機内は比較的混んでいたが、満席というほどのものでもなかった。あちこちにちらほらと空席が目に付く。
チケットによる座席位置はビジネスクラスの右後方。かろうじて主翼で視界が遮られないところの窓側である(当然窓側という希望はリリスのもの)。さっさと窓際に陣取ったリリスの横にお目付け役でモリガン。そしてリリスの後ろにナッシュと云った形で席に落ち着いた。
モリガンはリリスに乗り込む前にきつく念を押した。離陸すればリリスがはしゃぎ出すのは目に見えている。少しでも大声を出せば、すぐさま統合して2度と表には出さない、といった感じだ。
先程ナッシュに「よく我が侭に付き合うわね」という事を言ったが、自分自身もよく我慢しているものだとモリガンは思う。我が侭を言い出す前に引っ込めておけば、こんな面倒臭い事にはならなかったのに、だ。
これから予想されるリリスのはしゃぎ振りをかなりリアルに想像したモリガンは、窓にべったり貼りついているリリスの頭をぼんやり見ながら深々とため息を吐いた。
一方、その後ろのナッシュは席に着くなり目の前の新聞を取り、記事に目を通し始めた。
当然波蝕の鎧に関する事柄のチェックであるが、新聞は報道協定により大した記事は載せていない。むしろゴシップ誌の類の方が的を得た情報を持っていたりするので(もちろんその情報の半分以上は、三流記者が書く根拠の無いデマなのだが)、案外侮れないものがある。
嘘でもなんでも、全体的な世間の様子、特に噂などを知る為には一通り目を通しておいた方が良い。ナッシュは後でスチュワーデスに機内にある全種類の新聞と雑誌を持ってくるように頼もうと考えながら、新聞のページをめくった。
まもなくシートベルト着用の警告音が鳴り、旅客機がゆっくりと動き出した。
緩やかな旋律の音楽と共に、機内アナウンスが行き先や、サービスの案内を始める。
「快適な空の旅をご提供できるよう、様々なサービスの用意がございます。詳しくは乗務員にお尋ね下さい……」
そのアナウンスの言う通り、『快適な』空の旅になるはずだった。
──そう、その時までは。
数時間後、最初にそれに気がついたのはリリスだった。
「ねぇモリガン。あれ……。」
「何よ。」
離陸してからずっとリリスが指差すものに付き合わされて(リリスは大声は出していないので、約束を破った事になっていないのだ)、最早突っ込む気力も無いモリガンはおざなりに答えた。
しかしリリスの声色は先程までとは違い、真剣味を帯びている。全く興味を示してくれないモリガンに何とかして窓の外の『モノ』を見せようと、一生懸命腕を引っ張った。
「ねぇってば!ちょっとあれ見て!!」
「何なのよもう! これから絶対外には出さないわ……ょ」
リリスがあまりにうるさいので、仕方なしに窓を覗き込んだモリガンの目に飛び込んできたものは、
「船……!!」
前に『夜の散歩』を楽しんでいた時に雲の隙間からちらりと見えた船が、波蝕の鎧と何らかの関係があると思われているあの船が、目の前を悠然と飛んでいる。モリガン自身も全体を見るのは初めてだ。
「ちょっとナッシュ! 船が……!!」
「──何?」
雑誌の、しかも関係無い記事に思わず没頭していたナッシュは、モリガンの鋭い声で我に返り窓の外に目を向けた。
そこに広がるのは、ただ異様な光景。
「あれが『船』だと……!?」
ナッシュがまず最初にした事は、自分の目を疑う事だった。普通の常識を持つ人間なら、十人が十人皆同じ事をしただろう。
しかしナッシュは目の前に起こっている事態への順応は比較的早い。一応予備知識もあったおかげか、すぐさま現状を把握すると、今度は違う異変に気がついた。
「近すぎる…! パイロットはあれに気付いてるのか? それとも……。」
ナッシュ達の乗る旅客機と、『船』の距離がかなり近いのだ。船の実際の大きさが判らないので正確な距離を目視で計るのは難しいが、恐らく100mと離れてはいまい。ニアミスどころの騒ぎではない状態だ。
普通はここまで近づいてしまう前に何らかの回避行動が取られるはずである。しかし今回それが行われていないという事は、今までのデータが示す通りレーダーに反応していないか、もしくは突如近くに出現したか……。
ただ、それだけ近いので、船の外観は細かいところまで見て取る事が出来る。ナッシュは素早く全体に目を走らせた。
かなり大きい船だ。『空飛ぶ船』と聞いた時、ナッシュは始め飛空挺のようなものを想像していたが、飛空挺というよりもむしろ帆船である。ここが空で無ければ、恐らくその雄大さに圧倒されていた事であろう。──尤も、今も違う意味で圧倒されているのだが。
今船は甲板部分が旅客機の窓と丁度同じ高さにあるような形で飛んでいる。その甲板に、一つの人影があることに気がついた。
高度3万フィートの世界である。そして旅客機と平行して飛んでいる船も『それなりの』速度で移動しているはずだ。そんな生身の人間が長時間耐えられないような世界にもかかわらず、甲板に立つ人影は涼しい顔をしてこちらを見ている。その長い金色の髪は、まるでそよ風に当たったかのようにゆっくりとたなびいていた。
一瞬、ナッシュはその甲板の人影と目が合った。
(……女?)
