新しい朝が来た。希望の朝だ。喜びに胸を広げ大空なんか仰いじゃうような朝だ。
 そんなどうでもいいようなことを考えながら三上友美はそのドアをゆっくり開けた。
「・・・敵機確認」
 視線の先で熟睡している山名春彦を見ながら口の中で呟き、友美はそろそろと部屋に入る。
「ん・・・う・・・」
 春彦はなにやら寝言をもらしながら寝返りを打った。仰向けに寝ていた体が回転しうつぶせになる。
「!」
 不意に友美の目が輝いた。もっていたまな板をその場に置いて手ぶらで春彦に近づく。
「予定変更・・・」
 呟く顔が笑みで緩む。俯せで寝ている春彦。その珍しいシチュエーションに打撃的起床士3段の独創性が激しく喚起させられたのである。
 友美は規則正しい寝息をたてる春彦の傍らに立ち深呼吸した。寝ている春彦をまたぐようにベッドに登り彼の両手首をそっと掴む。
 そして・・・
「とぅ!」
 軽い気合いの声と共に友美は春彦の足を自分の足で絡み取り同時に両腕をホールド、そのまま後ろに倒れ込むようにして春彦を全身で持ち上げる。
「ロメロ・スペシャルッ!」
 そう、それはロメロ・スペシャル!別名吊り天井固めとも言われるプロレス界でも1・2を争うアピール度を誇る関節技である。
「な、なんだ!?」
 肘・膝・腰・手首とあらゆる間接を締め上げられた春彦は一気に目を覚ましておもわず身じろぎした。
 してしまった。
「あ!動かないで!」
「な、何だぁ!?」
 悲鳴が交錯する。そもそも体重差で劣る(当然だ)友美にとって春彦を持ち上げること自体かなり無理をしているのだ。その春彦に暴れられたら・・・
  どすん。
 2人はもんどり打ってベッドの下に転げ落ちた。
「あはは・・・おはよ」
「・・・おまえなぁ」
 絡まるようにして床に転がったまま春彦は溜息をついた。
 

「ほらほら、今日は一限あるんだから!さかさか食べる!」
「うむ・・・」
 既に食べ終わっている友美にせかされて春彦は頷きながら漬け物を囓る。
「ん?」
 味噌汁をすすった手が止まった。
「味噌を変えたか?」
「う、うん・・・味、変?」
 ちょっと不安そうな上目遣いに春彦は微笑みながら首を振る。
「いや、旨い」
 そのまま食事に没頭する姿を、友美は頬杖をついて眺める。いつもおいしそうに食べてくれる。努力すればするだけ評価してくれる。
 自分の料理が上達したのは全部この朴念仁のおかげ、か。
「ごちそうさま・・・どうした?」
 春彦の不審そうな声に友美は我に返った。
「あ、え?いやっはははは・・・えっと、さっさと準備して大学行こ!冬花さん、洗いも・・・」
 反射的に叫んだ言葉が凍り付く。
 視線を向けたキッチンには誰もいない。居るはずがない。
「何を朝からボケ倒している?さっさと洗うぞ」
 春彦は肩を竦めて自分の食器を洗い場に持っていく。
「ご、ゴメン春彦・・・」
 ぼそぼそと呟いて友美も後に続く。
  
