Chapter14. >Turn Around

 そこは、水の加護を受けた国だった。
 まず国の場所からしてそれを象徴していた。国のある大陸は大洋に囲まれ、海はその恩恵を惜しみなく与えてくれる。
 大陸の気候は穏やかで多雨多湿。それらによる水の恵みは太陽と共にその国に色々な実りをもたらした。
 その大陸は正に恵まれた楽園であった。楽園があれば、自然、そこに住まう人々は栄えていく。ご多分に漏れず、この国もこの上ないくらい栄華を極めていた。
 しかしその繁栄の極みに、こういった自然の力だけで到達出来た訳ではない。もう一つ、重要な要素が関わっていた。
 それはこの国の文明が、魔法という法則に基づいて存在していた事である。
 一定の法術をつむぎだす事により行われる精神力の具現化。小鬼、妖精、精霊、そして神や悪魔に属するもの達との対話。それらにより得られる数々の発展──。
 いつの世もそうであるように、この栄華は永遠に続くものと思われていた。

 ひとつの巨大で美しい庭園の道を、一人の男が歩いていた。
 長いローブを纏い、胸を張って颯爽と歩く。その胸には地位を示す紋章が光り輝いている。
 男は優れた魔道師であり、研究者であった。そしてその成果が認められたこともあり、この国の政治の一端を担う地位にもついていた。
 しかし男はあくまでも自分を研究者として、いつも研究に没頭していた。今もその合間だ。
 今日は娘に仕事場を見せる約束をしている。今行われている国の研究に付きっ切りで立ち会わねばならず、男はしばらく家に帰っていなかった。
 一人娘は現在可愛い盛りだ。いつになっても娘は娘で可愛いのだが、好奇心の目覚めと共に色々と物を覚え始める今が一番可愛い時であるのも確かである。そのような時に重要な研究の為とはいえ娘に会えないのはたまらなく辛かった。遅くして出来た子なので尚更だ。
 そこで一計を案じ、娘を研究室に招く事にした。それなら研究から離れずとも、娘に会う事が出来る。更に、好奇心旺盛な娘の欲求も満たしてやれる事だろう。
 男は今、その待ち合わせ場所に向かっている途中なのである。
 娘の姿は、すぐに見つかった。
 庭園の中央にまるでこの国の様子を示すかのように設けられた噴水と、それを取り囲む泉の淵に腰を下ろし、手の先でその美しい水を跳ね上げて遊んでいる。
 肩までのふわふわとしたプラチナブロンド。空を舞う飛沫を見つめるその眼は深い蒼色──まるで水に加護されたこの国の象徴のような美しい色をたたえている。
「お父様!!」
 男の姿を認めると、娘は一目散に駆けてきた。
「いい子にしてたかい?」
「えぇ、お父様に会えると聞いたから、いつもの倍以上いい子にしてたわ。そして今日はお父様の働いているところを見せてくれるんでしょう?」
 利発そうな目を向け、娘が笑顔で答える。
 男もつられるように満面の笑みを浮かべ、娘を抱き上げると再び研究所への道を歩き始めた。来た道と違う、やや遠回りの道を選んだのは、娘と二人きりの時間を少しでも延ばそうという意識があったからであろう。
 途中、庭の手入れをしていた数人が、男と娘の姿を認めると慌てて道を空け、姿を極力見せないよう隠れた。
 男はその連中を一瞥すると、さほど気にした様子もなく傍を通り抜ける。
 彼らはサーヴァントである。男にとっては道端の石に等しい存在だった。
 この国には二つの人種が存在する。一つはランドロードと呼ばれ、男や娘、他この国の人間の大半がそうであるように、魔法を使う事に出来る一般的な人間のことを指す。もちろん、国の支配者である。
 もう一つはサーヴァント。魔力を持たず、ランドロードに仕える事だけを生業とする種族だ。いわば奴隷のような存在だが、そうしなければ彼等は何も出来ない。魔法が使えないのだから、生きていく事が出来ないのである。知能もそれ程高くなく、ランドロードの命令を辛うじて理解できる程度だとされている。彼等は家畜同様、生まれてから死ぬまでその一生を労働に捧げ、それが彼等にとって至上の喜びとなる──。
 この国では、それが常識だった。そして常識というのは、普通、疑われないものである。

「お帰りなさいませ。久々の外の様子は如何でした?」
 部屋に入るなり、助手がそう声をかけてきた。
「いい天気だったよ。やはりたまには外の空気を吸わねばならんな。」
 答えながら娘を下ろすと、娘は助手のところに走り寄って微笑を向けた。
「こんにちは。」
「こんにちは。お嬢様。」
 助手は席からわざわざ立ち上がり、娘と視線の高さを合わせるためにかがみこんで微笑んだ。彼はいつも男や娘から一歩下がったところで行動する。その原因には彼自身の生い立ちが大きく関わっていた。
 この助手は昔サーヴァントだった。魔力を持たず、他のサーヴァントと同様、幼い時に労働力として男の家に遣わされて来た、紛れもない奴隷の種族だったのである。
 しかし研究者がある時戯れに──本当に何故そんな事をしたのか今もよく判らない。それ程に当時研究が行き詰まっていたのだろう──まだ幼さを残すこのサーヴァントに一つのパズルを与えてみた。無論やすやすと解く事は出来ないもので、暇つぶしに遊ぶにはやや気合がいる代物だった。
 しかしこのサーヴァントは、ものの数分も経たないうちに全て解いてしまった。
 男は驚いた。サーヴァントは知能を殆ど持たないというのが定説であったからだ。命令を理解する程度。逆にいえば命令以外のことは決して出来ない。やろうとしない。それだけ判断力が低いのだ。
 だが思い起こせば、このサーヴァントは他に比べ、よく気付きよく動いていた。命令されていない事でも、必要だと思われることは先回りして用意している事がしばしばあった。
 そこで今度は基本的な参考書、辞典などを与え、魔術の仕組みをある程度理解させてからとある基本的な方程式を解かせた。
 するとサーヴァントは難なく解いてみせた。しかもこの問題を解くにあたり彼にとって難解だったのは、方程式そのものではなく言葉の意味だったようだ。
 男は再度もう一つ、違う方程式を解かせてみた。期間は1週間。仕事の手は休めるな、というのが条件だった。その代わり、男の部屋にある膨大な図書を参考にするのは一向に構わないという許可だけは与えた。
 実際にその方程式を解くには、きちんと教育を受けたランドロードがまじめに取り組んで1週間かかる。期間は同じ1週間だが、サーヴァントには仕事と併用なので当然、条件は厳しい。
 3日目の朝。起きた男が部屋に入っていくと、机の上にきちんとまとめられた書類が一つ載っていた。見ると、どうもサーヴァントに出した宿題のようである。腰を落ち着けて読み始めると、程なくしてサーヴァントが朝食を運んできた。
「どうしても、それ以上の解は得られそうになかったので──」
 サーヴァントは傍らで申し訳なさそうに言う。しかしその台詞は男の耳には届いていなかった。
 ──完璧だ──。
 この上ないくらいの解だった。解き方は一つではない。しかし最も美しい解法というのは存在する。これはそれをはるかに上回る出来なのだ。予想以上、などという言葉ですら片付けられない気がした。
 今まで型にはまった教育を受けてないのも幸いした。非常に自由な発想を元に、自由に式を組み立てていく。常識にとらわれないが故に、常識からは引き出せない式を引き出す事が出来るのであろう。
 男はこのサーヴァントを労働使役から外した。それにより労働力が足らなくなったとしても、申請すればすぐに供給されるので、何ら問題はない。
 そして現在この文明にある限りの教養を、男が直接サーヴァントに与えた。普通のランドロードが男のしている事を見たならば、きっと男の頭を疑ったであろう。
 しかし周りが男の精神状態を疑う頃には、既にサーヴァントはその頭脳の聡明さを確固たるものにしていた。彼は土が水を吸い込むように多くの事を吸収し、またそれにより多くの事を生み出した。今まで定説とされていた法則を、更に詳細に、そして簡潔にまとめた時などは、周りから賞賛と驚愕、そして羨望の入り乱れた声が飛び交った。
 研究者は思った。彼はサーヴァントではない。誤って全ての魔力を頭脳へと回してしまった為に、普通の魔法が使えない。特異なランドロードなのだろうと。
 男はいつしか彼を家族同然の扱いとしていた。研究においても彼の存在は重要で、このサーヴァントがいてくれたおかげで上手くいったものが幾つもあった。
 そんな折、国に一つ大きなプロジェクトの話が持ち上がった。権力者の一人であり、研究者である男は当然その計画に参加する事となった。