右目に眼帯をした甲板上のその女は、見えている左目でナッシュをはっきりと捕らえていた。その微かに笑みをたたえた碧眼は、海よりも深い色をしている。
ナッシュは鳥肌が立つのを感じた。恐怖という意味ではなく、むしろ武者震いに近い。
女と、目が合ったのはほんの一瞬。
その一瞬の後に船はわずかに後ろへ後退し、ナッシュ達の乗る航空機のやや右後方を飛ぶ形になった。
その頃になって、ようやく他の客も窓の外の異変に気付いたらしい。機内のざわつきが徐々に大きくなってきている。
「……まずいな。」
船に見入っていたナッシュは機内を振り返って呟いた。こういう時に一番恐いのは、周りの人間がパニック状態になる事だ。今のところは飛行機も安定して飛んでいるのでざわめく程度で済んでいるが、ここでタイミング悪くエアポケットなどに入ってしまうと、乗客に一斉に火が点く事は目に見えている。
パイロットは気付いているのかいないのか、回避行動が取られる様子が全く無い。それどころか、シートベルト着用等の機内のアラートすらまだ鳴る気配が感じられない。一方、騒ぎに気付いたスチュワーデスは対処に困っているようだ。
取り敢えずコックピットへ向かおう。立ち入りは許されないかもしれないが、状況は把握できるだろう。
ナッシュはそう考え、立ち上がるべく両腕に力を加えようとしたその時、
──ズ・ズン!!
という突き上げるような衝撃音と共に機体が大きく揺れた。続いてもう一回。
直後にけたたましいアラームが機内に響き渡り、次いで天井から酸素マスクが一斉に落ちてくる。
乗客がアラームに呼応するかように悲鳴を上げた。まるで映画のワンシーン。我が目を疑いたくなるような、余りにも出来過ぎたシチュエーション。
──あの『船』が攻撃をしてきたのか……?
ナッシュは舌打ちしながら立ち上がった。
周りの状況を把握する為にまず前方に目をやると、同じように立ち上がり、通路に出ようとしている男の姿が視界に入った。
見覚えのある髪型だ。いつもはそれ程気にならないあの特徴的なヘアスタイルも、少し間を置いてから見るといささか違和感を感じないでもない。
「ガイル!!」
その声でガイルは振り返り、こちらを認めた。
「……ナッシュ!?」
ガイルは驚きの表情を隠そうともせず、そのままナッシュの座席まで駆け寄って来る。そして2人同時に口を開いた。
「何でお前がここに!?」
スペルの一字一句発音の仕方まで見事にハモった。何もこんなところまで変に気を合わせる必要はないのだが。
一瞬の沈黙の後、ナッシュとガイルはお互い肩をすくめた。状況を考えれば、今は再会の挨拶だの細かい解説だのをしている場合ではないのは自明の理だ。
「後ろは間違いなく穴が開いてるな。気圧が下がってきている。」
ナッシュは後方の、エコノミーに通じる道を厳しい目で示しながら言った。それぞれの座席を仕切るカーテンが奥へと流れている。実際穴が開いている部分はものすごい気圧の変化が起こっているだろう。
ガイルも同じ方向を見て肯いた。
「あぁ…。あの変な船みたいな奴が攻撃を?」
「──違うわね。何か乗ってるわよ。この飛行機。」
突然、座ったままのモリガンが口を挟んだ。ナッシュが驚いて視線をモリガンに移す。
「『何か』? まさか波蝕の鎧の関係者じゃないだろうな。」
