Chapter9. >a silent street

「さて。これからどうするか、だな。」
 建物の外に出たガイルは、首の後ろに手を当て誰に言うとでもなく呟いた。

 無事に空港に辿り着く事の出来た『波蝕の鎧関係者御一行様』は、事情聴取と称して2時間程形ばかり拘束された後、特に何の制約も無く解放された。
 事故に遭った航空機の所属会社はアメリカ。そして主な関係者も皆アメリカ人と言う事が『効いた』らしい。ナッシュの予想した通り『実際に起こった事』は身内で収めておき、表向きへの発表は全く別のものになるであろうというのが、彼等の事情聴取を担当した捜査官の弁であった。
「後の処理については我々には権限が無い。それぞれの所属先の指示を仰ぐようにとの事だ。」
 そう言われてすんなり部屋を出された時、一行はいささか拍子抜けすると同時に疲れが倍増するのを感じた。彼等は事を小さく収めた言わば功労者である。疲れを癒す宿を提供するなり(時差の関係もあり体力的に結構消耗していた)、せめて目的地まで送ってくれても良さそうなものなのだが──
(尚、スパイダーマンだけはこの『事情聴取』が長くなると踏んで、航空機が着陸した時に「後で写真を送るよ」と言い残し、一足先に姿を消していた。その場に居て、活躍したという事実だけで他には深く追求されない辺りが『英雄』の特権か。)

「私は一旦戻ろうと思います。実は休暇中だったんですけどね。でもこの騒ぎでのんびり休んでもいられなくなりそう。」
 ジルが荷物を肩にかけながら言う。その答に、ガイルは同情の意を表した。ガイルもまた、この騒ぎに巻き込まれた故に休暇を返上したクチだからだ。
 その話題でしばらくジルとガイルが盛り上がっていると、周辺地図を見に行っていたナッシュと、それに何となくついて行っていたモリガンが戻ってきた。
「遅かったな。彼女はここから引き返すそうだが俺達はどうする?」
 振り返ってガイルが声を掛けると、ナッシュはちらっとジルを見やって二言三言交わしてから、ガイルの方に向き直った。
「アクシデントで目的地より手前に降りてしまったが、ここからそう遠くないところにもう一つ候補に挙げていた街がある。ついでだ。行ってみないか。」
 そう答えるナッシュの手には、何時の間にか車のキーが握られている。ガイルとジルが話しをしている間にレンタカーを借りてきたらしい。
 その様子を見たジルは、雰囲気を察してすっと右手を差し出した。
「──じゃあ、お気をつけて、少佐、中尉。」
「あぁ、君もな。」
 ナッシュとガイルそれぞれと握手を交わすと、くるりと身を翻して再び空港のロビーに消えていく。彼女ともまた、今後再び行動を共にする事があるかもしれない。もっとも、それは彼女の『所属先の指示』次第であり、一介の警察官に果たしてこの件に関わる権限を与えられるのかどうかはナッシュ達には知る由もない。
 そんなジルの背中を見送りながら、ガイルも自分の荷物を持ち直した。
「そろそろ俺達も行くか。──だがその前に」
 言いながらわざとらしくモリガンの方に向き直り、続ける。
「君も一緒に行くんだな?」
「……気に食わなさそうな口振りね。」
 モリガンがガイルを真っ直ぐ見返しながら、口もとに微笑みを浮かべて答えた。
 全く以ってその通り、ガイルは初見から彼女が何となく気に入らない。その感情の原因が何なのかは自分でも良く分からないが、モリガンには何処かしら『嫌な』雰囲気がある。
 しかしガイルはそういう感情は全く表に出さず、普段と全く変わらない口調で言葉を継いだ。
「いや、まだ紹介してもらってなかったのを思い出してな。せめて名前ぐらいは聞いておきたいンだが。」
 細かい事は取り敢えず置いといて、というヤツだ。
 そのガイルの態度に対し、ナッシュはもちろん思うところは多々あるものの、この場では何も言わずただ平静な声で淡々と双方を紹介した。
「──そうだったな、紹介するよ。彼女はモリガン。波蝕の鎧について興味があるとの事だ。──で、このホウキ頭が俺と腐れ縁で何故か上司のガイル少佐。」
「なんつー説明をするんだ。」
 すかさずガイルがツッコミを入れる。それに対してナッシュは「そのまンまだろ」という表情を返した。
 ──成る程ね。
 モリガンはその様子を見て一人納得した。いわゆる『お友達』か。またしても色々な意味でからかい甲斐のあるネタが増えた訳だ。
 それからガイルとモリガンは型通りの握手でお互い挨拶を交わし、ナッシュと共に車の方へと歩きかけて
「おいナッシュ。あのお嬢ちゃんはどうしたんだ?」
 ガイルが今ふと思い出した、というように足を止めて聞いた。あれほど機内でやかましくしていたリリスとかいう女の子の姿が、先程から全く見えない。
 機内の様子ではナッシュやこのモリガンと一緒に行動していたように見えたのだが……?
