフトの免許もとり、紙の運搬でトラックに乗っていました。昼間は肉体労働でしんどいし、夜はなれないファッションの勉強で夜は遅いし、大変でした。

卒業後、東洋紡績の製品部にパタンナーとして入社し、アパレルと工場との中間の立場でしたので、色々と学ばせていただきました。よき先輩、よき得意先に恵まれました。特に工場のこわいこわい、現場の人たちにコテンパンに怒られたのが、一番の経験になりました。ただ忘れもしませんが、入社1週間後に母が倒れ2年間入院闘病ののち、亡くなり、両親の意思を継いでこの業界でいることは知らせることはできませんでした。

その後、周りの先輩、得意先からの応援もあり、退職した後、市営住宅の一室から、押入れをパターン台にかわりにして。パターンの仕事を妻と一緒にスタートしました。(実は、その難しさを分かっていただけに、絶対に外注の仕事だけはしたくないと思っていました。)とにかく、最初に勉強になったのは、それまでは大きな会社にいて有名なブランドをしていましたが、それは自分の実力では無く、会社の看板でしかないということでした。実際、パターンメーキングも良い生地を使って、優秀な工場で縫っていただいていたので、何でも綺麗に上がってくる製品を自分の実力と勘違いしていました。かえって、安価な生地と加工賃で縫うことの方が難しい面が多くありました。

最初はパターン会社でスタートした弊社ですが、最近は企画にも力を入れています。「パターン会社に何が出来るか?」ともご指摘がありました。その後頑張って、紆余曲折はありましたが、良き社員、良き得意先様に恵まれ現在に至っています。製品の仕事も周りから薦められたりしましたが、今後も物作りの設計の技術者で歩んで行きたいと思っています。考え方は上記に書いている通りですが、今までの慣習にとらわれず、社員と相談しながら新しい物作りに挑戦していきたいと思います。

繰り返しになりますが、今後も弊社社員とともに、創意工夫・創意無限の考え方で、お客様のために、日夜研究したいと思います。そのことが得意先様に貢献できればと思っています。