 男はこのサーヴァントを助手としてその計画に参加させたいと思った。これだけの頭脳があれば、下手な他の研究者達よりもはるかに役に立つ。
 尽力の限りを以って男は奔走し、彼は特別だという事を熱心に語ってランドロードの地位を与えるよう求めた。
 無論反対の声は多かったが、彼の示した新しい方程式の数々を見せ付けられれば、その凄さを認めざるを得ない。
 故にこの助手は今、魔力を持たない特別なランドロードとして認められ、この研究に携わる事を許されているのである。
「お父様、このお人形はなあに?」
 あちこちに置かれたものを一つ一つ不思議そうに眺めていた娘が、きらきらと光る目を目の前の小さな像に傾け、聞いた。
 それはずんぐりした胴体の上に、小さめの円筒形の顔に当たる部分がちょこんと載っている、全体的に鎧を思わせる人形──というよりはむしろ甲冑の模型であった。
「『波蝕の鎧』だよ。私が若い頃に開発した。実物は神殿に置かれているが──見た覚えはないかい?」
 これが男を今の地位にのし上げるきっかけとなった。特殊な金属と法式を使い、外からの攻撃をかなりの割合で防ぐのだ。物理的な攻撃はもちろん、ちょっとやそっとの下位魔法では塗装をはがす事すら難しいだろう。
 そしてそれに加えて特徴的なのが、装着者の魔力を増幅する働きをする事である。同じ魔術を用いて比べてみるとよく判る。やりようによっては、小さな拳程の火の玉が、森を簡単に焼き尽くす炎竜ともなる。
 そのブースター機能の基本的な構想を作り上げたのが、若き日のこの研究者だった。
 男が構想をまとめ上げた時、大陸は幾つかの国に分かれて戦争をしていた。男のいる国がわずかに押してはいるものの、いつひっくり返されても不思議ではない不安定な戦況が続き、一刻でも早く新たな戦術や、兵器の開発が求められていた。
 そのような背景により、まだ学問を学ぶ身分ではあったものの才能を徐々に現し始めた男がまとめた魔力増幅機能の構想はすぐに取り上げられ、兵器としての開発に使われる事となった。
 始めは完全な武器として開発が進められていた。しかしむしろ鎧などの防具に増幅機能を持たせれば、一石二鳥なのではないかという意見が持ち上がり、最終的に一体の鎧が出来上がった。
 実験では、鎧の装着者には何人たりとも敵わなかった。強いものが装着すれば無敵を誇るが、弱いものでもそれなりに戦えるようになる。プロトタイプでありながら、完全なる完成型。正に理想の兵器である。
 しかしいざ量産化に踏み切ろうかとした時、奇しくも戦争は終わりを告げた。男達の国が近隣諸国を制したのだ。大陸は一つとなり、多少の紆余曲折があったものの一応の平和が訪れた。
 こうなると製作段階で問題が多く、製作にかなりの費用がかかるとされている兵器を無理して大量生産する必要は無くなる。むしろ再び戦争を引き起こす火種になりかねない。
 協議の結果、兵器は神殿に飾られる事となった。兵器は『波蝕の鎧』と名付けられ、国の力を示す意味も兼ねて平和の象徴として飾られた。かつての兵器が平和の象徴とは皮肉なものである。
 今彼女が興味を示した模型は、その波蝕の鎧を模ったものなのだ。
 娘は首をかしげながらしばらく模型を眺めていたが、やがて思い出したように頷いた。
「そういえばお父様、これ、神殿の入口に置いてあったわ。」
「そう、その模型だよ。」
 男の言葉に納得して笑顔になると、娘は再び研究室の中を探索し始めた。
 国から与えられたとはいえ、研究室の中はそれ程広くはない。あまり大きくても意味が無い上に、関わる事の出来る人間は限られているから必要が無いのだ。
 娘はすぐにそれを見付けた。
「お父様、こっちは?」
 先程と同じ様に目を輝かせて問う。
「それは『アビス』という。今それの研究開発をしているのだ。」
「アビス?」
 娘は銀色に光る大きなカプセルを不思議そうに見上げた。「これがアビスなの?」
「いやいや。このカプセルの中に入っている。今はまだ外に出せないし、常に安定した状態を保ちたいから日の光にも当てない様にしてあるのだよ。」
「何が出来るの?」
「人の生命を魔力に変換する事が可能だ。どんなものであれ、生命を持つものはエネルギーを持っている。我々ランドロードはその生命エネルギーを自分で自覚しないままに魔力に変換しているが、それをこのアビスによって意図的に、そして外部的に行おうという訳だ。
 ──簡単に言うと、人を食べる事により魔力を生み出す機関、ということになる。」
 娘の表情が曇った。悪い夢を見て夜中に起きてしまったような、そんな表情である。
「そのエネルギーを食べられちゃうとどうなるの? 私もお父様も食べられちゃうの?」
「いいや。食べられるのは私達ではなくサーヴァント達だよ。彼等は魔力を持たないが、それは生命エネルギーを魔力に変換する術を先天的に知らないからだ。どんな生物にも生きていく上で使用するエネルギーがある。そのエネルギーを変換するのがこのアビスなんだ。魔力が無くても、生きていれば魔力に変換する事が出来る。つまり身体を壊し、動けなくなってしまったサーヴァント達をも最後まで十分に利用できる事になる。──判るかね?」
 男は娘の頭に手を置き、不安を取り除いてやるように優しい声でゆっくりと答えた。
 今までランドロード達を悩ませてきた問題の中に、役に立たなくなったサーヴァントの処理があった。働き過ぎて身体を壊したもの、また、年を取って働けなくなったものたちをその後どうするのか。それが大きな問題となっている。
 この国に存在するサーヴァントの数は並大抵ではない。数だけならランドロードに勝るだろう。故に毎年使えなくなる人数も半端ではないのだ。
 まさか使えないものをただ飼っておくわけにはいかない。さりとて安楽死させようにも、更にその後の処理が困る。
 同時に、エネルギーの安定供給の問題があった。例えば今は夜家の中を照らす為には、火の精霊などと契約を結ばねばならない。そしてきちんと契約を取り交わしたとしても、たまに気まぐれな彼等は暗い部分を照らす事を忘れてしまったりする。些細な事だが、深刻な問題でもある。何処からかエネルギーを調達し、保存しておいて必要な時に安定して供給できれば、そういう事に振り回される心配はなくなる。
 この二つの問題を一気に解決してしまおうと計画されたのが、このアビスなのだ。
 そして男と助手は、国を挙げてのこのプロジェクトに携わるメインスタッフなのである。
「──魔力を持つ人間を喰わせれば、もっと強大な力を与える事ができるでしょうがね。」
 助手がぽつりと呟いた。小さい声だったので娘には聞こえなかっただろうが、男は聞き逃さなかった。
「冗談でもそういう事を言うのは止めたまえ。」
「──えぇ、判っています。単なる学者的好奇心ですよ。」
 男の言葉に助手は笑顔で返した。研究に携わる者は時々こういう危険な発想をする。好奇心の塊でなければ務まらない部分があるので無理も無い。
 事実、男の中にもそういう興味があったことは否めないのだ。自らの生命エネルギーを魔力に変換できるランドロードは、サーヴァントと違いそもそも持っているエネルギー容量が違う(と考えられている)。それを全てアビスに取り込ませたらどうなるか。研究者としては興味をそそられない訳がない。
 ただ、男は一般常識を備えていたのでそれを口に出す事は決して無かったし、実行に移すつもりもさらさら無かった。

 研究所内を走り回り、他の色々なアイテムについて質問し倒した娘が満足した頃合いを見計らって、男は娘を家まで送っていった。娘は家につく頃には男の背中で寝息を立てていた。
 そして再び研究所に戻ると、助手は机に向かって方程式を解いていた。今一番難しい部分に入っているのである。
 男はその助手の背中に向かって声をかけた。
「君も少し休みたまえ。私よりも君の方が根を詰めすぎている感じがある。」
「いえ、もう少し。」
 助手は振り返り、手に持っていたカップを机に置いた。それまで書記を手伝っていてたまたまそこにいた小鬼が驚いて逃げる。
「もう少しで第五階層の法式が組み上がりますから。そうしたらチェックして頂く間に一休みさせて頂きます。」
「君には本当に驚かされる。私の確認も必要のないくらい完璧な式を組み上げる。その才能は本当に羨ましい限りだよ。」
 男は助手の傍に歩み寄り、既に書き上がった方程式の一部に目を通した。相変わらず美しい式を書く。
 研究者は思った事を素直に口にした。
「この研究が終わったら、君は独立すべきだろう。いつまでも私の下では逆に私が足枷となりかねん。」