 ナッシュは車のドアに手を掛けたままやや複雑そうな表情で一旦ガイルの方を見返したが、すぐに視線を戻してドアを開けると、自分の荷物を放り込んで答えた。
「取り敢えず乗れよ。道中で説明する。」

 空港から車で2時間程走った処に、その街は佇んでいた。
 今から一月程前、夜の間に住人が忽然と消えたその街は、立ち入り制限は特にかかっていないものの誰も足を踏み入れる物はいない。普通は物見遊山のつもりで何の考えもない若者が入り込んできそうなものなのだが、何故かそういう事も全くないらしい。現時点で確認されている限りでは、全く無人の街だ。
 そういった背景等から、うち捨てられた『荒廃した街』を想像していた一行は、街に入るなりそのイメージのギャップに軽い驚きを覚えた。
 街そのものは、全く普通と変わらなかった。事件発生から一ヶ月、当然人の手がかかっていないのでそれなりに埃が溜り、『普通に』荒れてはいる。しかし過疎などの理由によりだんだんと人の住まなくなってしまった街などに、何となく漂う特有のうらぶれた感じなどは全く感じられない。
 まるで映画を撮る為に組み立てたセットをそのまま忘れてしまったような、もしくはある時突然魔法をかけられてぴたりと時を止めてしまったような、奇妙な違和感。
 何時住人と出くわしてもおかしくない雰囲気を漂わせながら、人の、生き物の気配だけが全く無い。
 ただ寂莫とした街。
 街の入り口で車から降りた3人は、かなり長い時間黙ったまま街を見つめた後、取り敢えず様子を把握すべく一通り見てまわろうと歩き始めた。
 街は、丘陵地帯の上から下に広がった構成をしていた。
 街の入り口が最も高くなっていて、そこからだんだん下がって行き一番ふもとが海に繋がっている。その入り口を入ったところのすぐ横に教会があり、それを取り囲むように、丘の下の方へ向かって民家が広がっていく。そして一番下の海に隣接した部分に、少し大きめの工場が建っている。その工場の部分を除けば、至ってのどかな田舎街といった雰囲気だ。
「潮風が良く通るところだな。」
 緩い下り坂になった道を歩きながら、ガイルはそう口にした。海沿いの街なのだから当然の話なのだが、静けさだけしか存在しないこの街では却ってそういう事に意識が行ってしまう。
 ざっと街の造りを一通り見終えた後、何かほんのわずかでも異変の跡を示す手掛かりのような物が無いかと個別に2・3件の家に足を踏み入れてみたが、空振りに終わった。家の中の様子は街の雰囲気と全く変わらない。直前まで普通と変わらぬように生活していた様子は伺えるものの、今そこに存在するのは、静寂な空間だけだった。
「……どう思う?」
 ナッシュは右手を口に当て、考え込む様子を見せながら聞いた。
 その声で、ナッシュに背を向けて近くにあった電話の履歴をなんとなしにチェックしていたガイルが振り返った。
「どう思うって……調査団の報告書通りだな。『まるでいきなりその場から住人が消え去った様な』なんて陳腐な事書いてる奴がいたが、実際見てみると正にその通りだ。」
「いや、実際自分自身の目で見てどう『感じ』た?」
「──。」
 ナッシュの切り返しにガイルは一瞬息を呑んだ。このナッシュの質問の意味がよく理解できなかったと同時に、言わんとしている事がよく判ったからだ。
 ナッシュはガイルが押し黙ってしまったのを見て、彼もナッシュ自身と同じ印象を持っていることを確信した。街に足を踏み入れた瞬間から感じていた独特の雰囲気。報告書の写真などでは決して伝わって来ることのないこの何とも言えぬ感じ。
 どおりで若者達が入り込んだりしない訳だ。調査団の一行も、実際見て回ったのは1時間程度らしい。確かに並の人間なら長居したいと思うほうが普通ではない。