 冬花が居なくなってから、既に一ヶ月が経っていた。


「つまり民法とは・・・そこ、聞いてるのかッ!」
 広い教室に甲高い怒声が響きわたる。
「え!?は、はい!」
 犬川教授に指差され気の弱そうな学生はおろおろと頭を下げた。ストレートの黒髪に大きな眼鏡。いかにも気の弱そうな女の子だ。おそらくは一年生だろう。
「まったく最近の学生は何をしに大学に来て居るんだ!?ぺちゃくちゃぺちゃくちゃ五月蠅いことこの上ない!私の講義で私語など許されると思っているのか!?」
「ちが・・・聞こえなかった部分を教えて貰って・・・」
 涙目で弱々しく反論する声に犬川の叫び声がより高くなる。学生の間で「犬野郎」と揶揄される由来である。
「私のせいにする気か!?私は完璧だ!文句が付けられるなら付けて見ろ!」
 目の前で叫ばれて女の子はおろおろと辺りを見回すが、同じく一年生であろう友達は一緒におろおろするばかりだ。
 その時、
「冗長」
 静かだがよく通る声が最後列からかかった。
「何!?」
「強調すべき部分が曖昧、すぐ脱線する上におもしろくもない、同じ話を何度もする、教科書の指定もレジュメもない上に説明がいい加減、声が高いのは仕方ないとしてもヒステリーで叫び散らされては耳に不愉快。文句の付けようなど、幾らでもあると思うがな」
 無表情に言い連ねる春彦の横で友美が頭を抱えている。去年に引き続き、この授業の単位は貰えないだろう。
「くっ・・・また貴様か山名春彦!」
「文句を付けて見ろと言ったのは、貴方の方だと思ったがな犬川教授」
 悠然と春彦は立ち上がった。心配そうに見上げる友美に軽く頷いてみせる。
「貴様は!毎回毎回教授に向かって生意気な!何様のつもりだ!」
「教える側と教えられる側・・・師弟の間に立場の差があるのは当然だ。だが、尊敬されたいのなら、尊敬されるような態度をとるべきではないのか?無条件に平伏させようなどと、おこがましいにも程がある」
 容赦ない春彦の言葉に犬川の顔がどす黒く染まる。
「き・・・貴様・・・」
「少なくともこの教室に、貴方を尊敬しようと言うものはいないようにみえるがな」
「!」
 反射的に辺りを見回した犬川に突き刺さる学生達の敵意の目・目・目。
「き、貴様らわかってるのか!?単位がいらないのか!?」
 叫び散らすが無言で見つめ返す顔は少しも揺るがない。
「はっはっは。いやぁ、実に無様だなぁ犬川教授」
 そんな中かかった楽しげな声に犬川はばっと振り返った。
「な・・・貴様・・・」
 大きく見開かれた目の先に女が一人座っている。黒いシャツに黒いスラックス。ショートの髪を揺らして浅野景子はニヤリと笑った。
「なぁ犬川。大人げないんじゃないか?幾ら奥さん・・・」
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
 楽しげな浅野の言葉を犬川の絶叫がかき消す。
「ききききききき貴様、いや・・・あ、あなたは何故それを!?」
「さぁ?ま、いろんな事が耳に入ってくんだよなこれが」
 立ち上がった浅野は青ざめた犬川に歩み寄りその肩をぽんっと叩いた。
「どうする?大人しく前言撤回して逃げた方がいいぜ?」
「・・・犬だけに尻尾を巻いてな」
 ぼそっと付け加えられた春彦の言葉に教室中に笑いの波動が満ちる。
「く、糞っ・・・」
 涙目で呟いて犬川は一目散に教室を飛び出した。
 その後、夕日の海で一人叫ぶ犬川が目撃されたという話だが、真相は定かではない。


「いやー、お前らと一緒にいるとホント退屈しないな」
 ぞろぞろと教室を出ながら浅野はぐいっと春彦と友美の肩を抱き寄せた。
「・・・と、言うより何故おまえがここにいる?」
「ん?図書館に用があってな。欲しい本はもう借りて暇になったからおまえらをからかいに来てやったってわけだ」
 春彦はふうんと頷き淡々と歩を進める。
「相変わらず愛想のない奴だな。一緒に昼御飯でもどうですかマドモアゼル?位は言えないもんかね?」
 両の手のひらを上に向けてやれやれのポーズを取った浅野に春彦は小さな笑みを浮かべた。
「・・・これは失礼したマドモアゼル。よろしければ私と一緒に食事でもいかかがかな?」
 優雅な仕草でひざまずき、浅野の手に軽く口づける。
「ば!ばばばばばば馬鹿野郎っ!いいいいきなりなにしやがっがっがっ!」
「いや、ただの冗談だが・・・なんだか最近防御力が低いな浅野」
「たちの悪い冗談しないっ!」
 体中硬直したままバクバクと叫ぶ浅野を不思議そうに眺める春彦の後頭部を全力延髄斬りで蹴り倒して友美は汗を拭った。
「ったくこいつは・・・」
 呟きながら、ふと思う。
(・・・浅野さん、まさか春彦のことを?)
 こっちも、かなり鈍い。