「さぁ……?自分で見てきたらどう?」
そのモリガンの表情には、明らかに状況を楽しんでいるといった艶美な微笑みがこぼれていた。先程までリリスに呆れ果てていた彼女とは全く異なる表情だ。恐らくこちらの方が本当なのだろう。
その隣にいるリリスも、似たような顔でナッシュ達を見上げている。
「誰だ? ……知り合いか?」
ガイルは露骨に眉をひそめてナッシュに聞いた。それを見たナッシュは「まぁな」といった感じでかすかに苦笑の表情を浮かべる。
しかし現時点では、前後の事情をガイルに説明している暇はもちろんない。
「詳しい話は後にしよう。ガイル、コックピットの様子を見に行ってくれないか? 恐らく何が起こっているのか全く判っていまい。パイロットまでパニック状態にならないようにサポートしてくれ。」
「──いいだろう。」
わずかに納得の行かない表情を残しながらもガイルは承諾し、それから錯乱状態の人々を少し乱暴に押し退けつつ最前部を目指して進み出した。さすがに場慣れしているだけあって、今優先すべきことはきちんとわきまえている。
そんなガイルの背中を一瞬見送った後、ナッシュはモリガンを振り返った。
「それからモリガン。君はここにいる人間全てを眠らせる事は可能か?」
「……何をさせたいのかしら?」
「俺は出来るか出来ないかを聞いている。ここのパニックを起こしている人々を大人しくさせる事は可能か、とな。」
「『夢』を見せる事くらい訳無いわ。でも」
モリガンは先程の賭けの事が頭にあるのだ。悪戯っぽくナッシュに目で訴えかけている。ここで私を使うのなら、貴方の負けと見なすわよ…?と。
だがナッシュは全く動じなかった。わざと余裕を持ったような声でやり返す。
「──君は今ここで全てを終わらせるようなつまらん真似はすまい?」
そう、それなら始めからあんな賭けには乗らないはずだ。それよりもナッシュに興味すら持たなかったかもしれない。
思った通り、先にモリガンが折れた。座席からゆっくりと立ちあがる。しかし表情には未だ微笑を残したままだ。
「貸しにしておくわよ。」
「好きにしろ。」
言い置いて、ナッシュはリリスの方に目をやる。
「リリスも出来るのか?」
「出来るよ!!」
待ってましたと言わんばかりにリリスは両手を跳ね上げた。当然と言えば当然の話だが、好都合だ。この緊急事態、使える者は誰でも無駄なく使った方が良い。
「──よし、リリスはここと前のファーストクラスを頼む。モリガンは俺と後ろだ。」
言うまでもなく、後ろ半分にあるエコノミークラスを利用する人間の方が他に比べて圧倒的に多い。そして先刻の爆発は後ろで起こっている。予測され得る事態を手早く計算したナッシュは、『本体』のモリガンと分身的存在のリリスの立場を考えた上で指示を出した。
リリスは嬉しそうに文字通り座席から飛び上がり、ガイルの後に続く形で前方へ移動する。一方のナッシュとモリガンは爆発の元があると思われる後方のエコノミークラスを目指した。
ビジネスクラスとエコノミークラスの間には、スチュワーデスが待機する小部屋がある。
その小部屋に続くカーテンに手をかけた時、ナッシュはそのカーテンが先程とは違い、風の流れに乗っていない事に気付いた。カーテンは何事も無かったように普段通り真っ直ぐ垂れ下がっている。
──気圧の変化が収まっている……?