 この街の空気は、人間が昔から持っている一番原始的な感情の一つを呼び起こす作用があるように思える。そう、いちばん近い言葉で言うところの『恐怖心』を。
「……理屈抜きで存在を信じたくなるよ。『波蝕の鎧』のな。」
 ようやくガイルが吐き出すように口を開いた。別に『波蝕の鎧』と称されるものでなくても良い。とてつもなく強大な『何か』がいるような。明らかにその得体の知れないものが通ったような目に見えない痕跡。
 それを自分の目で視て、ようやく納得がいく。噂になるのも、そして存在を信じたくなるのも無理はないのだ。
「さて、この街はこれ以上の収穫は望めそうにないが、あとはどうする?」
 気持ちを切り替える意味で、ナッシュは別の話題をふった。ここからもう一つの街、最初の目的地へ移動するのは今日中には無理だろう。近くの街で宿を取るか、それとももう一度空港まで引き返すか……そんな提案をナッシュが挙げてみようとした時、ガイルが先に口を開いた。
「今日はここで宿を借りるんじゃなかったのか? どうせ誰もいないんだしな。」
「そうした方が面白いンじゃない? 肝試しが出来るわよきっと。」
 2階の方を見て回っていて今まで部屋にいなかったモリガンがいつの間にかそこにいて、すかさずガイルの提案に同意した。これには正直、ナッシュの方が驚いた。もちろん始めからそのつもりだった。そのつもりでここまで来る間に食料などを買い込んできたのだが、ここの雰囲気を見て、別のところに移動しようと言い出すのではないかと思っていたのだ。
 無論、ナッシュもここに滞在するのには同意見だ。夜になれば、昼間とは違う『何か』が見られるかも知れないし、ガイルとの情報交換もまだしていない。それに疲れもあって今日はあまり動き回りたくないというのもある。
 いずれにせよ、全員一致なら問題はない。
「……なら、荷物を取ってくるか。」
 そのナッシュの台詞に促されて、他の2人も先に外へ出ていったナッシュの後を追うように街の入口に停めてある車の方へと向かった。

 荷物を抱えた一行は、先程の家よりはもう少し広めの家、というよりどうも民宿の類であったらしい建物を見つけ、そこに滞在することにした。
 食堂に入り、荷物を適当に放り出してから一通り建物の中を見て回ると、この宿は自家発電をしていたらしくその装置が見つかった。バッテリー残量も多くはなかったが滞在するのに差し支えない程度に残っている。他のガスや水道はさすがに止められていたが、水は途中で買ってあるので問題はない。電気が使えるのは有り難い話で、なかなか快適に暮らせそうだ。
 食堂に戻り、一息ついたところでようやく今までの今日状況報告と情報交換をしようということになり、その準備をする為にナッシュがノートパソコンを取り出した。
 するとガイルがそれを見てふと思い出したように、あの旅客機の中で会うまでに何度か連絡をしたのに繋がらなかった旨を伝えた。あそこで偶然にも会わなかったら、延々連絡が取れないまま合流も出来なかったかも知れない。
 ガイルはそういった愚痴ともつかない上司としての小言を連ねたが、ナッシュにしてみれば、お互い様というやつだ。ガイルの休暇中に連絡を取ろうと試みて取れなかったのだから。
「大体な、携帯の電源くらいちゃんと入れておけ。幾らなんでも職務怠慢だ。」
 そのガイルの台詞に、ナッシュは鬱陶しそうな顔をした。
「……携帯で居場所まで監視されるのは適わん。定期連絡はきちんとしているから問題無いはずだ。」
「その定期連絡もメールで転送に転送を重ねて送るな。今のところ他の連中は気付いていないからいいようなものの……。」
 ガイルは深々とため息を吐きながら椅子に座り込み、眼だけナッシュの方へ向けた。
「──一体今回は何を企んでる?」
「人聞きが悪いな。何かを企んでいるとすればそれは上層部の方だろう。」