「うむ・・・」
 曖昧な呟きを発しながら春彦は麺をすする。学食の塩ラーメンを食べ続けて3年間。いい加減飽きも来ている。
「飽きてきているんだったら別のを食べればいいじゃない・・・何だったらあたしがお弁当だって作ってあげるのに」
 酢豚定食を適当につつきながら呟く友美に春彦は肩をすくめた。
「このチープさが良いのだ」
「・・・にしてもよお」
 何気ない会話の間を縫うように浅野は口を開く。
「もう一ヶ月にもなるんだな。冬花が・・・」
 ぴくっとした二人に目を細め、囁くように続ける。
「死んじまってから」
 学生食堂の喧噪に亀裂が入ったようだった。半ば青ざめた顔の友美と相変わらず無表情な春彦を眺めて浅野もまたしゃべらない。
 沈黙の帳を突き破ったのは、やはり春彦だった。
「そうだな」
 静かな笑みに浅野は眉をくいっとあげる。
「悲しいことではあるが時は戻らない。記憶も永遠には続かない。だが、今はまだあいつのことを覚えている。だから・・・それでいい」
「へぇ?」
 対する浅野の答えはやはり疑問符のままだ。
 再び満ちた沈黙を、今度は十二和音の電子音がかき乱した。携帯の着信音だ。本編では出てこなかったが、ちゃんと持っているのだ。
「む・・・少し失礼する」
 春彦は鞄からとりだした携帯をちらりと眺めて席を立った。そのまま学食の外に出る。
「・・・どう思う?」
 その背中を見送って浅野は静かに呟いた。思い出したようにサンドイッチをかじってもみる。
「春彦ですか?平気そう・・・に見えますけど・・・」
 歯切れの悪い答えに浅野はコツコツとテーブルを指で叩いた。
「例えばだ。おまえが死んだとして、あいつがそんなにスッパリと割り切っていられると思うか?あの保護本能の固まりみたいな男が」
「・・・あたしにはわかりませんよ・・・あたしなんかに、春彦の胸のうちがわかるわけないじゃないですか・・・」
 友美は胸の奥にたまった吐息を吐き出すように呟き、テーブルを見つめる。
「あいつのことを崇拝してるうちは決して横には並べねぇぜ?」
 浅野の言葉に含まれた棘に友美はギリッと奥歯を噛みしめた。
「・・・好きと伝えてすら居ない人に言われたくないです」
 同じような顔で黙りこんだ二人の間に嫌な空気が流れる。だが、数十秒の間をおいて浅野は表情をゆるめた。
「そうだな・・・おまえの言うとおりだ・・・」
 自嘲するような呟きに今度は友美が表情をゆるめる。
「いえ、言い過ぎました・・・ごめんなさい」
 女二人、ひとしきり苦笑しあってから窓の外の男を眺める。春彦はなにやら電話を続けており、まだ戻ってくる気配はない。
「オレ達、なんか情けないな」
「・・・このままじゃいけないのはわかってるんですけどね」
 浅野は友美の言葉にほろ苦く笑う。
「なら、行動に出なくちゃな。ほら、なんだっけ?おまえの口癖」
「え・・・ああ」
 友美は微笑みを漏らした。
「三上友美の辞書に敗北と後退の文字無し!・・・元々は春彦のお母さんの口癖なんです」
「・・・何が変わったわけでもないけどな。だが、オレ達に・・・もう逃げ場はないだろ。このまま曖昧に腐っていくわけにはいかないのがわかっちまったんだからもう後は・・・進むしかない」
 一つ頷いて浅野は音もなく立ち上がった。その視線の先で電話が終わったらしい春彦が振り返る。
「だから、オレはオレにできることをする。じゃあな」
 さっさと歩み去った浅野と入れ替わりに春彦は学食の中に入りテーブルへ戻ってきた。
「浅野の奴、どうしたんだ?」
 尋ねてくる春彦に適当な答えを返して友美は胸の奥に一つ、言葉を滑り落とした。

「進むしか、ない・・・か」


「さて、そろそろ夕飯の買い物に行かなくちゃ」
 コントローラーを置いて友美は呟いた。
「そうだな。酒が切れていることだし俺も行こう」
 某黒いゲーム機をかたずけながら言ってくる春彦に頷いて友美は財布をポケットに突っ込んだ。