不審に思いながらカーテンをめくって小部屋に足を踏み入れると、そこには空ろな目をしたスチュワーデスと、乗客と思しき人々が数人、茫然自失で座り込んでいた。
「一体何があった!? ……誰か状況を説明できる者はいないか?」
ナッシュが良く通るような声で呼びかけてみるも、座り込んだ人々はナッシュを見上げる事すらしない。
と、一人立って奥のカーテンを睨み付けていた女が振り向いた。
「この先は危険よ。貨物室から変な奴が飛び出してきて……。」
「貨物室? 下のか。」
問い返しながらナッシュはその女を見た。女は真っ直ぐナッシュを見据えている。この状況でも冷静さを失わないその目には、物事を的確に判断する聡明さと、意志の強さを同居させていた。
「そう、床を突き破って。……いきなりよ。」
女はちらりと後ろの方に目を流しながら答える。ナッシュは座り込んでいる他の乗客をよけつつ、彼女の方へ歩み寄った。
「──できれば詳しい状況を説明願いたいンだが。」
「詳しい状況ね……私もよく判って無いの。突然訳の判らない状況に陥るのはこれが初めてじゃ無いのに、いつになっても慣れないわ。……慣れたいとも思わないけど。」
眉間に皺を寄せながら、女は苦々しく呟く。
その台詞と、初見からから感じていた『何処かで見たような』女の顔の印象から、ナッシュの頭の中でパズルの破片のようなものがかちんと合う音がした。
「……君は……ジル・バレンタインか? ラクーン市警の『悪夢からの生還者』の。」
「………!?」
指摘されたジルは驚いて顔を上げた。『あの事件』は、その背景によりそれほど大々的には報道されていない。普通の人々ならば、とっくに頭の中で風化してしまった事件だ。
しかし目の前の男は『事件』を詳しく知っているらしい。ジルは「何故それを?」といった、半ば不信感の入り交じった視線をナッシュに投げかけた。
そんな訝しげな表情を浮かべているジルの警戒心を解く為に、ナッシュは右手を差し出した。
「アメリカ空軍、ナッシュ中尉だ。こんなところでお目にかかろうとはね。」
そのナッシュの自己紹介で、ジルの中でもパズルが合致したらしい。ジルは安堵感を含んだ微笑みを浮かべながら、同じく右手を差し出して握手を交わした。
「……通りで。お名前は伺ってます、中尉。それにその特徴的なヘアスタイルも。」
「そりゃ光栄だ。」
ナッシュはわざとおどけてみせた。おそらく相当な変わり者という肩書き付で知られている事だろう。
しかしすぐに我に返り、もう一度ジルに状況説明を求めた。
「取り敢えず君が見たものをそのまま説明してくれないか。」
「私が見たものといったら……。」
ジルが目にした光景はざっと以下の通りだ。
船が姿を現し、乗客のほとんどがそれに気付いて右側の窓に集まり始めた時に突然、客室中央よりやや前寄りの床が盛り上がり、爆発するように弾けた。
人々が驚いて一斉に床に伏せる。それと同時に床下から人影が現れ、手にした鞭状のものを振り回しながら何かを叫んだ。その時にその鞭が触れたところの側壁に穴が空き、空気が一斉に外へ漏れ出して……
そこまで聞いたナッシュは腕を組み、難しい表情で考え込んだ。
「……手に『鞭のようなもの』か……。」
ジルがさらに言葉を補足する。
「持っていたというより、手から生えていた感じ。あれは果たして人間だったのかしら。」
「心当たりがある。思った通りの奴なら事態は最悪だ。」
そのナッシュの台詞にジルは一瞬黙り込んだ。それから思い出したようにおもむろに言葉を続ける。
「でも彼がいなかったら今ごろもっとひどい事になっていたかもしれない。今多分まだ中で闘ってるんだと思うけど……。」
「彼?」
「そう、『彼』が前と後ろに逃げろって大きな声で指示を出したの。穴はどちらかというと前寄りに空いたから、多分後ろへ逃げた人の方が多いと思うわ。前に来た人は私を含めてこれだけよ。」
そう言いながらジルは相変わらず呆然と座り続けている人々を両手で示した。彼女の言う通りの状況ならば、今現在この先の区画には『敵』と、もう一人それを押さえている人物がいるという事になる。
「一体何者だ……?」
ナッシュの疑問に答える代わりに、ジルは黙って奥のカーテンをめくった。
そこから見えるはずの、エコノミークラスの通路が視界には入ってこない。
そこにはただ白い壁があった。