「いえ、私は独立するつもりなどさらさらありません。私は博士に感謝しているのです。このような機会を与えてくださった貴方に。博士さえご迷惑でなければ、このまま置いてやっていただきたく思います。」
 そう答えながら助手は再び視線を手元に落とし、式の続きを書くべくペン先を走らせた。逃げた小鬼が戻ってきて、それを横から手伝う。
「遠慮する事は無い。独立したければいつでもするといい。その時は応援させてもらうつもりだよ。」
「ありがとうございます。でも今のところはその気はありませんよ。」
「そうか──」
 彼のような逸材に研究を手伝ってもらえるのは、男としてもとてもありがたい。少なくともこの研究は彼がいないと成り立たない。今のところは助手に独立の意志は無いようだ。そこを無理に独立させる必要は何処にも無いし、助手は恐らくサーヴァントの出であるというハンディキャップを気にしているのであろう。とにかく、この話題はこれ以上引っ張るものではなかった。
「さて、私は隣の部屋で先ほど君が組んだ方式を見直してこよう。殆ど必要は無いがね。逆に私の術が追いつかんかも知れん。」
 言いながら、男は隣の部屋へと消えていった。
 助手は何も答えず、ただひたすら式を解き、再び組み上げる事に熱中していた。

 
 数年後、男は成長した娘と共に中央の議事堂へと向かっていた。
 空は綺麗に晴れ上がり、道々の水路を流れる水は綺麗に太陽の光を反射している。正に「お披露目」に相応しい日である。
 そう、今日ようやくアビスのお披露目を行うのだ。ようやくここまでこぎつけた。これがきちんとシステムとして組み込まれれば、エネルギー供給の安定が可能となるはずだ。この世界は更なる発展を見せるだろう。
「いよいよお披露目ね、お父様。」
 先を行く娘が振り向きながら言う。成長したとはいえまだまだ子供の域を出ないが、最近行動の端々に大人びたものを漂わせるようになった。きちんとドレスを着こなし、胸には先日助手と男が2人でプレゼントした蒼いペンダントが輝いている。娘の目の色に合わせて特別に作らせたものだ。
「お父様、一つ聞いても良いかしら?」
「何だい?」
「何故アビスでエネルギーを変換する人間はサーヴァントでなければダメなのかしら。大罪を犯したランドロードと、私達の為に働いてくれるサーヴァントを比べた時、それでもアビスにサーヴァントを与えるのが適切といえるの?」
 いつ頃からか、娘はアビスに人のエネルギーを与える時の表現に『喰う』という単語を使わないようになっていた。
「滅多な事を言うもんじゃない。ランドロードとサーヴァントを同じ次元で考えるのがそもそもの間違いだ。」
 男はそうたしなめた後で、更に続けた。
「よく考えてご覧。力を持たず自分達では何も出来ないサーヴァントは、我々に使役する事で神の祝福を得ているのだ。我々が救ってやっているのだよ。そして今回アビスが発動する事で、彼らは最後まで我々の役に立つことが出来る。サーヴァントは我々に感謝しこそすれ、恨む理由など全く無い。」
「──。」
 娘は黙ったまま、真剣な面持ちで男の話を聞いている。その目の奥には、やや批判的な光が宿っているように見えたが、男は構わず続けた。娘がそう思う原因に思い当たる節があったからだ。
「大罪を犯したランドロードはまた別の手段で救ってやらねばならない。それは研究者が考える事ではない。中央の仕事だ。
 それに勘違いしてはならん。あの助手は魔力を頭脳という方向に変えたランドロードだ。考える事を知らぬサーヴァントとは違うのだ。」
 娘は返事をせず、ふいと目をそらせた。納得の行っていない顔だった。思えば娘は他のランドロードと比べて特異な環境で暮らしていたことになる。普通のランドロードなら思いつかないこの発想はその辺から来ているのかも知れない。
 そんな状態でしばらく会話が無いまま歩き続け、気が付けば議事堂の前まで来ていた。
 娘がつと顔を上げ、男の目を覗き込む。
「ね、お父様。さっき私の言った事、よく考えておいて下さいな。他のサーヴァントの中にもきっと彼みたいに才能を持っている人がいると思うの。それを見抜かずに単純な労働使役だけやらせて、更にアビスで全て魔力に変換だなんて……。私達にも彼らにも、良い事では無いような気がするわ。
 お父様は研究者でありながら、それなりの権利もお持ちだもの。きっといい解決策を考えてくれるわよね。彼をランドロードにしたみたいに。」
 そういうと、娘は男の返事も待たずにすたすたと議事堂の中へ入っていってしまった。
 男はしばらくぽかんとその後ろ姿を見送っていたが、思い直すとすぐに後を追った。
 まさか娘がこんな変わった考えを持っていたとは思わなかった。しかしそれをこの場で深く考えるのは止めておく事にした。今日はそれよりも優先すべき重要な事がある。
 議事堂に足を踏み入れると、入口、ホールは既に色々な人でごった返していた。中央の閣僚を始め、高名な研究者達や、それに群がる報道陣等々。この場にいないのは、議事堂への立ち入りを許されていない一般の者達だけである。一般の者達は外に設置された観客席で、遠い舞台の上を眺め、その雰囲気を味わう事になっている。その観客席も今頃は黒山の人だかりで埋め尽くされている事だろう。
 この国を挙げての巨大なプロジェクトの完成は、国中を沸かせるのに十分な活性剤なのである。
 その場にいた者達は、男の姿を認めるとそれぞれ言葉をかけようと近寄ってきた。男は手でそれを制し、微笑を浮かべてその場をすり抜けると関係者のいる控室へと向かった。
 入口の者と型通りの挨拶を交わし控室に入ると、娘は既にそこにいて、周りの者と挨拶を交わしていた。我が娘ながらに本当に礼儀正しく育ったものだと感心したのも束の間、男はある事に気が付いた。
 そこにいるはずの助手の姿が見えないのである。
 娘が男に気付き、不安げな顔で近寄ってきた。
「まだ来ていないそうなの。それに誰も連絡を受けてないんですって。」
「おかしいな。先ほど研究所に連絡をした時は、既にこちらへ向かっているとの話だったが……」
 男は首をかしげた。
 助手は研究所からアビスをここへ運び込む役目になっていた。男の家より研究所の方がここから近い位置にある。男が家を出るより先に助手が研究所を出発したならば、どう考えても先に着いているはずなのだ。
 こういう時すぐに思い浮かべるのが事故等万が一の可能性である。しかしアビスの運搬は助手だけで行う訳ではなく、警備員が数人同行する事になっているので、何かがあればすぐに連絡が入るはずだ。
 何があったにしろいささか遅すぎるのではないか──?
 少し様子を見てこようかと男がドアに手をかけたその時、議事堂の外で轟音が轟いた。
「──何事だ?」
 大きな振動と数多の悲鳴がそれに続く。何かただ事ではない事態が発生したのは明らかだ。
 男と、他に控室にいた関係者達は一斉に議事堂のロビーへと飛び出した。
「──!?」
 そこに広がっていたのはまるで悪夢──予想だにしない恐るべき光景であった。
 先程までその人だかりで賑わっていた美しいロビーは無残な瓦礫の山に変えられ、逃げ惑う人や倒れて動かない人々が辺り一面を埋めている。
 そして更に現状を把握しようと辺りを見渡した男の視界に入って来たものは、正に目を疑う代物だった。
「波蝕の鎧!? 何故あれが動いている!?」
 思わず声を荒げる。波蝕の鎧が動くはずが無い。それは男自身が一番良く知っている。
 しかしそれはそこに──今まで議事堂の入口であったところに堂々と佇んでいた。美しく黒光りする胴体は、あちこちで上がった火の手を反射してきらきらと輝いている。
 その頭部左右から大きく伸びた角が、その鎧に装着者がいる事を示していた。
 鎧を誰かが装着すれば、兜の左右もしくは後方に、角のような形が現れる。その形は人間にそれぞれ個性があるのと同様、装着者によってパターンが違う。
 角は大きく、緑色の光を帯びている。あんな魔力を持つ人間に心当たりがない。
「見た事の無いパターンだ。一体誰が……」
 男が呆然と立ち尽くす横で、娘は倒れた人を抱き起こし、逃げる人を議事堂の中に誘導する作業に入っていた。議事堂は万が一に備えて極めて堅牢に作られている。
 その娘の至近距離で、突如爆発が起きた。
「きゃあッ!」
 起こった爆風に吹き飛ばされた石が、まるで生物のように娘に襲い掛かる。気付いた男が咄嗟に防御魔法を張ったが間に合わず、石の一つが娘の顔を直撃した。