「・・・もうすっかり暖かくなったわね〜上着はいらなかったかな」
 駅前へ続く道をぶらぶらと歩く。
 夕闇の迫る空から降りてくる風は暖かく、もはや町並みに冬の名残はない。
「そろそろビールがうまくなる。冷凍枝豆はまだあっただろうか・・・」
「えっと、まだ一袋あったと思うけど。この際買っとけば?どーせ浅野さんが来たら二人ですごい量を食べるんだから」
 友美はそっと春彦の横顔を眺める。思えば生まれてからの21年間、ずっとこの男を眺めてきたような気がする。
 崇拝・・・浅野が言ったその言葉は辛辣だった。そして的確だった。
(こんなにそばに居たのに、あたしは春彦を理解しようとしてなかった・・・ただ憧れていただけ。あの頃から一歩も前に進んでない)
「しかしあいつの食い分まで俺が金を払うというのも何か納得が・・・む・・・」
 のんびりとしゃべっていた春彦の言葉が不意にとぎれた。常に無表情なその顔がほんの僅かにゆがむ。
「どうしたの春彦・・・あ」
 尋ねかけたところで友美もそれに気が付いた。
『あの』公園に狂い咲く桜の木々。それは、一ヶ月前の晩そこで消えた少女の見たがっていたもので・・・
「春彦・・・やっぱりまだ冬花さんのこと・・・」
 痛みすら伴ったその言葉に春彦は大きく首を振った。
「大丈夫だ。問題ない」
「そうは見えないよ」
 即答されて少し考える。
「つらくないわけではない。だが、さっきも言っただろう。記憶はまだここにある。だからそれでいい・・・本当につらいのは・・・」
 そこまで言って空を見上げた春彦に友美は不安げな視線を向けた。
「つらいのは・・・なに?」
「それは、秘密だ」
 そういって笑う春彦の顔につらさや苦しみは感じ取れない。一見は。
「だが、そうだな。いい機会だ・・・おまえの部屋に残っている冬花の荷物を整理しておいてくれ。もう・・・潮時だ。めぼしいもの以外は片づけてしまおう」
「・・・いいの?」

 冬花さんが戻ってくるのを待って居るんじゃないの?

「・・・ああ、いいんだ」
 静かに頷いて春彦は再び歩き出した。
 後を追う友美に、その表情は見えない。


「あ、これ・・・」
 友美はあまり多くもない荷物・・・いまや遺品と呼ばれるその品々を片づける手をふと止めた。
「懐かしいなぁ」
 呟いて手に取ったのは、子供用のお料理マニュアルだ。冬花にせがまれて友美は何度となく料理の基礎を彼女に教えたものだった。
 先天的に火というものに弱い冬花は結局大して料理がうまくはならなかったが、その時間はとても・・・
「楽しかったな・・・」
 微笑んで友美はその薄い本を抱きしめた。
「たしか、最初に教えたのは・・・と」
 ふと思いつきページをぱらぱらとめくった友美の手が止まった。
「え・・・何、これ?」
 呆然と呟いて、目当てのページに挟まっていた封筒をそっと手に取る。
 本当はわかっている。その本の持ち主であるあの少女以外に、そこに手紙を残せる者など居はしない。
「友美ちゃんへ・・・?」
 目を大きく見開き封筒に記された懐かしい文字を読み上げる。
「春彦!はる・・・出かけてるんだっけ・・・」
 一つ深呼吸して友美は床に座り直した。姿勢を正し、そっと封筒を開ける。中にはかわいらしい便せんが数枚収まっていた。
『これが友美ちゃんの目に触れているということは、私はもう居なくなった後だと思います』
 震える声を気にしながら友美はその手紙を読み上げる。
『ほんの少し自惚れていいならば、多分これを読んでいるときにはまだ友美ちゃんも春彦さんも私が居なくなったことを気にしていると思います。お二人とも優しすぎるから、ぎくしゃくしてるんじゃないかと思います。
 気にしないでください。忘れられてしまうのは寂しいけれど、本当はずっと一緒に居たいけれど。でも、大好きなあなた達が心からの笑みをなくしてしまうのはもっとつらいんです。
 私はとっても楽しかったから・・・細雪のままで何十年過ごしても足りないくらい楽しかったから・・・だから、無理矢理にでも忘れちゃってください。
 この二ヶ月、私は春彦さんに守ってもらっていました。最初は娘のように・・・そして妹のように。最後は、恋人のように。
 でもね、友美ちゃん。私と春彦さんの関係はごっこですよ?
 もし、私も友美ちゃんのように昔から春彦さんと友達だったなら正々堂々勝負ができたと思うんですけどね。
 でも、仮定は仮定です。
 そして私はこの人生で良かったと思っています。短いごっこだったから・・・だからこそ、本当に楽しかったですよ。
 だから、その締めくくりにこの手紙を書いています。寝起きの悪い私にしては頑張って早起きをして・・・今、友美ちゃんは台所で朝御飯を作ってくれてますね。とってもいいにおい・・・そうだ、この手紙は友美ちゃんに貰ったあの料理の本に入れておきましょう・・・ってこれを読んでるんだからそんなことわかってますよね。すいません・・・』
 友美はカリカリと頭をかく。天然は、結局直ってないらしい。
『ねぇ友美ちゃん。春彦さんはいつだってあなたを・・・あなただけを見てますよ?』
 声が止まる。大きく見開いた目で文字をたどり、堅く唇を噛みしめた。
 丁寧に手紙を折り畳みそっと封筒に戻す。
「冬花さん・・・美春お母さん・・・あたし、できるかな?」
 呟きと共に友美は立ち上がった。
 13年間支えにしてきたその言葉を胸にゆっくりと歩き出す。