一見、一枚板のように見えるが、よく見れば極めて細い糸の集合体で出来ている。ナッシュが手を伸ばして振れてみると、かすかな弾力性と『特有の』粘り気を感じた。
「──成る程。なかなかどうして、役者のそろった空の旅じゃないか。」
ナッシュはむしろ口の端に笑みを浮かべて呟く。
恐らくこんな芸当をやってのける人物は一人しか存在しない。実際に会った事こそないが、噂は充分耳にしている。むしろ『知らない』もしくは『聞いた事がない』という者の方が少ないであろう。
船の登場。ガイル、ジル、そして敵と彼の存在。何と充実した空の旅だろうか。
「……ねぇナッシュ。貴方私にものすごくつまらない事させようとしてるでしょう?」
入り口でずっとナッシュとジルのやり取りを聞いていたモリガンが、ふと口を開いた。
ナッシュは『壁』の方に身体を向けたまま、肩越しにモリガンを見やる。
「御名答。俺は今から『彼』のアシストに入る。君は敵の隙を突いて最後尾へ行き、そこの連中に良い夢を見せてやってくれ。」
「私は『お祭り』には参加させてもらえないのかしら。」
「仕事が早く終わればな。」
「彼女は……?」
ジルが怪訝な表情でナッシュとモリガンを見比べて聞いた。
「私の連れだ。問題無い。」
ナッシュはそう簡潔に答えると、
「──それよりも向こうへ行く為には何とかしてこいつをこじ開けなくちゃならん。」
と、周りを見回しながら続けた。恐らくこの壁は他の客室を守る為に、バリア代わりに張られたものだろう。軽く叩いてみるが、その感触から体当たりの一度や二度くらいで崩れるようなやわな作りではなさそうだ。
何か硬いもので叩くか、鋭利なもので傷をつけておいてから体当たりするか……とそれ相応の道具を探すナッシュの目の前に、ジルが一本のコンバットナイフを差し出した。
「……何処にこんな物を?」
「変な習慣がついてしまって……何かしら武器を身近に携帯しておかないと落ち着かないの。他にはこれ。」
ジルは苦笑しながらもう一つ何かを取り出した。その手には磨き上げられたベレッタが一丁。
それを見たナッシュは、呆れたような、感心したようなどちらともつかない複雑な表情を浮かべた。
「……君にテロリストではなく、S.T.A.R.S.を選択する賢さがあって心底良かったと思うよ。」
それらをどうやって持込んだかなどというくだらない質問は敢えてしなかった。聞かずとも方法はいくらでもある事は知っている。
改めて壁に向き直ると、コンバットナイフで縦に深い切り込みを入れ始めた。そして強度を弱める効果が期待されるくらい十分に傷つけておいてから、ナッシュは耳をすまして向こう側の様子をうかがってみた。
しかし音は全く聞こえてこない。この壁は防音効果も果たしているのかもしれない。
ナッシュは眼鏡を外しながら2・3歩下がった。
「さてと。……フォローを頼む。」
全く判らない状況にある客室に何の備えもなく突っ込むのは無謀に等しいが、ここで他の乗客と一緒にぼんやり座り込んでいる訳にも行くまい。
──鬼が出るか、蛇が出るか。
ナッシュは下半身に力を込めると、その瞬発力を利用して壁に体当たりをかけた。
2回目のショルダータックルで壁の方が降参した。
問題の客室は、床がごっそり無くなっていたり、天井が丸ごと吹っ飛んでいたり、部屋ごと異空間になっていたり等という非常識な事態には幸いにもなっていなかった。
勢いのついていたナッシュは、壁の破片と化した白い糸の集合体と共に客室通路に転がり込む。
そして糸の束を払いのけながら受身を取り、体制を整えて顔を上げようとした彼に、切迫した声が飛んだ。
「危ない!!」
その声と、ナッシュが咄嗟に頭を横へずらす動作、そして一筋の銀色の光が今までナッシュの頭のあった部分を貫くという3つの現象が起こったのはほぼ同時だった。
ナッシュは自分の左側の座席に倒れ込む。その視界の端で、銀色の光──即ち鞭──の持ち主が予想通りの人物である事を確認した。
世界最強の金属『アダマンチウム合金』の一種で、アダマンチウムよりは劣るもののそれに次ぐ硬度と、金属にあるまじき柔軟性を併せ持つカーボナディウム。
そのカーボナディウムで出来た鞭とも触手とも言えるカーボナディウムコイルを腕に組み込んだその男の名を、ナッシュは正確に言うことが出来る。
