Chapter4. >Abyss

 雲を見てそれを「海」であると初めて表現した者は、一体何を求めていたのであろう。
 海と共に暮らす人間が山へ登り、眼下に広がる景色を見て海を懐かしんだのか。それとも山に住まう人間が、まだ見ぬ海に羨望の想いを抱いて雲を大海原に見立てたのか……。
 月に照らされて白く輝くその雲海の上を、まさに凪いだ海の上を進むかのごとく静かに移動する巨大な『船』があった。
 この船が如何にして空を進む事が出来るのかは謎である。随所にプロペラが数基廻っており、全体的に飛空挺の様相を醸し出してはいるが、それだけでこれだけの大きさの船の揚力及び浮力が得られるとは到底考えられない。
 そんな不可思議な船のデッキ上に、一人の女が立っていた。
 月の光に照らされて浮かび上がるその姿は、正に『海賊』とも言うべき服装をしていた。
 女の名はルビィ・ハート。時代錯誤的な服装も、この奇妙な『船』も、彼女が持つ一種の幻想的な雰囲気に逆によく似合っていた。
 その彼女が、前方の一点を見据えながらゆっくりと口を開いた。
「また一つ、街が消えたな。」
 その声に反応し、ちょうどデッキの影になっている部分で人影が動いた。
 左目がぼうっと光を放ち、闇の中で揺らぐ。
「……何故判る?」
 言いながらその男は月の光の元へと姿を現した。月光に照らされたその体躯は、正に戦場を駆けるにふさわしい。その為に鍛えられ、また戦場に出る事により更に磨きがかかっている体つきだ。
 『未来から来た傭兵』ケーブルは、ルビィ・ハートに向ける不信感を隠そうとはせず、むしろより一層剥き出しにしたまま疑問の視線を投げかけた。
 ルビィはそんなケーブルの視線など気にする様子も無く、振り向くと逆に微笑を浮かべた。
「風だよ。『鎧』動けば海が動く。海が動けば風も動く。」
「『鎧』、か。……一体その『波蝕の鎧』というものの正体は何だ?」
「『波蝕の鎧』は器に過ぎない。『深淵アビス』が目覚める為の器。」
「アビス?」
「そう、『深淵』だ。全てを始まりの海へと返す存在。ただそれだけの為に存在しているプログラムのようなもの。それが今波蝕の鎧を通して目覚めようとしている。」
 そこでルビィ・ハートは再び視線を前方に戻した。
 ケーブルも彼女と同じ方向へ目をやる。しかしルビィが一体何を目にしているのかはケーブルには判らない。ただなんと無く嫌な感じはするのだが。
「気に入らねぇな。」
「……何がだ?」
「何もかもだ。急に俺をここへ引き寄せた力といい、その知ったような口振りといい、何もかもが気に入らねぇ。」
 ケーブルはそこで敢えて一拍置くと、続けた。
「──そして何よりもアンタの心が読めない。アンタ一体何者だ?」
「…………。」
 ルビィ・ハートは何も答えなかった。
 ケーブルにとっては不可解な事ばかりだ。気がつけばこの得体の知れない『船』に乗せられ、正体不明のこの女と『波蝕の鎧』を追う事になっていた。
 『波蝕の鎧』の存在自体は既に聞き及んでいたし、ケーブル自身もそれを追っていたのは事実だ。しかしこの船には自分から納得して乗り込んだ訳ではない。その上『波蝕の鎧』について詳しいのであろうルビィ・ハートは肝心の部分を決して明かそうとはしないのである。
 不信感が募るのも無理はない。そしてケーブルは『大人しく待つ』性分ではなかった。
「俺はここで降ろさせてもらうぜ。『波蝕の鎧』は俺自身の力で追う。」
 ルビィの横に並び、欄干に手をかけたケーブルは鋭い目でルビィを見ながらそう告げた。しかし彼女は顔色一つ変える様子もない。
「好きにすればいい。……明日の朝まで待てば降り易いところに船を持って行けるが?」
「──いや、ここでいい。」
 ケーブルはそう言うと腕に力を加え、飛び降りるように欄干を乗り越えた。一瞬の後に身体が光に包まれ、尾を引いてゆっくりと雲海の中へ姿を消す。一切振り返らなかった様子からも、ケーブルのルビィに対する不信感がにじみ出ていた。
 ルビィはその様子を表情も変えずに目で追っていた。彼の戦力は惜しいが、『波蝕の鎧』を追う限りいつかは再び道を交える事になる。ケーブル自身が望む・望まないに限らずそれは必然的な流れであり、彼以外の『鎧』を追う者達にもそれは言えることだ。
 風に吹かれ思案を巡らせるルビィに、もう一人デッキの影から姿を現した男が声をかけた。
「あいつは船を降りたのか。」
「……あぁ。──お前はどうする? 降りたければ止めはしないよ。」
「今の俺はアンタに雇われている身だ。取り敢えずは付き合うぜ。他に行く当ても無いしな。」
 そう言いながら、男は目の前に自分の得物を振りかざした。
 闇の中に蛍火のように刃が青白く浮かび上がる。
 ケーブルの言うように、確かにこの女には何か得体の知れない部分がある。
 しかし例えこの今の状況が『罠』であろうと、このプラズマソードさえあれば、何が起ころうと必ず切り抜けられる。今までもそうしてきたし、これからもそうしていくつもりだ。
 ハヤトにはそんな確信めいた自信があった。故に敢えてこの状況に身を置く事にした。敵の近くにいた方が、全てを見通すのには都合が良い。それもまた、戦場で生き抜く為の一つの手である。
 そんなハヤトの思惑を知ってか知らずか、ルビィ・ハートはその場をつと離れ、デッキ内に消えていった。
 いずれこの『船』に全てが集結する時が来る。
 それぞれの思いを乗せ、船は雲の海を音も無く進みつづけた。
 まるで『お伽噺』の世界のように静かに、そして幻想的に……。