「女の子の辞書に、敗北と後退の文字無し・・・やっと意味が分かったよ」


「ただいま」
 抑揚のない声で呟いて春彦は靴を脱いだ。
「ん・・・友美?」
 リビングを見渡し部屋をのぞき込んで首を傾げる。
 その視線がふと止まった。
「置き手紙?」
 春彦は食卓に置かれた小さなメモを手に取った。

『あの公園で待ってます。 ともみ』

 ゆっくり読み返してから春彦は物憂げな視線を窓の外に向けた。開けっ放しの窓からながれる暖かい風に目を伏せる。
 どうやら、このままというわけにはいかないようだ。


 雪月花という言葉がある。四季折々の美しい眺めを表した言葉だ。
 雪の日に春彦は冬花と別れた。静かに舞い降りる白い結晶の中で。
 そして今。舞い降りる桜花を背にして友美が立っている。偶然か故意か、冬花が消えたあの木の下で。
「・・・どうしたんだ?友美」
 静かな声に対して返ってきた答えは春彦の予想外な言葉だった。
「構えて。春彦」
 言うが早いか友美は前傾気味のファイティングポーズを取る。
「は?」
 思わず聞き直してから春彦は慌てて飛び退いた。一瞬前まで頭があった空間を一回転しての裏拳が薙ぎ払う。
「たぁっ!」
「馬鹿!何をするつもりだ!」
 間髪入れずに飛んできたローリングソバットを受け流して叫ぶ恭一郎にかまわず友美は脇を駆け抜け、2メートルほどの距離を取って向き直った。
「おい!」
「はぁああああっ!」
 友美は側転から前転へとつなぎ、その勢いの全てを踵に込めて春彦へと叩き付ける。
「浴びせ蹴り!?」
 構造上手加減の効かない技だ。
「本気か・・・」
 春彦は十字に合わせた腕で重い打撃を受け止め、そのまま一歩後ずさった。軽く腰を落とし右手を腰に引き左手を軽く前に出す。
 友美はニッと笑って全身の筋肉を引き締めた。
『春彦さんが愛したのは、私の中の友美ちゃんですよ。友美ちゃんから貰った明るさ、強さ、そして春彦さんを守る意志・・・』
 脳裏に冬花からの手紙がよぎる。
「いくよっ!」
 一声叫び友美は一気に距離を詰めた。牽制に繰り出した左右のジャブを左手一本で受け流し春彦はその勢いを倍返しにして正拳突きを放つ。
 友美はそれを受けなかった。春彦の打撃は重い。防御しただけでも体重で劣る友美は一気に不利になる。
「ていっっ!」
 繰り出された拳をすり抜けるようにして友美は地に身を投げ出し、地面についた片手を軸に春彦の背後へ回る。
「ぬっ!?」
 春彦は驚愕と悔恨の声を漏らした。その腰に友美の腕がからみつく。
「バックドロップは・・・」
 友美は噛みしめた奥歯から声を漏らした。
「へそで、投げるっっ!」
 そして、美しい弧を描き友美は春彦を背後へと叩き付けた。 
「効くかぁっ!」
 間近に迫った地面を認識しながら春彦は叫び両の手のひらで地面を叩いた。続いて顎を引き締め、両肩と背中から落ちるように受け身を取る。
 ドゴンッ・・・!
 常人ならば気絶しかねない衝撃に、春彦は耐えきった。鈍い音と共にゆるんだ腕を振り払って立ち上がる。
「・・・今のは洒落にならんな」
 いち早く立ち上がっていた友美を睨み春彦は呟く。
「あたしは、強いっ!」
 友美は腹の底から叫んだ。ともすれば消え失せそうになる闘志を無理矢理駆り立てて叫ぶ。
『春彦さんはとても強い人です。とても鋭い人です。でも、強い人はそれだけ脆いんです』 すり足で距離を詰めた友美は低い姿勢から猛烈な乱打を放った。
「覇ッ!」
 春彦はテンポの速いその打撃を数発で見切った。左顔面を狙った拳を手のひらで受け、腕を外側にひねるようにして受け流す。