「やはり貴様か、オメガレッド。」
「──ずいぶん久し振りに見る顔だな。」
また邪魔者が現れた、という感情を露骨に表したオメガレッドは、そう呟きながらコイルを手に収めた。
だからといって攻撃を止めるつもりなのではないだろう。ナッシュは警戒を緩めずゆっくりと立ち上がる。
「一体何のつもりだ。」
「……また説明しなきゃならんのか。俺はな、あの船に用がある。この飛行機に乗ってりゃ船と遭遇できると聞いて便乗させてもらったという訳さ。」
「ならば今すぐ飛び移るなり何なりしたら良いだろう。自分でご丁寧に穴まで開けてるんだ。」
言いながらナッシュはオメガレッドから目を離さずに壁の穴を盗み見た。ここも白い糸の集合体できっちり塞がれている。
敵は意味ありげににやりと笑ったが、答えなかった。
このオメガレッドは、他の人間の生命を奪う事で自分の命を維持できる。つまりついでに乗客の命も頂いてしまおうという算段なのだ。
そこへ先程の「危ない」という声の主が、天井から正にクモの如くナッシュの横に降りてきた。
「──乗り換えの案内は僕もしたんだけどね。」
オメガレッドの急襲という非常事態による被害を、極めて最小限に押さえたその英雄、スパイダーマンは軽い口調でナッシュにそう言うと、小声でもう一言付け加えた。
「ところで彼女は何をするつもりだい?」
知らぬ間にモリガンが最後尾の客室へと続く入り口に立ち、ひらひらと手を振っている。それからくるりと向きを変え、そこにも張られている白い壁にまるで溶け込むように奥へと消えた。
「奥の乗客に快適に過ごしてもらう為の手段だ。」
あんな芸当も出来るのか、と感心しつつナッシュが答える。それに関してスパイダーマンはあまり深く追求する事はしなかった。
「ふむ……で、君は?」
「彼を穏便に『船』に送り届ける手伝いをしようと思うが……?」
ナッシュが言い終わらない内にオメガレッドが構えた。
「くだらん相談事はそこまでにするんだな!!」
と、右腕を振り上げ、ナッシュとスパイダーマンの方向に勢いよく振り下ろす。
それを察してすぐさま応戦の姿勢を取った2人は、飛んできたコイルを2方向に別れて躱した。その後をコイルが貫き、座席を真っ二つにする。
ナッシュは敵と一定の距離を保ちながら座席の間を移動した。オメガレッドの周りはカーボナディウムコイルを振り回したせいか座席が綺麗に粉砕されているが、それ以外の部分は座席が邪魔をして自由に動く事が出来ない。そして、使用できる技も限定されてくる。ナッシュにとっては非常に辛い闘いだ。
尤も、この狭い室内での戦闘という点では、オメガレッド自身もある程度動きづらい事に変わりはない。しかし彼はもう一つ、『デス・ファクター(致死因子)』という人間を一発で死に至らしめる能力を持っている。
それを使われる前に、一刻も早く事態を終息させる必要があった。
一方、この動きが限定される客室内で唯一、全く関係無しに移動できるスパイダーマンは、ナッシュと反対側の側壁に貼りつく形でオメガレッドに対峙した。
ピンと張り詰めた空気の中で、2対1の睨み合いが展開される。
そして、その沈黙を破ったのはそこにいる3人の誰でもなかった。
「Freeze!!」
先程ナッシュが体当たりで作った入り口から同じようにして転がり込んだジルが、鋭い声で叫んだ。あのベレッタを水平に構え、オメガレッドの頭部に狙いを定めている。
「お嬢さんは大人しくしてな!!」
それを見たオメガレッドが体を反転させながらジルの方向へ踏み出し、コイルを投げつけた。
「ジル!!」
ナッシュが思わず叫ぶ。しかしジルの位置は今のナッシュから見てオメガレッドの向こう側。助けに入る事は不可能だ。
当のジルは極めて落ち着いていた。ベレッタを握り直すと、飛んでくるコイルに向かって発砲した。
かなりの射撃精度の持ち主である彼女の放った弾丸は正確にコイルを捕らえ、弾き返す。
「うぉッ!?」
勢いでオメガレッドの姿勢がわずかに崩れた。その一瞬の隙を突いて、スパイダーマンが高密度に圧縮をかけたクモの糸の固まりを、2つ連続で投げつけた。
一つはわずかに逸れ、ジルの後ろで破裂して再びあの壁を形成した。そしてもう一つがオメガレッドに命中するかに見えたが、瞬時に体勢を立て直した彼にいとも簡単に叩き落とされた。やはりそうそう簡単に捕まってくれる相手ではない。