 男が慌てて駆け寄り、倒れた娘を抱き起こす。娘は右目に怪我を負っていた。見たところ他に大きい怪我は負っていないようだが、顔を伝う赤い筋が男の精神に大きな衝撃を与えた。
「──大丈夫か……?」
 男の声は震えていた。一体この事態は何が起きたというのだろう。何故この様な戦場が突如として目の前に現れたのだろうか──。
 しかし娘は自分の怪我にはさほど頓着せず、それよりももっと事態を冷静に見ていた。
「お父様! 後ろ!!」
 いつの間にか二人の傍らに、波蝕の鎧が佇んでいた。
「──!」
 男は娘をかばうようにして向きを変えると、いつでも何事にも対処できるよう、幾つかの魔法を組み立てた。しかし鎧は二人に対して攻撃しようとはせず、その代わりに光る玉を一つ、間に生み出した。
 ぼんやりと、しかし確実に光は形を成していく。
「ご機嫌如何ですか? 博士。」
「……君は……」
 そのホログラムは、見慣れた像を結んだ。いつも一緒に暮らし、つい昨日も夕食時にアビスの完成を祝って語り合ったあの助手の姿に。
「こんな姿で失礼しますよ。何しろ鎧を脱ぐ事はままならないのでね。」
 助手のその姿は、あたかも波蝕の鎧を後ろに従えているようだった。
「──何故だ。どうして……。」
 微笑を浮かべる助手の立体映像を前にして、男は論理的思考を失っていた。
 そもそも助手は魔力を持たない。能力を増幅する波蝕の鎧を着たところで、これ程の破壊力は得られない筈だ。何よりも力を持たないものが下手に波蝕の鎧を着れば、能力以上に力を吸い取られてあっという間に干からびてしまう事もある。まず立って歩く事自体が困難なはずだ。
 そんな男の様子を察してか、助手が説明した。
「別に難しいことじゃない。アビスと同化すればね。アビスに私自身を喰わせたんですよ。もしくは私が喰ったというべきかな。いずれにせよ、同じ事だ。」
 助手は軽く笑いを放った。自嘲を含んだ、全てに対して蔑んだような乾いた笑いを。
 その時、2本の光跡が背後から波蝕の鎧に向けて襲い掛かった。
「──!」
 鎧が傾いた。しかしダメージまでには至らない。
 助手が振り返ると、十数人の兵士が鎧を打ち倒さんとする勢いで向かってくるところだった。そして少し離れたところで隊列を整えると、その中の指揮官らしき者が進み出て声を張り上げる。
「抵抗は止めて波蝕の鎧を捨てろ!! 指示に従わねば貴様を抹消する!!」
 兵士達の後ろには、炎を司る精霊が召喚主の合図があればすぐにでも鎧を焼き尽す事が出来るよう控えている。
 助手は全く表情を変えず、ゆっくりと左手を兵士達の前にかざした。すると同様に鎧も左手を挙げた。
「もう、『従う』つもりはありませんよ。──残念ながらね。」
 鎧の手の動きに呼応するようにぼこぼこと、地面から幾つもの緑色に輝く球体が現れる。そしてその場にいた兵士を捕らえ、次々と飲み込んで空に留まった。
「貴方達も我が計画に協力してもらいましょうか。」
 助手はそういうと同時に広げていた手のひらをぐっと閉じた。と同時に、球体の中で変化が起きた。
「う……がッ!?」
 球体に取り込まれた兵士達は、抗う間もなくあっという間にエネルギーを吸い取られ、しぼんでいく。
 人を喰ってそのエネルギーを取り込み、補充するアビス。そして装着するものの力を増幅する波蝕の鎧。両者を組み合わせれば、相手が人間である限り──いや、相手がエネルギーを持つものである限り、全く敵にならない。
「波蝕の鎧と知りながら何の策もなく向かってくるとは。愚かさも甚だしいぞ!」
 助手の声が辺り一面に響く。
 召喚主を失った精霊達は宛ても無く周りを飛び交って消えた。しかしその時に、一面にその恵みをばら撒いていった。炎という名の恵みを。
「放たれたエネルギーも吸収できるようにすべきでしたね。そうすれば無駄が無いし、防御も楽になる。ランドロードを相手にするってわかっていたのに、対象にしておかなかったのは失策だった。──まぁそんな調整をしたら、計画がばれてしまう危険性も増加するから無理かな。」
 助手は相変わらず笑みを浮かべている。まんまと波蝕の鎧、そしてアビスを手に入れた事に無常の喜びを感じているようだ。
「何という事を……!」
 右目を抑えたまま、娘が呟いた。
 その声に反応して振り返った助手の顔から一瞬笑顔が消えたが、それは見逃してしまいそうな程本当に一瞬の出来事。すぐさま元の表情に戻り、娘に微笑みかけた。
「これはお嬢様、怪我をさせてしまったみたいですね。大丈夫ですか? 貴方達は極力巻き込まないようにするつもりでしたが、まあ仕方ない。」
「貴様……ッ!」
 ようやく状況を把握し、まともに物事を考える力を取り戻した男が勢い良く立ち上がった。「自分が何をしているのか判ってるのか!? 恩を仇で返す気か!!」
「──勘違いしないで戴きたい。確かに私個人は貴方に恩義を受けたが、この世界に対しては何の恩も感じていない。感じる必要すらありませんよ。」
 助手の反応は非常に冷ややかだ。今まで、こんな助手の表情を男は見たことがなかった。いつも大人しく従順で、しかし研究においては自分の主張が間違っていないと思えば遠慮なく意見をぶつけてきた時の熱意ある表情からは想像がつかない。冷酷で、無機質、且つ残忍なこの表情──。
 男は警戒をしながら助手と、その後ろの鎧を見比べた。
「一体何が目的だ? この世界を滅ぼす事か。ランドロードも、サーヴァントも共に──?」
「滅ぼす、というのとはいささかニュアンスが違いますね。私は世界を一つにしたいのですよ。『無』という一つのものに。」
「──!?」
 助手の答に男は言葉を失った。彼は何を言っている? 何をしたいと望んでいる──?
 助手だけが楽しそうに言葉を続けた。
「何もなくなってしまえば良いんです。サーヴァントだの、ランドロードだの、下らない階級に縛られたこんな世界など、何も存在する意義はない。皆一つにして無に還してしまえばいい。
 ──それに貴方も願っていたはずでしょう。少し形は違うが──この世界を一つにしたいと。アビスならそれが可能だと。」
「──何だと? 私が?」
「えぇ。ただし、貴方は世界をその手に入れたいと望んでいた。自らの手の中で世界を一つにしたいと思っていた──」
「違う! そんな事は望んでいない!!」
「違いませんよ。貴方の心の奥底に、願望として常に存在したはずだ。そうでなければ始めからこんな装置は実現しなかった。」
 助手は自分自身を示しながら言った。あたかも男の心の中をすっかり見透かしてしまったような表情で。
 男は呻いた。
「──だがこれらの製作は中央からの命令もあったのだぞ!」
「中央からの命令だから仕方なく、というのは単なる隠れ蓑に過ぎませんね。貴方は中央にその立場を認められた研究者だ。やりたくなければ『出来ない』と言えばいいんです。実際その時点では実現は不可能だったのだから。そうすれば私を研究に抜擢する事は無く、今のこの事態を招く事も無かった。
 貴方は望んでいたんですよ。これを何らかの形で自分の欲望に使用することを。今私がこうしてアビスと同化していくにつれ、さらに貴方の想いがよく伝わってきます。貴方が自らの心血を注いで作り上げたこのアビスからね。
 貴方は世界を一つにしたいと願った。自分の手で、世界を動かせると思った。アビスを使えるのは事実上貴方だけであったから。
 そして私も世界を一つにしたかった。ただ私は世界を掌握したい訳ではなく──無に返したかったんですよ。何も無いはじまりの海へ。こんな世界、何が美しいものか。」
 助手が吐き捨てた。まるで憎悪の塊である。この世界そのものを、心底憎んでいる。そんな様子が全身から滲み出ていた。
 そして改めて男の方へ向き直り、何を思ったかいきなり深々と一礼をしてから再び口を開いた。
「貴方には感謝してます。奴隷の私を拾って、家族同然の扱いをしてくれたのでね。でもそれは私にずば抜けた才能があったからであり、そういう才能を披露出来る機会に恵まれたからです。そういう機会も無く、ただ働く事しか出来なかった私の両親は、奴隷のままこき使われて死んでいった。両親だけではない。私の同胞は大半がそうなのです。
 あなた方には決してわかりますまい。魔力という力を持たない人間の気持ちなど。あなた方にとっては虫けらと何ら変わりない、魔法で作り出した泥人形と同じ存在である我々の気持ちなど!!
 私とてあなた方と同じように感じ、同じように考える。希望を持ち、夢も見る。でもあなた方はそれら全てを奪ってしまう──ただ、魔力がないという理由だけで。考える力すら持たないと思い込んで奪ってしまう!!