「きゃっ!?」
 転身掌底外受けで姿勢を崩した友美はがら空きになった胴体への打撃を予想して腹筋を引き締めた。無駄かもしれないがやらないよりましだ。
 だが。
「疾ッ!」
 春彦は滑るように友美の懐に入り込み背中全体を押しつけるように叩き付けた。友美はたまらず吹き飛び尻餅をつく。
「何で正拳じゃないのよ!一発で戦闘不能にできたでしょ!」
 跳ねるように立ち上がり叫ぶ友美に春彦は顔をしかめた。
「そんなことをすれば、深刻な怪我を負うぞ」
「あたしはあんたの荷物じゃないっ!」
 友美は春彦の膝を狙い低空ドロップキックを放った。かわされるや否や両手で逆立ちし頭を蹴り飛ばす。今度は入った。
『友美ちゃんは、支える人になってください。春彦さんは、あなたのほんの少し前で待っています。だから、後は一歩踏み出すだけですよ。いつも友美ちゃんは言っていたでしょう?』
 僅かによろめいた春彦の胴に立ち上がった友美の両掌が押し当てられる。
「!?」
 春彦が目を見開く。
「女だからってなめんじゃないわよ!あたしはあんたに守られるだけじゃない!気遣われるばっかりじゃない!あたしはあんたと一緒に歩いて行くんだ!あたしの辞書に・・・」
『後退の文字はない!』
 ズドンッ!
 火薬のような重い音が友美の足下で弾けた。激しい踏み込みが絶大な反発力となり体のひねりと共に打撃力に変換される。
「紫音双撞掌ッ!」
 ドコンっっっっ!
 肉体がたてるにしては鈍く激しい音が鳴り響く。
「くっ・・・!」
 春彦はよろめいたが吹き飛びはしなかった。とっさに踏みしめた大地からの反発力を同じように打撃力に変えて腹筋でぶつけ相殺したのだ。
『だから友美ちゃん』
 友美の動きは止まらない。神業の防御を前にして一瞬もひるまず、突き出した両の手のひらをグッと握る。
 およそ拳法というものの極意は体捌きと衝撃の制御にある。それを完璧に収得したものは、例えどのような姿勢からでも打撃を放てるのだ。
『どんな方法でもいいですから、一歩を踏み出してください。ファイトですよ、友美ちゃん。そして・・・』
 左腕を後ろに振り上げる。必然的に右半身が前に出る。そして、震脚による打撃力。安定した下半身の動きと芸術的に繊細な上半身の制御。
 それさえあれば、零距離からでも打撃は成立する!
『前へ!』
 脳裏に響く冬花の声に押されるように友美は密着した春彦の脇腹へと縦拳にした右腕を突き立てた。
「正位八極金剛崩拳ッッッッッ!」
 叫び声と共に、無音の衝撃が走った。裁ききれないダメージに初めて春彦の顔が苦痛にゆがむ。友美の攻撃が彼の防御を越えたのだ。
「雄ぉぉぉぉぉぉっっっっ!!!」
 春彦は吠えた。こみ上げた胃液を無理矢理飲みこんで。
 意識するより先に足が動いた。崩れ落ちそうになった右足が軸足となり地を蹴った左足が友美の右脇腹に放たれる。
「きゃっ!?」
 慌てて両腕でガードした友美の体が浮いた。速く、そして重い一撃。
 ヒュッと鋭い呼気が放たれる。本気の春彦に気合いの声はない。音もなく繰り出された右の正拳突きを友美は両手をクロスして受け止めた。
 だが。
「・・・・・・」
 春彦はそこからもう一歩踏み込んだ。突き出した右腕を鋭く回転させ、引いていた右足を前に出し力強い震脚を刻む。
 繰り返そう。零距離からでも打撃は成立する。例え、伸びきった腕ででも。
「竹上流奥許・真右・・・」
 純粋な衝撃が、既に空中にあった友美の体を軽々と吹き飛ばした。視界が回転し、見る見る地面が近づく。衝撃に腕がしびれて受け身も取れそうにない。