「……船に乗りたいのなら、そろそろ乗り移る準備をした方が良いんじゃないのかな。」
クモの糸の固まり──ウェブボールが当たらなかったさほど気にする様子もなく、スパイダーマンは座席の上に着地して声をかけた。
オメガレッドが睨み返す。
「貴様に指図される筋合いはない。」
「状況を良く見なよ。もう船は徐々に離れていってる。船に乗りたい、ここの人々の命も欲しい、じゃぁ欲張りすぎだ。」
「黙れ。時間がないのならここで一気にカタをつけるだけだ。」
スパイダーマンの忠告に全く耳を貸すつもりはないらしい。オメガレッドは先程とは違う構えを見せた。
──デス・ファクターか──
一瞬にして空気が緊張したその時、
「よく言うだろ?『If you run after two hares you
will catch neither.』ってな。」
「──!?」
何時の間にか、ナッシュがオメガレッドを『射程距離』に収めていた。
右肩からむしろ背を向ける形でオメガレッドの懐に入り込むと、溜めた気を一気に爆発させるかの如く腰の回転と共に拳を繰り出す。
「ぐぁッ!!」
スパイダーマンの方に気を取られ、全くナッシュを警戒していなかったオメガレッドは、そのナッシュ渾身のスピニング・バックナックルを胴体にきっちり受ける形となった。
鈍い音を立て、成す術が無いまま吹っ飛ばされる。
そしてあわや側壁に激突といったその瞬間、あるはずの壁がばっくりと口を開いた。
「な…に……ッ!?」
先程オメガレッドが自分自身で開け、それをスパイダーマンがウェブシールドで塞いでいた穴だ。
機内の気圧は地上と同じに保ってあるので、当然外より高い。そして『流れ』というものは、高いところから低いところへと生ずる。
その物理学的法則により、オメガレッドはあっという間に外へ吸い出された。自慢のカーボナディウムコイルを何処かに巻きつける間もなく、一瞬にしてナッシュ達の目の前からその存在を消す。
その叫び声を聞く間すら無かった。
オメガレッドの姿が見えなくなったのを確認すると、スパイダーマンは穴を再びウェブシールドで、しかもかなり厚めに覆った。ウェブシールドの強度は折り紙付きだ。これで最寄りの空港までは持つだろう。
「取り敢えず一安心ってとこかな。……大丈夫かい?」
肩の力を抜いたスパイダーマンは、振り向いて他のメンバーに聞いた。
「おかげ様でね。ちょっと耳に来た以外は無傷だ。」
ナッシュがクモの糸で出来たロープを腰から外しながら、苦笑を浮かべて答える。オメガレッドと一緒に『雲の上の人』になってしまわない為の、咄嗟の対策だ。
一方のジルも耳に来たらしい。しかめっ面をしながらロープを外している。一瞬にしろ大きな気圧の差に触れたのだから無理もない。
ナッシュは衣服の乱れを直しながら、スパイダーマンの方に歩み寄った。
「君がいなければ、例えヤツを倒したとしてもこの飛行機は墜落していた。」
「お互い様さ。僕一人じゃどうしようもなかったしね。」
先に差し出したナッシュの右手に、スパイダーマンが力強い握手で応じる。さらにその上にジルが両手を重ねて置いた。
「私はこんな英雄達と同じ便に乗れたことを幸運に思うわ。」
ちょっとしたアクシデントはあったけど、と付け加える。
するとそこへ
「あらあら。ずいぶん早く終わらせちゃったわね。」
と、モリガンが不服そうな表情で後部の客室から姿を現した。乗客を眠らせるのに少してこずったのか、かすかに疲労の色が混じっている。
「私には『お楽しみ』は無し?」
「──まぁちょっと待て。そういう愚痴は後でまとめて聞く。」
ナッシュは手を上げてモリガンを制すると、スパイダーマンに前方の入り口に張られたウェブシールドを外すように頼んだ。それから小部屋に入り、コックピットに繋がっている電話の受話器を取り上げる。
そして他の3人にそれを見えるように掲げると、口を開いた。
「先にパイロットに連絡しよう。何も知らない彼らを早く安心させてやろうぜ。」
コックピット内では、ガイルが機長達と緊迫したやり取りを続けていた。
「……一応機体は安定しています。今一瞬客室の気圧が下がりましたが、すぐ戻りましたね。エンジンに異常は見られませんし、このまま行けば大丈夫だと思います。」
「空港との連絡はまだつかないのか?」