 そして我々サーヴァントもどうしようもない種族だ。自分達でやろうと思えばできることを、始めから諦めて投げ出してしまっている。故にランドロードを付け上がらせる。その手にあるものを、ただ魔力という幻に対して闇雲に恐れ、全て放棄してしまう──!! そんな愚か者共は全て無に還れ!」
 激昂した助手に呼応するように波蝕の鎧が身を反らし、巨大なレーザーを放った。それは近寄ってきた別の兵士達を一瞬にして焼き尽くした。辛うじて生き残った者達は、直後に襲いかかってきた緑色の球体に吸い込まれ、消えていく。
 その横で、爆風に巻き込まれないよう防御魔法を張っていた男が、ゆっくりと立ち上がった。
「成程、君の言い分はよく判った。──とはいえ、今更な話だな。」
 姿勢を正し、衣服についた埃を叩き落として身なりを整える。そして助手を正面に見据えた。
「確かに君の言う通り、我々の世界は愚か者の集まりであったかも知れない。そして君のその発想には最後まで驚かされたよ。アビスと波蝕の鎧を組み合わせるとはね。
 ──しかしながら、君の計画には2つ穴がある。」
 男はそこで一旦言葉を切り、乾いた唇を舌で湿してから続けた。「一つはアビスだ。君が完全にアビスに取り込まれてしまえば、アビスを制御するものが無くなる。その後事が君の思う通りに運ぶとは限るまい。
 もう一つは波蝕の鎧。アビスと組み合わせるというアイデアは非常に良かったが、その作用が一部で相反する。恐らく整合性は試していまい。それぞれの作用の衝突によって何が起こるかは私にも想像がつかん。そんな危うい状況で、最後まで計画を遂行する事が果たして可能だろうか。」
「残念ながら──」
 落ち着きを取り戻した助手が、まるでその反論を待っていたかのようににっこりと微笑んだ。むしろよくぞ指摘してくれた、という様子だ。
「それらは全て予測されている事態ですよ。調整済みです。貴方の気付かないところでね。式にさりげなく紛れ込ませてありました。まぁ貴方は私が組み上げた式を信用していたので見つかる心配は殆どありませんでしたが。」
 そしてあたかも男の不快感を煽るように、両手を広げて更に続ける。
「確かにエネルギー吸収に関しては調整し損ねましたがね。今貴方が挙げた要素は計画には重要だ。その点においては抜かりない。
 具体的に述べましょうか。一つ目のアビス制御については、取り込んだ物の意思をデータとして残すようにしてあります。人間というのはランドロードもサーヴァントも同じ様に、後ろ暗い考えを持っている。人間の中で一番卑しく、一番強い感情ですよ。それらの欲望をアビスの欲望と転換させてやるのは訳無い事です。そのものの心の奥底に眠る一番強い欲望を満たすように行動しろ、とね。今の段階では恐らく私の持つ憎しみの感情が一番大きいでしょう。よって、私の自我が消えた後も、アビスは私の欲望と、他の人々の深層心理が望む通りに破壊行為を遂行するはずです。
 波蝕の鎧とアビスの整合性は確かに仰る通り、機能衝突が起こる可能性があります。あくまでも可能性ですが、万が一を思うと看過できません。故に、アビスに一つのコマンドを付け加えました。──波蝕の鎧をも取り込むように、と。波蝕の鎧のデータは研究所で自由に閲覧できましたから、式を組み込む事に何ら支障はなかった。鎧とアビスは最終的には一体となり、自身で吸収・変換・増幅・放出をやってのけるはずです。非常に効率がいい機関の出来上がりだ。何故今まで思いつかなかったんでしょうね。」
「……」
 男に返す言葉は無かった。なんという用意の良さであろうか。その発想、そして全てに於ける可能性を考え、対処するその能力。研究者としては一流である。状況を忘れ、その能力にただ感服した。
 一方の助手は、そんな男の反応を楽しんでいるかのようだった。まるで種明かしを楽しむ道化師の様に。
「さて、自我を保てるうちに、出来るだけ計画を進めなければなりませんので、そろそろ失礼させていただきましょう。そして今貴方を取り込むのは止めておきますよ、博士。今までの感謝の意も込めまして、特等席で世界が滅びる様をご覧あれ──貴方の愛する娘さんと共にね。」
 そういうと、目の前の助手の姿をしたホログラフィがふいと消えた。続いて鎧が向きを変え、議事堂の外へと歩き出す。
「──待て!」
 成す術が無いままに男は鎧の後ろ姿に声をかけていた。
 その言葉が合図であったかの様に──その台詞に従った訳ではあるまいが──鎧が足を止める。そして
「ご機嫌よう、愚かな魔道師達。」
 言いながら振り向き様に、議事堂内部の扉へ向けて一つの光線を放った。
「な……ッ!?」
 男は身を翻し、娘を庇って再び地面に伏せた。その光は男と娘の傍らをかすめると、議事堂の中を貫く。
 一瞬、議事堂の中が緑色の光に包まれた。目をつぶっていたにも関わらず、それは感じられた。しかし男はそれを確認する事はせず、ずっとその場に伏せたまま事が過ぎ去るのを待った。
「……。」
 そうしてどれ位時間が経ったのか、気がつくと、辺りは静まり返っていた。鎧もいつの間にか消えている。
 男は恐る恐る立ち上がって議事堂の中心へと続くドアに歩み寄り、手をかけた。そして一瞬躊躇した後、一気に押し開いた。
 中は静かだった。却って耳が痛くなってしまう程、静寂がその場を完全に支配していた。
 それもそのはず、議事堂の中心に逃げ込んだ多数の人々が、そこに居るはずの人々の姿が全く存在しない。
 先程の光は、ドアを開ける事も無くここに居た全ての人々を飲み込み尽くしたのだ。
 伏せていた時は随分長い時間が経ったように思えたが、恐らくほんの数十秒の出来事だろう。しかし中に逃げ込んだ人は決して少なくない。それ等を全て、アビスは一瞬にして「喰った」のである。
「酷い……。」
 娘は自分の目の傷も忘れ、涙を浮かべてただ議事堂の中を見つめていた。
 その横で男は、自分の中にある感情が徐々に色褪せていくのを感じた。それと同時に頭の中が冷え、色々な考えが脳裏をよぎる。
“私は世界を一つにしたいのですよ。『無』という一つのものに。”
 彼はそれで何をつかもうとしたのか。彼自身は何を幸せと考えたのだろう。彼の憎しみはランドロードにだけに向けられたものではなかった。自ら道を切り開こうとしないサーヴァントすら蔑んでいた。故にサーヴァントを解放するための反乱とは捉えにくい。
 助手はこの世界そのものに絶望感を抱いていたように思える。人知れず、誰も自分の考えを理解してくれるとは思わずにたった一人で──。
 ──だから「何も無い」状態へと収束させようとしたのか? 全ての存在が消えてしまえば、悩みすら消えると……?
 それはあまりにも排他的だ。他にあるであろう全ての選択肢を一切捨て去った、強引、且つ独善的な考え。
 男は娘を促して一旦議事堂の外に出た。玄関から見下ろす街は意外にもそれ程破壊されておらず、綺麗な街並みがほぼそのまま残っていた。しかしそれはあくまでも見かけ上の話である。
 街には、人の気配が全く無い。
 議事堂の中と同じく、静寂が一帯を支配していた。
 そんな様子を横目に男は構わず歩き出し、議事堂を回り込むような形で裏側に来ると、何も無い壁に向けて二言三言呟いた。するとそこに浮かび上がるようにドアが出現した。
 中に入るとそこは小さな小部屋になっていて、正面にはドアがあり、向かって左側には複雑な魔法陣が描かれていた。正面のドアは議事堂内に通じていて、中を通り抜けてここに来るのも可能ではあるが、それは気分的に極力避けたかった。
 男は左側に描かれた魔法陣に向けて再び呪文を唱える。それに応えるように魔法陣が二つに割れ、新たな通路が出来上がった。
 続いて娘に入るよう目配せする。
「お父様……?」
 娘は従ったものの、不安そうな顔で振り返った。
「そこに階段が見えるだろう。それを降りてずっと真直ぐ歩いていくと、小さな部屋に出る。そこにはしばらく暮らしていけるだけの色々な物が揃っている。もちろん医療品も置いてあるからお前はここからそこへ行き、事が終わるまで待っていなさい。その地下のシェルターは、議事堂より更に強い。目の傷は痛むだろうが……」
「嫌です!」
 娘は男を真っ向から見据え、言い放った。「例え何があったって私だけ助かる訳には行かないわ。私も一緒に行きます!」
 しかし男はゆっくりと首を左右に振り、娘を制止する。
「お前の察する通り、私は今から彼を止めに行く。彼の言う通りだ。私にそういう考えがあった事に違いは無い。だから鎧も、アビスも作った。何の考えも無しにな。
 そして彼をあそこまで追い詰めたのも恐らく私が原因だろう。私自身の中にサーヴァントを下等なものだと決めつけ、ランドロードが究極の存在であると信じていたし、そんなランドロードの立場になれた彼も幸せだろうと思い込んでいた。気付かぬうちに、無意識にそんな態度が出ていただろう。彼はきっと傷ついていた。」
「……お父様……」
 娘には返すべき言葉が見つからなかった。何処か歪んだ世界が生み出す歪んだ環境。その環境の中で、父親の考えは正しいものであったのだから。娘も助手が身近に居なければ、その環境に対し僅かとはいえ疑問を持つような事は無かった。今自分が立っている地面の存在を、一体誰が疑うというのか。
 男は非常に辛そうな顔で、娘を見返した。
「お前には頼みたい事がある。装着者のエネルギーを増幅して外へ出す波蝕の鎧だが、実は一つだけ、万一の暴走を止めるための仕掛けをつけておいた。私以外には誰も知らない機能だ。それを使えば波蝕の鎧を止める事が出来る。
 しかし逆にいえば、それは波蝕の鎧の動きを止める事しか出来ない。一時的に封印するのがやっとだ。そしてその封印は永久的なものではなく、時が経てばいつかは外れてしまうだろう。もしくは何かしらの衝撃が加わらないとも限らない。そうなると鎧は機能を回復し、アビスはまた復活してしまう。──時間稼ぎに過ぎないのだ。
 だからお前に頼みたい。そうなる前に──封印が外れ、再び破壊が繰り返される前に、鎧とアビスを潰してくれ。お前で叶わぬならお前の子供でも良い。我が一族で何としてもこの脅威を止めねばならん。本来なら私自身がすべき事だが、まずそれ以前に私は全てを賭けて鎧を止めねばならないのだ。私の責任をお前や子孫達に被せるのは非常に辛いが、どうか頼む。鎧を破壊する手立てを考えてくれ。」