 ガシッ・・・
 思わず目を閉じた友美の体を力強い腕が抱きしめた。
「春彦っ!?」
 驚異の瞬発力で吹き飛ぶ体に追いついた春彦が友美を抱きかかえたまま地面に落ちる。ひとしきり転がった二人は桜の木にぶつかって止まった。衝撃に花びらが舞う。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
 沈黙が二人を包んだ。
 ゆっくりとした動きで春彦は手を離しこちらもゆっくりと友美は身を起こす。
「結局勝てなかったなぁ・・・」
 言ってぺろりと舌を出した友美に春彦はガックリと首を落とした。
「おまえなぁ・・・」
 あきれて呟く春彦に友美は微笑みかけた。
「あたし、強いでしょ?春彦と真面目に喧嘩できるくらいに」
 最高の笑みに、春彦は一瞬以上見とれた。
「・・・そうだな。母さんと殴り合ってるかと思ったよ。久しぶりに」
 友美は満足げに頷いて桜を背にして座り直す。
「・・・春彦ってさ、あたしを本気で殴ったのって今のが初めてでしょ?」
「当たり前だ」
 即答する春彦に咎めるような視線を送る。
「それなのよね。それが引っかかってたのよ。だから、これしか思いつかなかったんだよね。あたしが得意なのって格闘技と料理くらいだし」
 春彦は複雑な顔で沈黙する。
「春彦。13年前に約束したでしょ?あたしがあんたを守るって」
「・・・おまえ、破棄したじゃないかあれ」
 春彦にしては珍しいすねたような表情に友美の顔がゆるんだ。あの頃は彼もいろいろな顔を見せてくれていたものだ。
「あたしが破棄したのは春彦があたしを守るって言う約束だけだもんね」
 一瞬笑みを浮かべてから友美は真顔になった。
「あの時にあたしは変わろうってきめたんだよ。でも、本当は何も変わってなかった。春彦に甘えて、強くなった気がしてただけ」
 見上げた空に桜が舞う。体はだるいが、心はその花びらのように軽い。
「でも、浅野さんにせかされたから・・・冬花さんに励まされたから」
「冬花に?」
 春彦は眉をよせて尋ねる。
「うん。冬花さんの残した・・・最後の手紙。だから、今度こそあたしは一歩を踏み出したよ。口先だけじゃなく、今のあたしは後戻りしないよ。まっすぐ、大切なものに手を伸ばせる・・・」
 言葉通り、友美はまっすぐに手を伸ばした。愛する男の顔に。
「大好き」
 言葉と共に友美は春彦の顔を引き寄せ、そっと口づけた。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
 長いキスを終えて、友美は真っ赤な顔で微笑んだ。
「春彦に愛されたいんじゃない。もちろんそれに越したことはないけど、それ以上にあたしが春彦のことを好きなんだもの。春彦を変えるなんてことはできっこないけど・・・あたしが春彦のことを好きなことを、もう誤魔化さない・・・」
 ふと目を閉じて、春彦は天を見上げた。瞼に暖かい光を感じる。柔らかな陽光が、お人好しでいつも人のことばかり考えていた少女の励ましのような気がした。
「俺は、おまえを裏切った」
 静かな言葉に友美は耳を傾ける。
「おまえを捨てて俺は冬花を選んだ。それなのに・・・それなのに今、あいつが居ないことを認めている。あいつが居ないのにつらくない。おれは冬花をも裏切っている。おまえを傷つけてまで一緒にいた冬花をだ。それが・・・何よりもつらい」
 春彦は地面を殴りつけた。
「ずっと俺の事を想い続けてくれたおまえを裏切ってまで選んだ伴侶だぞ!?それを失って、何故こんなに安らかなんだよ!なんでおまえの側に居るんだ!なんで・・・何でおまえのことが好きなんだよ!」