 そう答えながらナッシュは視線を手元に落し、ノートパソコンの電源を入れた。マイペースなのは昔から変わらない。しかし例えマイペースであろうとも、今まで『こんな行動』を取ったことはなかった。それはガイルが今まで一番気になっていた事柄だ。
 ガイルはゆっくりと、言葉を選んで慎重にその疑問を口にした。
「それにお前が公私混同するようなタイプだとは思わなかったぞ……任務に女連れとはな。」
「……。」
 来たな、とナッシュは思った。むしろガイルが今までその『肝心な事』には全く触れてこないのが不思議だったくらいだ。モリガンの紹介を求めてきた時や、リリスの説明をしていた時についでに問い詰められるものだと思っていたのだが。
 ──さて、どうやって穏便に言いくるめたものか。
 思案を巡らせつつ、ナッシュは顔を上げた。
「──モリガンとはこの『波蝕の鎧』の件に関しお互いの利害が一致したから行動を共にしている。公私混同をしているつもりはないが?」
「ならばそのように報告すればいいだろう。虚偽報告になるぞ。」
「何もかも事細かに逐一報告せねばならんとは、随分窮屈な話だな。大体彼女は人間じゃない。さっき車の中で説明もしたし、実際機内でその事実は目の当たりにしてるはずだ。その辺をどう報告する?」
 リリスがいなくなった事に関し、ここの街まで来る間にナッシュはガイルを納得させるべく長々と説明をした(モリガンは車に乗っている間中「退屈だ」と言って後ろの座席で寝ていた)。しかしガイルはナッシュとは違い今までこれほどまでに『変わった任務』を受けた事は無い。X-MENなどのミュータント達ですら存在は知っているが実際に会った事はないので、そういう人種に対しいまいち実感が湧いてこないのである。ガイルが今まで相手にしてきた者達は、いくら変わっていようとあくまでも『人間』であったからだ。
 ましてモリガンのような『ダークストーカー』ともなると想像の範囲を越えてしまっている。
 結局空港からこの街までおよそ2時間の道程では、「そういう事にしておこう」という結論まで持って行くのだけで精一杯であった。
 しかしガイルは彼女の種族などはどうでも良いと行った感じで切り返した。
「何も『上』に全て報告しろとは言ってない。せめて『直属の上司』には報告してもらいたかったもンだと言いたいんだ。」
 そう言うガイルの目の端に、好奇心の光が覗いているのをナッシュは見逃さなかった。これから波蝕の鎧を追うにつれ出会うであろう見知った者達も、恐らくは似たような視線を浴びせてくるに違いない。
 自分自身の持つイメージは、自分自身できちんと把握しているつもりだからその辺は容易に想像がつく。そしてその見解は先程会ったガンビット達の様子からも間違ってはいないだろう。
 ガイルが腕を組み直し、改めてナッシュの方に向き直って続けた。
「今まで浮ついた話を一つも漏らさなかった奴がいきなり女連れで行動してりゃ、理由はどうであれ誰だって不審に思うだろう。まぁ『全く無い』なンて事は無かったんだろうが……」
「『あれ』で今まで脇目も振らずに堅物一直線なんて事は、まず有り得ないわね。」
 今まで2人のやり取りを側でただ黙って見ていたモリガンが、ふいに口を挟んだ。
「モリガン──」
 ナッシュがモリガンに鋭い視線を向ける。
 モリガンはその様子を実に楽しそうに眺めてから、「ちょっと外の様子を見てくるわ」と言いつつ意味ありげな笑みを残し、部屋を出ていった。
「なぁナッシュ。今の彼女の言葉の意味を、かなり深いところまでご教授願いたいんだがね。」
 その言葉でナッシュがガイルの方に視線を戻すと、ガイルはまさに鬼の首を取ったような表情をしていた。
 形勢が、かなりまずい。
「──ガイル。お前は俺の親友である前に上司か、上司である前に親友かどっちだ?」