 娘を見ながらも、その表情は既に全く見えていないようである。いや、男にとって、その場の状況全てが頭に入って来ないようだった。構わず一方的に喋り続けている。むしろ独り言に近い。
「わが娘よ。この愚かな父と、この愚かな文明を呪うのは構わない。今お前の眼の傷すら治してやれないこの父の事など、綺麗に捨て去ってくれて構わん。しかし──」
 愚かなものが滅びるのは仕方がない。だがこの美しい大陸が、水やその他色々な恵みが、たったこれだけのためにこの世から消え去ってしまう事が我慢ならなかった。まして他の関係の無い者達──最早世界の何処にそのような者達が存在しているかどうかは判らなかったが──や、生物が、愚かな国と共に滅びなければならない道理など何処にも無い。
 男は更に呟き続けた。
「一つだけ、覚えておいてくれ。この水の都を。水の加護が如何に美しかったかという事だけは、例えその陰にあった文明が間違ったものであったとしても。この恵みだけはそこにあるべくして存在した非常に美しい芸術であったという事を──」
「お父さ……ッ」
 何か言いかけた娘を振り切るように、男は魔法陣を閉じ、外から封印をかけた。もう二度とここからの出入りは出来ないよう、厳重に封印を施す。外界の安全が確認されれば、シェルター側のドアが開くはずである。
 即ち、もう娘はシェルターに向かうより他ないのだ。
「……済まない……。」
 男はドアに向かって一言呟くと、踵を返して鎧の後を追った。

 波蝕の鎧は議事堂を出たあと、再び神殿へと向かっていた。逃げ惑う人々は助けを求め、神殿へと身を寄せている。しかしいくら神に祈ったところで、いざ有事の際には何の救いにもならないのは助手自身が身をもって体験した事だ。
「愚かだ。本当に愚かだ。」
 と独りごち、神殿に足を踏み入れた。必死で抵抗を試みる神官達をあっさり吸収すると、更に奥へと進む。
 神殿の奥には、女子供が群れとなり、極力祭壇に近付くような形で固まっていた。
 祭壇には3つの球体が置かれている。この国は、神を丸いもの、球体として捉えていた。真球は全てに於ける理想の形──そのような考えだった気がするが、サーヴァントであった助手にとっては全く興味のないことだった。
「愚かな神に愚かな者が最期の恨み言でも述べるのか──?」
 ゆるりと手をかざす。
 するとその場に居た者達は全て、何も考える間もなく恐怖心だけを胸に緑の光へと消えた。
 その時、誰も居ないはずの後ろに、気配を感じた。
「──気は済んだか。」
 振り返った視線の先には、かつての主人が立っていた。無表情でありながら、ある決断を下したような、吹っ切れたような顔をしている。
 助手は肩をすくめた。
「博士、貴方は余程気が早いらしい。娘さんはどうされました?」
「安全なところへ避難させてある。だが目の傷が芳しくない。こんなくだらない事は早く終わらせてやらねばならん。」
「……。」
 先程のように立体映像を出さないので助手の反応を窺い知る事は出来ないが、男の言葉を快く思っていないのは確かだった。
「──良いでしょう。貴方も一つとなって無に還るがいい──」
 鎧の目が光る。すると男の周りに魔法陣が敷かれ、男を吸収すべく光を放ち始めた。
 しかし男は落ち着き払っていた。
「研究者というのは、常に色々な可能性を考えておくべきだよ。君が前もってアビスを調整した様に。」
 流石に魔道師・研究者としてその名を知られた男である。他の者の様にあっさりと吸収されてしまう事はなく、変わらず話を続ける。
「──そして研究者というのは稀に周りが見えなくなってしまうことがある。自分の世界にこもってしまうような現象だ。」
「確かにその通りだとは思いますが──一体何をおっしゃりたいのです?」
 回りくどく話し続ける男に、助手は痺れを切らしかかっていた。相手が早く終わらせようと言ったにも関わらず、何故これ程くどくどと下らない話をするのであろうか。
 男ははっきりと鎧の目を見た。
「自分の力を過信するな。いくら完璧な理論であろうとも、この世に完璧など存在しない。必ず何処かに穴がある。」
「穴などありはしません。悔し紛れですか? 博士。貴方の指摘した穴はきちんとふさがれている事をさっきお教えしたでしょう。」
「そう思うなら周りをよく見たまえ。」
「──?」
 言われて見回す。神殿の内部に変化はみられないが、問題は外だった。
 今までそこにあったはずの景色が見えない。水の加護を受け、それに対し感謝の気持ちを持つこの国の信仰により、祭壇からは海が見渡せるはずである。なのにその海が全く見えないばかりか、景色全体が灰色に霞んでおり、輪郭すら認識できなかった。
「一体、何を……!?」
「空間が切り離されたのだ。この神殿だけ、な。事によると神殿の周りをも巻き込んでいるかも知れないが、いずれにせよ既に君はここから出ることはまかりならん。」
「な……どうやってそんな事が!?」
 多少の動揺を示す鎧に対し、男は全く冷静さを失っていない。それだけで精神的に立場が逆転しつつあった。
「波蝕の鎧を作ったのは私だ。そして鎧は兵器。そんなものを無防備に神殿に飾っておくと思ったのかね? きちんとセキュリティシステムをつけてあったのだよ。ただし、魔力を持つものが対象だった。まさかサーヴァントがこのように使うとは思ってもみなかったからな。恐らく鎧は装着せずに持ち出したのだろう。
 しかしアビスと同化した今の君は多数の魔力を吸収し、他のランドロードと変わりない。神殿に戻ってくれて幸いだった。君は自ら火中に飛び込んだのだ。」
 助手の、鎧の手が震えた。全てに於いて完璧だと思われた計画の一部にあっさりと穴を開けられたのだ。
「さて、君に取り込まれる間に三つの呪詛をかけよう。一つは波蝕の鎧に。一つはアビスに。そして一つは君自身に。──いや、君と私と愚かなこの世界の象徴に。」
「他に何を企んでいるのか知らんが、そこまでだ!!」
 男の言葉に鎧が腕を振り上げた。頭を叩き潰そうというのだろう。しかし男はそれに対してよけようとする等全ての動きに対する素振りを見せる様子は全く無かった。むしろ鎧の放つ攻撃は、全てその身で受け止めてみせる、といった様子だ。
「波蝕の鎧そのものに施した仕掛けがある。君は言ったな。私に野心有りと。確かにそういった考えがあったことは認めるよ。だからこんなシステムをつけておいたのだ。」
 言いながら男は目の前で手の平を合わせ、二言三言呟いてからゆっくりと離した。
 右手と左手の間に緑色に光る文字が引き出される。と同時に、波蝕の鎧の胴にも同じ様な文字が浮かび上がった。
 それに伴い、鎧が振り下ろそうとした手が男の直前でぴたりと止まった。まるで何かに阻まれるようにそれ以上手を前に出す事が出来ない。
「──!? ……今度は何を…ッ!?」
「動けないだろう。鎧そのものの動きを止めてしまっているからな。それだけじゃない、魔力も外へ放出できないはずだ。
 今後波蝕の鎧は君の枷となる。君の力を増幅して外へ出す機能は、反転されて君の力を封じる。外からのエネルギー供給は波蝕の鎧を外さない限り期待できない。──もしくは何らかの原因で機能が再び反転しない限りはね。」
「ぐ……ゥ……ッ」
 鎧が抵抗の素振りを見せる。しかし男は全く構わずに、次の法術を組み立てていく。
「今の君に、私の術を打ち破る術はない。例え膨大な魔力を持っていて、強力な式を組み立てられたとしても、君は魔力の使い方そのものを知らないのだから。」
「うおおおぉォォォッ!!」
 予測もしない事態に、鎧が吼えた。その咆哮は神殿内いっぱいに響いたが、外へ漏れる事は決して無かった。
「それが波蝕の鎧に対する『一つ目の呪い』だ。次はアビス。アビスはそれ自体から特定の周波を出しているのは君も知っている通りだが──」
 男の足下に敷かれた魔法陣の輝きが徐々に増す。例えアビスや波蝕の鎧の力を封じたところで、その男を吸収する為の魔法陣はそれ以前に発動されているので、助手が望まねば解除される事はあり得ない。
 男は手早く二つ目の魔法を完成させた。先程生み出した文字の上に、新しい輝きが上書きされていく。
「これはその特定の周波数に反応して発動する。即ち波蝕の鎧が外された時に発動し、アビスを隔離するのだ。アビスの周波数を拾い、アビス内部にあるエネルギーを利用して更に深い異次元へと吹き飛ばす。」
 助手はもう何も答えなかった。
 その様子に頷いた男は、更に輝きを増した魔法陣の上で次の法術の詠唱に入った。
「そろそろだな。最後の呪詛をかけようか。最後の呪詛は更に3つに分けよう。君が出来るだけ長い間眠っていられるように。」
 そう言う男の周りに、三つの光球が浮かんだ。その光球は徐々に形を変えつつ、男と鎧を包んでいく。
「キ……サ…マ……!!」
 憎悪の視線を投げ掛けながら、鎧が呻いた。
「私をただの研究者という認識しかしなかった君の負けだ。願望は叶わない。──もう君の意識もだいぶなくなってきたようだな。」
 同時に、男も完全に吸収されてしまう時が近付いていた。徐々に意識が薄れていく。
「願わくば、次に生まれる世界にかような悲劇が繰り返されぬよう──」
 男はゆっくりと目を閉じる。
 一方で鎧は未だ尚必死の抵抗を試みていた。重ねられていく封印から逃れようとして伸ばされた手は、あたかも祭壇に安置された三つの球体──『神体』に救いを求めている様に見える。
 光が辺り一面を包み込む。
「頼んだぞ……」
 男の最期の声──娘に呼びかけるその声は、鎧の断末魔によってかき消された。
 そして後には、静寂。
 生物の気配が全く無い、ただ静寂だけが残った。


 深い海の底から引き上げられるような感覚だった。ねっとりと、まとわりつく様な重い海水が周りから徐々に取り除かれ、開放されていくような、そんな感覚。
 ナッシュはゆっくりと目を開けた。見えるのは天井。しかしどこかで見たような造りである。
 それを何処で見たのか、という事を思い出していくにつれ、ゆっくりと今までの記憶も戻ってきた。
 所謂天国にしてはリアル過ぎる空間だ。ここは天井の感じから察するに、荷物を置いたあの消えた街の宿所だと推測できる。
 しかし場所が把握できるのは良いが、これまでの経緯が判らない。何故今ここに寝ているのだろう?