 再度振り下ろされた拳が地面につく前に友美は春彦を抱き寄せた。
 かける言葉は簡単には見つからないけれど。
 抱きしめることならできる。
「・・・春彦。冬花さん、最後になんて言った?」
「・・・ありがとう。それと、楽しかったと」
 しばらくして囁かれた言葉に春彦は静かに答えた。
「あたしへの手紙にも、楽しかったって」
 二人はゆっくりと立ち上がった。
「・・・俺は、過ちを犯した。おまえが好きなままにあいつをも好きになろうとしてしまった。そして、おまえを傷つけた。この上なく・・・」
 吐き出すような言葉に友美は首を振る。
「傷ついたよ。確かに・・・でもね、傷つけたのは私自身。間違っちゃったのはあたしも同じ。春彦よりも自分の身を庇っちゃった裏切り者・・・」
 寄り添った二人に優しく桜が舞い降りる。
「でも、だからこそあたし達は立ち止まっちゃいけないんだと思う!ここで立ち止まったらあたし達の中に生き続けている冬花さんの意志も終わってしまうから!人が生きるって事はそういうことだよ。間違えても、傷ついても、進み続けるかぎり道は続く。進み続ける限り・・・敗北なんて無いよ。私たちの辞書に、敗北と後退は絶対にあっちゃいけない・・・」
 長い沈黙。風と、それに身をゆだねる桜花だけの為の時が流れる。静かに、緩やかに。
「なぁ、友美・・・」
 その静寂を破って春彦は呟いた。
「ここで・・・この場所で再び、誓おうか」
 友美は頷き、そっと春彦の手を握る。
「俺は友美を守る。俺の全てを賭けて、永久に。おまえを悲しませる全てから護る」
「あたしは春彦を護る。あたしのありったけで。ずっと。春彦が迷ったとき、つらいとき、絶対に側にいる」
 二人は同時に空を見上げた。舞い散る桜に今はもう居ない少女の面影を重ねて同時に口を開く。
『そして、冬花のことも忘れない。ずっと一緒にいるというあの約束をここで再び誓う』 どちらからともなく顔を見合わせて微笑み、二人は歩き始めた。
「いよいよこれでこの町から離れ難くなったな・・・」
 春彦の言葉に友美はカラカラと笑う。
「あたしは最初っからそのつもりだけどね。ずっとずっとこの町で春彦と一緒に暮らすって決めてたから」
 踏むと頷いて春彦はポンと手を打った。
「そうだな。式を挙げるときはこの公園でやるか。冬花にも立ち会って貰わねばな」
「し、式!?」
 ストレートな言葉に友美は赤くなった。公園を出たとたん、さっきまでの大胆な発言の全てが恥ずかしくなってくる。
「ああ。何を驚いている?後退の文字はないのだろう?今日からどんどん突き進むから覚悟しておくといいぞ」
 春彦はそう言って友美をバッと抱き上げた。足と背中を両手で抱きかかえるいわゆるお姫様だっこで。
「ちょ、ちょっと!いきなり・・・」
「冬花にもやったことがあってな。そのときも言ったが俺は人の目は気にしない質だ」
 冬花にもという言葉を聞いて友美は覚悟を決めた。
「OK!冬花さんとの勝負はまだ続いてるもんね。冬花さんとの想い出に負けないくらいあたしだってベタベタしてやるんだから!そっちこそ覚悟しなさいよ!?」
「期待しておこう。我が妻よ」
 友美は春彦の首に腕を回してその力強い腕に体をゆだねた。
「期待しといてよ。私の旦那様・・・」

 傷は消えなくとも、記憶がやがて色あせるとしても。
 前に進む限りその道のりは、消して消えない。
 進み続ける事。それこそが、共に生きると言うことなのだ。

 

Ending−B