 アメリカ・ライトパターソン空軍基地内。
 目の前で任務に関する説明を長々とする上官の顔を、ガイルは無表情で眺めていた。
 正確には『眺めていた』のではなく『顔をそちらに向けていた』だけで、上官の顔は視界には入っていたものの眼中には無く、当然話も半分以上聞き流していた。
 実はガイルの休暇はまだ残っていた。いわゆる家族サービスで数日のバカンスとしゃれ込んだ後、家で残りの休暇を利用してゆっくり身体を休めるつもりでいたのだが、旅先でよくない噂を耳にしてしまった。
 普段なら一笑に付してしまうようなたあいの無い、そしてくだらない噂だ。
 事実、ガイルの妻も娘も「よくある都市伝説」として笑いのネタにこそすれ本気にする気配は全く無かったし、何より普段のガイルならそんな噂は耳にも留めなかっただろう。
 しかしガイルはその噂に何か引っかかるものを感じた。何となく、ほんの微かな、だけど絶対に取れないシミのような得も言われぬ不安感。根拠は無いが、漠然とした嫌な予感。
 ガイルは過去の経験からも、この自分自身の「直感」はかなりの確率で信頼できるものだという事は判っていた。そこで自宅に帰るなり基地の方へ連絡を入れてみると、ナッシュが既にその事について調査に向かったという返答が返ってきた。
 予感的中。
 ナッシュはガイルの部下である。休暇中とはいえ、部下に何かしらの任務が入る時はガイルの耳にもその情報が入るはずである。連絡が取り難い状況にあったのは事実だが、全く連絡無しというのはあまりにも不自然だ。
 そう考え、実際に様子を確認すべく休暇を返上して基地に向かったところ、待っていたと言わんばかりに上官から呼び出しがかかった。 
 この場合は以心伝心と表現すべきか、それとも予想通りというべきか、呼び出しの内容は当然『任務』についてであった。
 "『波蝕の鎧』について、先に調査に向かっているナッシュのフォローにまわれ。"
 軍の上層部が何を考えてガイルに連絡もせずナッシュだけを先に送り出したのかは、現時点では予想はつくが確信が無い。ただ何か『下心』があるという事はナッシュもそれとなく察しているのだろう。例外ともいえるような権限を与えられているにもかかわらず、まだ国内でうろうろしているようだ。
 しかしやはりその様子は上官の反感を買っているらしい。その様子はガイルが部屋に入るなりかけられた「君は良い部下を持っているな。」という台詞に思いきり込められていた。
 このいけ好かない上官は、『波蝕の鎧』という得体の知れないものについて早くから着眼していたという余りにも嘘臭い話を自分の手柄のようにひとしきり演説した後、その鎧が持つエネルギーの重要性、それをきちんと把握する事で合衆国の立場がどう変化するのかといったおよそ任務の内容からはかけ離れた演説を目の前で延々と続けている。
 ガイルは生来そんなに真面目な方ではない。目の前で任務とは関係なく、その上全く興味も無い話をされると間違いなく睡魔が襲ってくる。今回も例外ではなく、その睡魔と闘う為に考え事をして気を紛らわせるも、上官はいつまでたっても話し終える気配が無いのでどんどん考えがそれていった。
 ガイルの頭の中が最早考え事をしているのか夢現なのかよく判らなくなってきた頃、
「──そういう訳だ、少佐。君に与えられた任務はナッシュ中尉の言わば監視だ。彼は優秀だがたまに周りが見えなくなる傾向があるようだからな。現に今既に彼の所在がつかみにくくなっている。何を勘繰っているのかは知らんが、今回の彼の任務は『波蝕の鎧』についての調査であり、それ以外の何物でもない。」
 と、上官がひときわ大きい声で話をまとめたので、ガイルは考え事から否応なく現実の世界に引き戻された。
 今までの話は、要約すればその最後の一文だけで終わるのである。そこまでたどり着くのに数十分。
 ガイルは前にナッシュが些細な事でこの上官に呼び出されて小1時間位『指導』を受けた後、部屋に戻ってきてさり気なく呟いた言葉を思い出した。
「高いところに上りたがる奴ほど、『ご高説』も立派なモンだ。」
 ──ガイルは今その言葉をしみじみと痛感した。話の内容が立派過ぎて何も無いのだ。
 この上官の場合は正に典型であるといえる。
 しかしそんなくだらない演説などどうでも良い事だ。それよりもガイルは疑問に思っている事を率直に上官にぶつけた。
「特殊任務はツーマンセルが基本。何故彼一人を先に行かせたのです?」