 確かあの時──と考えを巡らせると同時におもむろに身体を起こすと、それにつられてベッドの右側で、ごそごそと人の動く気配がした。
 椅子に腰掛け、ナッシュの丁度腰の辺りでベッドにもたれかかるように突っ伏していたらしい。髪をかき上げたその顔を見て、ナッシュはわずかに驚きを覚えた。
「……モリガン?」
「天国や地獄といったところじゃなくて残念だったわね。具合はどう?」
 くすくすと皮肉っぽく笑いながらモリガンは椅子の向きを変え、ナッシュと向き合う形にした。
「自分の運の良さに感謝なさいな、ナッシュ。もう少し遅ければ確実に精神を喰われて、肉体は彼の操り人形だったわよ。」
 ナッシュが眉をひそめる。だがそれは嫌悪の念というよりはむしろ少し困った様子だった。
「──状況が判らないんだが……あれからどれくらい経ってる?」
「半日よ。今は翌日の夕方。」
 そう答えながらモリガンは少し顔を傾け、ナッシュを覗き込むようにして続けた。
「──ケーブルのミュータントパワーの一つに、精神感応力があったらしいの。
 彼は人型に襲われたと言っていた。恐らくその時に、人型は彼を乗っ取るきっかけを作ったんでしょうね。ケーブルが私達と会った時には既に何かの侵入を許していて、最終的には操られた。そしてその何かは彼の力を利用して私達の精神を別空間、いわゆる精神世界へと引き込んだ──要するに、『何者か』がケーブルを通して私達も喰おうとしたのね。」
「……。」
 ナッシュは起こった事を記憶にある限り思い出そうとした。
 あの時──ケーブルが放った光に飛ばされた時に、その精神世界とやらに引き込まれた、という事らしい。とすると、あそこで起こった出来事は夢や幻覚に類するものなのであろうか。それにしては非常に現実的。幻覚であのような痛みまで再現されるとは。
 そしてあのままあそこに居続けたなら、その何者かに喰われてしまっていた、という事なのだろう。
「とにかく……君に助けられた訳だな。」
「礼なら私じゃなくリリスに言うと良いわ。」
「リリスに?」
 ナッシュが不思議そうに顔を上げると、モリガンは肩をすくめた。
「そう、貴方がリリスを置いて行けといった判断が偶然にも功を奏したという訳。あの時、私も引き込まれていたのよ。貴方ほど深くは無かったけど。で、リリスが私達の危機を感知して、取り込まれかかっていた私を引っ張り出した後、更に深いところにいた貴方を二人で引き離したの。撃たれる直前で良かったわ。」
「直前──? 確かに頭に衝撃があったが……大体あれはその操られたケーブルが見せた幻覚じゃないのか。」
「貴方って見かけによらず順応が早い割には、ヘンなところで常識に縛られるのね。」
 ふとモリガンが手を伸ばし、ナッシュの身体、ちょうど鳩尾の辺りに触れた。
「──つッ」
 痛みが走った。ケーブルに刺されたところだ。見ると、みみず腫れが大きくなったような形で不自然に赤く腫れている。まるで傷跡がうっ血して浮かび上がってきたかのようである。
「ご覧の通り、例え精神世界で起こったことでも肉体に影響を及ぼすのよ。精神世界で本当に頭を撃ち抜かれてたら、貴方が今こうして起き上がる事はあり得ない。」
「じゃあ、あの衝撃は……」
「無理に精神リンクを切ったからよ。普通ならそれだけでも精神に与えるダメージは大きいのに、こうしてあっさり起き上がる辺りは呆れたもンだわ。」
 モリガンはため息混じりに呟いた。
 そうやって言われてしまうと、そういうものらしいと納得するしかない。何しろ門外漢。体験する事でさえ初めてなのだ。
「ケーブルは?」
「隣の部屋で寝てるわ。私達より深く取り込まれたから、当分目を覚まさないと思う。それに体力も相当消耗しているみたいだし。まぁでも彼は頑丈ね。命に別状はなさそうよ。」
「そうか……。」
 ナッシュは口に手を当て、考える目つきになった。大方の状況は判ったが、もう一つ気になる事がある。
 その時、
「随分内容の濃いお話だったわね。」
 モリガンがさらりと言った。
「……!」
 ナッシュが驚いて顔を上げると、目が合ったモリガンは少し見下すような視線で微笑んだ。
「起きる間際に見ている夢というのは、表層意識の一番外側に出てきているものだから。簡単に見えるのよ。」
 今真横で突っ伏していたのはその為だったらしい。今ナッシュが見ていたイメージをモリガンも共有していたのだ。
「私も目を覚ます間際に一瞬は垣間見たんだけど……さっきも言った様にそれ程深く取り込まれた訳じゃなかったからほんの一部しか見られなかったのよ。だから貴方が同じイメージを見ているとわかった時にちょっと覗かせてもらったわ。ひょっとするとケーブルも今頃同じ夢を、もっと詳細に見ているかも知れないわね。」
 モリガンの説明にナッシュは軽くため息をついた。
「──夢にしてはあまりにもリアル過ぎる……が、都合も良過ぎる。今見た夢が、もし過去に実際に起こった現実のものとしたら、波蝕の鎧やアビスが何であるかはもう明らかだ。」
「納得いかないって感じね。前に言ったでしょう。人間の関わったものにはどんな形であれ思念が残るって。貴方の今の夢は、常にあの研究者という男の視点で物を見ていた。あの男は波蝕の鎧の管理者だったし、最後に取り込まれているから思念が残っていなかった訳が無いわ。だから私は事実だと思うわよ。」
「だとすると……」
 ナッシュは自らの両手に視線を落とし、再び考えを巡らせた。得られた情報を全て鵜呑みにする訳には行かないが、それにしても少し整理が必要だ。
「波蝕の鎧とアビスは昔の文明の遺産であり、それが今正に目覚めようとしている訳か。──それにしてもとんでもない物を作ってくれたものだ。」
「素晴らしいじゃない。本来ならその力を増強させて外へ放つはずの波蝕の鎧に包まれて、身動きが取れずに今はエネルギーを蓄えるだけの敵。人間の欲に支配され、深淵の淵で、全てを無に還すべく力を蓄えて孵化を待つ『アビス』──。」
 その台詞を聞きながら、ナッシュは無意識に呟いた。
「“……深淵もまた、お前を覗き込む”──か。」
「何?」
 モリガンがその言葉を耳ざとく聞きつけ、不思議そうな視線を投げかける。しかしナッシュは本当に無意識で呟いたらしく、「何でもない」というゼスチュアを返した。
「……起き抜けで小難しい事考えないのよ、ナッシュ。もし起き上がれるなら、食堂にいらっしゃいな。皆お待ちかねよ。」
「皆?」
「来れば判るわ。もう少し寝たいならそれでも構わないけど?」
「いや、行こう。」
 言いながら横に置かれていた眼鏡に手を伸ばし、それからふと思い出したようにその手を止めた。
「しかし……何故リリスは俺を助けようと思ったんだろうな。」
「彼女に直接聞いてみなさいよ。あの子はあの子なりの考えがあるンでしょ。──でもね。」
 モリガンは立ち上がりながら続けた。
「まだ明らかに続きがあるってわかっている物語を、途中で放棄したりする? それが面白い物語であるなら尚更。」
 ナッシュは答えなかった。非常に判りやすい例えではある。しかしそれでリリスとモリガンの心境を100%理解できるとは限るまい。
 モリガンはドアの傍まで行き、ノブに手をかけながら振り向いた。
「そういう点においては、今のところ貴方の思惑通りよ。それは認めてあげる。」
 意味ありげな表情を残して部屋から出て行く。その後しばらくの間、ナッシュはドアを見つめ続けていた。
 ──思惑、か。
 特に彼女を思い通りに動かそうと企んで行動していた訳ではない。さりとて、何かを期待していなかったといえば嘘になる。事実、ここへ来るまでにもう何度も救われているのだ。
「思惑か……」