「もちろん親友であり上司だ。」
「……質問を変えよう。急を要する任務と個人のプライベートの詮索、今現在どちらが重要だ?」
「難しいところだな……。」
「そんな事で考え込むな。」
「いや、この場合、任務を優先させるのは当然の事だ。しかしその前に上司として部下の状況はきっちり把握しておく必要があるし、これからパートナーとしてやって行くなら、その間のわだかまりは少しでも解消しておいた方が今後の為に良い。そう思わないか?」
 ガイルが真顔で答える。随分とまた尤もらしい口上を並べ立てたものだ。ナッシュは呆れて頭を振った。
「………詭弁だな。」
「その通りだとも。」
「開き直るな。──全く。」
 モリガンの一言のお陰で、立場が一気に弱くなってしまった。普段他人に滅多に『弱み』を握らせないナッシュにとっては正に痛恨の一撃である。特にこのガイルに対しては、最早何かしら一つでも『エサ』を与えてやらなければ引き下がりはすまい。
「──とにかく」
 話を変えよう。ナッシュは少し語気を強め、ガイルを見据えた。
「お前の任務は俺のフォローのはずだろう。先に仕事をさせてもらうぞ。」
「あぁ。別にお前の邪魔をするつもりで言ってる訳じゃ無いんだ。」
 そう応じてガイルは数枚のディスクを取り出す。そして口の端に微笑を浮かべつつ付け加えた。
「……だが後でしっかり白状しろよ。」

 モリガンは再び街の入口にある教会の前に来ていた。ここから海の方へ視線をやると、既に傾いた太陽の光が水面に反射してキラキラと輝いているのが見える。普段なら、そして普通の人間ならその景色をみて多少なりとも感動を覚えたことだろう。
 件の旅客機が空港に着陸したのは昼前のこと。当然時差のせいもあるのだが、実に長い一日だった。モリガン自身は取り立てて何もしていないので、なおさら長く感じたように思う。
 太陽はもう間もなく月にその支配権を譲ろうとしている。当然ダークストーカーにとっては過ごしやすい時間となるのだが、今のモリガンは何となく機嫌が悪かった。
 もちろんナッシュにいいように使われて、実質『お祭り』に参加できなかったこともある。しかしそれ以前に、この街の持つ独特の雰囲気が気に入らなかった。
 人間の2人もそれとなく気付いているようだ。その点においては流石と言えるが、多分それはモリガンの感じているものとは微妙にニュアンスが違っている。
 これだけ強烈に『跡』を残しておきながら、その存在は微塵も感じさせない。これを『波蝕の鎧』がやってのけたのだとすれば、実に厄介な相手だ。どうやったらこれほどまでに虚無の空間を作り出せるのであろうか。今まで人間がいたはずのこの街に。
「ホント、『何も無い』のよね。全く何も無い。……嫌な感じだわ。」
 海に向かってモリガンは呟いた。そして長く伸びた自分の影の方を振り向くと、誰もいないその先に向かって同意を求めた。
「──ねぇ、そう思わない?」
 その声に呼応するかのようにモリガンの影の先端がゆらりと揺れ、持ち上がったかと思うと、それは徐々に人の形を形成していった。
「……気付いていたか。」
 闇の貴公子、吸血鬼デミトリ・マキシモフの姿がそこにあった。
「気付くも何も。こんな何もないところで逆に気付かないほうがおかしいわよ。」
 モリガンは髪をかき上げながら改めてデミトリの方に向き直った。
「──で、何の用なのかしら。わざわざ思念体を飛ばしてくるなんて……この騒ぎには興味がないンじゃなかったの?」
「別に興味を持ったわけではない。だが静観をしている場合ではなくなったからな。」
 そう答えたデミトリは今そこに直接存在するわけではなく、モリガンの指摘した通り思念だけを飛ばしてきていた。実際本体は自分の居城にあるままなのだろう。
 デミトリは言葉を続けた。