「君は休暇中だった。そしてこんな『特殊』な任務をこなすのに、他に彼と組むに値する人間は残念ながら我が軍には存在しない。足手まといと組ませるくらいなら一人で行った方が彼も動き易かろう。」
「……結局のところ捨て駒か。」
 上官の答に対し、ガイルは思わず口にした。
 上層部の意向はほぼ予想通りだ。『波蝕の鎧』が何なのかは具体的にはよく判っていない。ただとてつもないエネルギーを秘めたものであるという事だけが明らかになっている。もしそれが制御可能であるならば出来る限り入手し、制御不可能もしくは入手不可能であるならば、合衆国以外の手に渡る前に破壊。そしてもしその過程でナッシュに何らかのアクシデントがあったとしても、それはそれで『良し』という訳だ。
 ガイルの無意識の内に放つ冷ややかな視線に上官が軽くため息を吐いた。どうしてこんな『問題児』達が自分の部下なのであろうかといった表情である。
「口を慎み給えよ、ガイル少佐。君は先のナッシュ中尉とは違って多少は『世間の常識』というものを知った人間だ。今の君と彼との地位の差からもそれは明らかだろう。」
 上官はわざとそれぞれの地位を強調して言った。
 ガイルはそんな上官の表情を見つつ心の中で毒づいた。この上官が今の地位に就くことができたのは、突き詰めて考えればナッシュのおかげである。彼が明らかにした軍の麻薬汚染問題で上層部の大幅な改変を行わざるを得なくなり、その際にこの上官はどう上手く立ち回ったのかまんまと今の身分不相応な地位を手に入れたのだ。
 大した能力を持っているわけでもない。当然人の上に立てるような資質なぞあるわけがない。こんな男がまだ上にいるということが、大幅に変わったはずの軍の体質が全く変わっていないということを何よりも明瞭に物語っている。
「彼は自分に厳しい性格ですからね。俺や…まして貴方とは違って。」
 ガイルの台詞に上官の顔がぴくりと歪んだ。この程度の皮肉が通じない程間が抜けているといった訳でもないらしい。
「少佐。君の親愛なる友人が君に何を吹き込んだのかは知らないがね。『軍』という機関に入った以上はそれなりの規律を守ってもらわねば困る。ある程度の自我は捨てねばならん。……それとも君はそんな事もわからなくなるほど部下を甘やかしておるのかな?」
「甘やかす? ……まさか。」
 ガイルはそう言いながら立ち上がった。任務の説明は終わった訳だし、これ以上上司と嫌味合戦を繰り広げる気は毛頭無い。
 書類を手にしてドアに向かう。その背中に向けて、上官が一言脅迫とも取れるような追い討ちをかけた。
「君の立場と言うものをよく自覚しておき給え。そして出来れば私の手を煩わすなんてことはしないでもらいたいものだ。」
 ここで大人げ無さを発揮できればどれだけ人生楽しく生きられるであろうか。却って張り合いの無い人生になってしまう可能性もあるが、少なくともストレスとは無縁になるだろう。
 ガイルは振り返り、捨て台詞のつもりで上官に向けてつぶやくように言った。
「貴方の出世には響かない様極力努力しますからご安心を、サー。」
 ガイルとしてはこれでも目一杯押さえたつもりだ。しかし口を突いて出た台詞は十分に大人げ無い。
 徐々に真っ赤に膨らんで行く上官の顔を確認する事はせずに、ガイルは早々に部屋から退出した。

 諸手続きを終え、建物の外に出たガイルは大きく息を吐いた。我ながら馬鹿馬鹿しい口論(と言うより口喧嘩)に付き合ってしまったものだ。多分ナッシュも任務を受ける時に何らかの嫌味を言われているだろう。最も彼の場合、始めからそういう事は相手にしないので、さぞかし上官も張り合いが無かったものと思われる。
 そういう点においては、ナッシュよりガイルの方がいささか精神年齢が低いのかもしれない。
「さて、……と。」
 ガイルは手元のメモを見やった。いくら上層部に反抗しているナッシュでも、一応定期連絡は入れてきている。最新のメールでは次の行き先が書かれていた。
 ガイルの『嫌な予感』は未だ心の奥底で燻っている。『波蝕の鎧』など、そんなお伽噺を真面目に取る方がどうかしているという考えとは裏腹に、『不安』という名の黒いシミは一向に消えようとしない。
 まずはナッシュを追う。ナッシュと合流してから具体的な事は考える事にしよう。
 ガイルはそう決めて、ナッシュが目指しているという目的地へ向かうべく空港へ向けて足を踏み出した。

 


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