 もう一度口に出して呟き、それから起きて着替えようと身体を動かしかけた時、部屋の中に人の気配があることにふと気がついた。
 いつの間にかリリスが、その場でへへ、と笑みを浮かべて立っている。モリガンと一緒には行かなかったらしい。
「どうも君に助けられたらしいな。例を言うよ。」
 ナッシュがそう述べると、リリスは少し照れたような笑みを浮かべ、それから椅子を引き寄せて座り込んだ。
「苦労したんだよ? モリガンもちゃんと歩けないしさ。ガイルは怒ってるし。」
「怒ってる?」
「そぅ。私が色々やったから。」
「……色々ね。」
 雰囲気で何となく想像がつく。待っている間に好き放題やったのだろう。これは後で何を言われるかわかったものではない。
「で、何か用が?」
「一つナッシュに忠告しといてあげようと思って。」
 リリスはちょっと居住まいを正した。改めて、という感じだ。
「だいぶさ、モリガンに気を許しちゃってるみたいだけど。モリガンは──あたしもそうだけど、サキュバスだから。気がついたらホントに天国、なんて事もあるかも知れないよ? モリガンだってきっと今までに経験のないことが続いているから、今はある意味舞い上がっちゃってるんだと思うの。でも我に返った時、飽きちゃった時、そのまま無事に『さよなら』で済むとは限らないよ。」
 覗きこむように言う。その辺の仕種はモリガンと変わらない。
「──ふム。しかし何故そんな忠告を?」
 眼鏡をかけながら更に問い返した。精神空間から助けた事といい、今回といい、リリスがそれだけナッシュを気遣う理由がよく理解できない。
「理由はさっきモリガンが言ってたことと殆どおんなじ。私はナッシュもガイルもみーんな好きだから。まだ楽しい事を全部教えてもらってないから。あたしの知らない間にモリガンの気まぐれでみんないなくなっちゃったら寂しいもの。
 気に入った人と一つになれるのは嬉しいけど、一つになっちゃったら面白くない事もあるよね?」
 とても魔族とは思えない綺麗な瞳で、リリスは語った。リリスもモリガンも根本的な部分では殆ど変わりないように思える。そもそも一人なのだから当たり前の話かもしれない。しかしこの二人は、『自分の楽しみ』ということに対する考え方が微妙に異なっている感じだ。
「成程。ご忠告、痛み入る。頭の片隅に置いておくとしよう。」
 そう答えて苦笑いしながら枕元の腕時計を手に取った。色んな意味で、随分と気に入られたものだ。
 その時、頭の中に一つ閃くものがあり、再びリリスの方を振り返った。一度聞いてみたいと思っていた疑問があった事を思い出したのだ。
 慎重に言葉を選んでから、ゆっくりと切り出す。
「一つ聞きたい。単に興味本位だから答えてくれなくても構わないが。──君はモリガンに取って代わりたいとは思わないのか?」
 リリスの目が微かに揺れた。一瞬ためらい、それから思い切って口を開いた。
「思うよ。いつだって思ってるよ。──でも出来ないもの。」
 その一言でふつりと言葉が切れた。沈黙が流れたがナッシュは何も言わず、ただ話すのを待った。彼女がこれ以上話したくなければそれでもいい。
 しかしリリスは再び話し始めた。
「本当なら『私』はモリガン自身だったはずだから。今のモリガンが私だったとしてもおかしくないはずだもの。だからいつも外に出て、色んなことを楽しみたい。もっともっと楽しい事を知ってみたい。
 でも出来ないの。無理にやったら私自身が消えちゃうかもしれない。そう思うと別に今のままでもそれ程不自由してないし。楽しいし。──何よりももうあんなところに居たくないから。あんな暗くて寂しいところに戻りたくない──」
 吐き出すように、一気にぶちまけた。軽い興奮状態になってしまったらしく、言葉が切れた後も口の端がかすかに動き、まだ何かを喋り続けている様子を伺わせた。
 この辺でやめておく方が無難か、とナッシュは一瞬考えたが、生じた疑問は留まらなかった。リリスが少し落ち着いたところを見計らって、静かに聞く。
「──でも今、君はこうして自由にしている訳だ。そのままで居続ける事は出来ないのか?」
「これは『かりそめの身体』だから、長時間は離れていられないの。それにこうやって外に出る時だって、モリガンが出さないようにしちゃったら出られない。」
 リリスは少し涙目になっていた。話したくなければ話さなくても良いとは告げたが、半ば無理に話させたようなものだ。
「済まなかった。無理をさせてしまったようだ。」
 ナッシュがそういうと、リリスはちょっと驚いたような顔になった。それはナッシュの台詞に対してではなく、突然目の前に人が現れてびっくりした、という感じに近い。
「ん…良いよ。別に隠す事じゃないし。モリガンも一応知ってるし。」
 ふぅ、と大きく息を吐き、両手で顔をごしごしこする。そして手を離したその顔は、普段の能天気さを取り戻した表情になっていた。
「ねぇナッシュ、一つお願いがあるの。」
「──何だ。」
 ご期待に添えられるとは到底思えないが、一応聞いてみるだけ聞いてみようと顔を向ける。リリスはすっかり落ち着きを取り戻したようだ。
「モリガンを良く見てて欲しいの。なんかね、最近変なの。特にアビスの存在を知ってから。上手く言えないけれど、嫌な予感がするのよ。いざって時に私だけじゃどうしようもないかも知れない。さっきも言ったように、主導権は私じゃないから。
 だからね、ナッシュ。モリガンが消えちゃうような行動に出た時は、何とかして止めて欲しいの。」
「所謂自殺行為みたいなものか──?」
「そう。例えば自らアビスに飛び込んで行っちゃうとか。アビスは生きているモノを喰うんでしょう。自分に取り込むつもりが逆に喰われちゃうかも。」
「確かにその通りだが──その判断は誰がする? 彼女の能力を全て知っている訳ではないし、他人には無茶に見える行動でも、彼女にとっては何でもないかも知れない。」
「判断はナッシュに任せるよ。直感でいいの。見ていて何か『やばい』と感じたら止めて。
 きっとモリガンはね、楽しい事の延長線上に死があったとしても別にこだわらないと思うんだけど、私はまだ他にもっと楽しい事があるかもしれないって思っちゃうの。でもモリガンが消えちゃうと私も消えちゃうから……。
 ──だから、お願い。」
「俺一人じゃ、どうにもならんかも知れんぞ。」
「うん。でも気にはかけていて。」
 リリスは真剣だった。人間やダークストーカーといった区別は関係ないらしい。とにかく今その頼み事を出来る者が目の前にいる、という事が重要なようだ。
 ナッシュはふっと肩の力を抜いた。
「──判った。注意して見ておくことにしよう。」
「ありがと!」
 リリスは顔をほころばせた。そして嬉しそうに椅子から立ち上がると、「先に行ってるね」とだけ言い残して部屋から出て行ってしまった。その様子からも、先の忠告よりも、後のお願いの方が重要であったように感じる。
 モリガンに入れ込まないようにしろ、といっておきながら、今度は気をつけてみていてくれというお願いをするとはいささか矛盾を感じずにはいられない。しかも魔界を統治できるような立場にいる者に対し、しがない人間に一体何が出来るというのだろう。
「──まぁ、何も起こらない場合もあるしな。」
 ナッシュは自分を無理やり納得すべくそう呟くと、勢い良く掛け布団を跳ね除けてベッドから降りた。
 頭が少々ふらついたのは、精神世界が云々というよりはむしろ寝過ぎによるもののようである。他には特に異常は見られない。
 それを確認すると、壁にかけられていた自分の服を手に取り、手早く着替えて部屋を後にした。

 


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