「魔界と人間界が少なからず干渉しあっているのは知っているな? ここが滅びれば魔界にも何らかの影響を及ぼす。未だ私の手に入ることのない魔界がそんな事で滅びるのは意に染まぬ。そこで一言忠告をしてやろうと思ったのだ。」
 言いながらすっと右腕をあげ、真っ直ぐ海を指差す。
「海に気をつけろ。『深淵』は海に潜む。」
「──何よ、それ。アビスって……?」
 聞きなれない言葉にモリガンは聞き返した。しかしデミトリの返事はそっけないものだった。
「それは私にも判らん。『水の王』から聞きだしたものだ。あやつも何らかの危機感は持っているようだったが。」
「随分当てにならない忠告ね。そんなに心配なら貴方が直接出てくればいいのに。」
 モリガンがやり返す。却って余計な謎が増えた感じだ。先の不機嫌さも加わっていささか語気が荒くなる。
 しかしデミトリは全く気にしていない様子で、マントをぐっと引き寄せた。
「私は私で、君ほど暇ではないのでね。それともこの件、君一人では手に余るか……?」
「勘違いしないように言っておくわよ。」
 モリガンはデミトリを正面から見据えた。自分自身は首を突っ込まないと言っておきながら何故わざわざ口を挟みに来るのか。魔界の覇権の事といい、何故こんなにこの男にからまれるのかがよく判らない。
 とにかく、今回の件に関しては釘を刺しておく必要がある。
「私は単に面白そうだから関わっているだけ。魔界の為とか人間の為とか、そんなくだらない事のために動いているつもりはないわ。もちろん、貴方の為でもない。皆私自身の為よ。」
「──何の為でも構わん。だがたかが一人の人間の男の為に、私を失望させるような真似だけはしないでくれ給え。」
 デミトリの思念体はそういってふと微笑を浮かべると、そのまま空気に溶けるかのように消えた。
「妬いてるのかしらね。」
 モリガンは吐き捨てると、再び視線を海に戻した。結局デミトリが何を言いたかったのかはよく判らないままだ。
 しかし
 ──『深淵』ねぇ……。
 アビスの名を口にした時の彼の表情は厳しかった。わざわざからかうためにその一言を言いに来たわけでもあるまい。
 しかしだからといって、一人考えたところで結論が出るわけでもない。モリガンはそう考え直すと、また街の方へ向かって歩き始めた。

「波蝕の鎧に関しては、『海』がキィ・ワードになってる事は違いない。」
 ディスプレイを眺めながら、ナッシュは断言した。
 今までの統計から、人々が忽然と消えた街は必ず海沿いにある。そして奇病が流行った街は海からの風がよく通る地域だ。その事からも、海と波蝕の鎧は決して切っても切り離す事が出来ないといっても過言ではあるまい。
 ガイルは肯き、一枚のディスクを取り上げるとナッシュのノートパソコンを自分の手元に引き寄せ、ドライブに挿入した。
「あぁ、そこでだ。ナッシュ、メールチェックはしたか?」
「いや、あの騒ぎがあったしな。……何かあったのか。」
「大アリだ。お前が出てから、また街が消えた。しかも2つ。」
「──。」
「一つはお前が出る前日に起こっている。──多分報告が間に合わなかったんだろう。場所は日本の漁村。そんなに大きくない街だがそこの村人全員が消えた。そしてもう一つ。……こちらが厄介なんだ。」
 ガイルは一旦間を置くと、続けた。
「昨日の話だ。奇病で街が全滅した。その街の位置というのが、軍の研究施設の近くだったんだ。」
 その言葉に、ナッシュが鋭くガイルを見返す。
「それは……」
「質問は後にしてくれ。多分予想通りだろう。──場所はあの例の軍の薬物研究所がダミー会社として設立されている地域。そしてその会社スタッフも全滅。当然マスコミや周りの住人は疑うさ。今までの『波蝕の鎧』騒ぎも関わってるんじゃないかとね。」