「通信に障害が起こってるようです。レーダーがイカレてないのが幸いですよ。最悪このまま通信が繋がらなければ、近くまで持っていって向こうに見つけてもらうしか……。」
機長を始め、この旅客機を操るスタッフは非常に優れた者達だった。ガイルが駆け付けた時も、何が起こっているのか全く理解できない状況の中にあったにもかかわらず、最悪の事態だけは避けようとパニックを起こす暇もないまま懸命に機体を安定させて、何とか無事に地上に降りようと努力していた。
もちろんガイルの参入は彼等の励みになったらしい。ストール(失速)させてなるものかという強い思いが一丸となり、あたかもその気持ちが旅客機を前に進ませているかのようだった。
ふと、一つのランプがちかちかと点滅した。
それに気付いた副機長がインカムで二言三言応答した後、ヘッドフォンごとガイルに寄越した。
「客室から連絡が入ってます。少佐宛ですよ。」
ガイルはそれを黙って受け取り、耳に押し当てた途端、聞きなれた声が響いた。
「ガイルか。こっちは解決したぜ。客室に穴が開いてるが、応急処置がしてある。そっちの首尾は?」
相手はナッシュだった。声が明るい。
「こっちは一応問題無い。……通信が使えない以外はな。」
「通信? 故障か?」
ガイルの返答に、ナッシュの声がほんのわずかに緊張の色を帯びる。
「わからん。妨害電波かも知れん。ところでそこで一体何があったんだ?」
現時点で通信不能という事態はさほど問題にならないといったふうに、ガイルは話題を切り替えた。
相手は一瞬黙った後、
「──多分明日の新聞には、『ハイジャックを企てたテロリストが、爆発物を機内に持ち込んで爆発させた』という感じで載る事になるだろうな。」
言葉を選んでそう返してきた。
明らかに事実ではないとわかる内容──即ち『表には出せない』事件というわけだ。
「わかった。一旦こっちへ来てくれないか。それとな、もう一つ……」
「おぢさん! 船どっか行っちゃったよー!!」
ガイルが最後に一言を付け加えようとした時、後ろからリリスが軽快な声と共にひょっこり顔を覗かせた。
ガイルはヘッドフォンを握る手に思わず力を入れる。
「……このお嬢ちゃん、何とかしてくれ。さっきから煩くてかなわん。」
向こうで、ナッシュが失笑する様子が何となく判った。そして「……今から行くよ。」という言葉を残し、通信が切れる。
いささかうんざりした面持ちで副機長にヘッドフォンを返し、『後ろの問題は解決した』という内容をかいつまんで説明すると、横にいた整備士が明るい顔でガイルを振り仰いだ。
「通信が復活しました。いつでも受け入れてくれるそうです。」
それを聞いた機長が、気合を入れる為に声を張り上げた。
「さぁ皆。これで気を抜くなよ。何とかここまで来れたんだ。ちゃんと無事に降りるぞ!!」
希望が手伝って、今までの疲れをふっ飛ばすかのようにコックピット内は一段と活気付く。
その様子を見たガイルは、これ以上は却って邪魔になると思い、静かにコックピットを出た。
このまま行けば、多分無事に地に足をつける事が出来るだろう。ゆっくりとコーヒーでも飲みたい気分だな。──そんな事を何となしに頭の片隅で考えた。
と、その安堵の気分を浸る間もなく綺麗にぶち壊してしまう存在が一人。
「ねぇねぇおじさん。さっきの『お嬢ちゃん』ってあたしの事? あたしはリリスだよ。」
「だから『おじさん』は止めろって言っているだろう、全く。着陸まで大人しくその辺に座ってろ。」
リリスはむー、と拗ねた振りをしながらガイルの反応をみて喜んでいる。そんな彼女を見て、ガイルは先程の安堵感から一転、頭を抱え込みたい気分になった。
先程の様子から、恐らくこのリリスと言う『お嬢ちゃん』と、もう一人の女がナッシュと行動を共にしているのだろう。
そもそもナッシュは公私混同をするような性格ではない。
──そんな奴が、女連れで特殊任務に当たっている──
その辺の事情を、きっちりと問いただす必要がある。
それは『上司として』当然の義務だ。
心の中に浮かんだ好奇心という言葉を強く打ち消し、後で細かい経緯をナッシュから必ず聞き出そうとガイルは堅く心に誓った。
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