「それで慌てた訳か。」
「その通り。まずあの会社が軍とは無関係であるという証拠隠滅工作に大わらわ。それから波蝕の鎧の調査はどうなったんだと、まだ結果は出ないのかとお叱りが来たらしい。まだ調査を始めて3日も経ってないってのにな。しかもお前一人で。」
 ガイルは苦笑いしながら画面が立ち上がったパソコンをナッシュに向けた。画面にはその奇病で全滅した街の詳細が数枚のウィンドウで示されている。普段ならこんなに早く調査結果が出ることはない。余程打撃的だったのだろう。
 ナッシュはその中で、一つ気になる結果があった。それが記されているウィンドウを手前に引き出し、一通り目を通す。しかし一番下まで見ても、求める結果は不明瞭なままだった。
「……奇病の原因はまだ判ってないのか?」
 ナッシュがマウスポインタでその部分を指し示しながらガイルに聞いた。
「そうらしい。細菌、ウィルス、遺伝子その他諸々、考えられる可能性は全て追ったのに原因が出てこないんだそうだ。正に『奇病』だな──人間が一晩にして干からびちまうってのは。」
 ガイルも同じ画面に目をやりながら答えた。ナッシュが示したそのウィンドウには、奇病にかかって死亡した人間の検死結果が写真入りで表示されている。そこに移っている死体は、まるでテレビや、博物館などで見かけるミイラのように『干からびて』いた。
 ある日突然街中の人々が一晩にしてミイラ化する。様子からして何かの病原菌が、もしくは毒ガスの様なものがばらまかれ、一瞬にして死に至らしめられたように見える。しかしその後何も知らずに街に足を踏み入れた人間(大抵それが消えた街の発見者になる)にはそんな症状は待てど暮らせど発症してこないし、街を調査してもその痕跡は出てこない。
 オカルト的な表現になるが、まるで何者かに街ごと生気を吸い取られた感じだ。
「この街と言い、奇病が流行った街と言い、俺達が相手にしているヤツはどうも得体が知れない上に、大きすぎる感じがあるな。」
 ガイルは頭を掻きながらつぶやいた。
「──怖いのか?」
「まさか。お楽しみはこれからだろ?」
 ナッシュの一言をすぐさま否定したガイルは意味深な笑いを浮かべ、ごそっと途中で買い込んできた食料の中からアルコール類を取り出してテーブルの上に並べた。
「さっきの事、そろそろ白状してもらわないとな。」
「……飲み比べで勝てると思ってるのか?」
 呆れた顔をしながらナッシュは缶ビールの一つを取る。こんな状況にあって、随分とまた悠長な話だ。もっとも、何処からともなくのし掛かってくる重苦しい空気をやり過ごそうと思うのなら、多少のアルコール摂取はお手軽な手段だし、必要なのかも知れない。
 ナッシュは今後の『作戦』を考えながら、プルタブを引き起こした。

 デミトリと別れたモリガンは、薄暗くなってきた街中をゆっくりと歩いていた。そしてすぐそこの角を曲がれば例の宿に着く、といったところでふと足を止め、後ろを振り返った。
 何かに後をつけられている感じだ。しばらくそこで立ち止まってみたが、相手も動く気配がない。
 モリガンはもう一度引き返すと、少し広めの道に出た。そこでもう一度様子を窺う。
 明らかに先程のデミトリの様な思念体とは違った人の気配がある。そして向こうも、闇の中からモリガンの様子を窺っているようだ。
 一体何者だろうか──いや、何者でも構わなかった。今のモリガンは言うなれば欲求不満の状態だ。それを解消してくれる相手なら誰でもいい。これが『波蝕の鎧』だとなおさらいいのだが。
 モリガンはその闇に向かって声をかけた。
「出ていらっしゃいよ。退屈しているところだから、ちょっと遊んであげるわ。」

 


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