ある放課後の風景


「あ」
 放課後の図書室。
 思わず声を上げた早坂晶は、持っていた一冊の本を机の上に置くと、自分の右手をしげしげと眺めた。
 人差し指がさっくりと切れ、見る見るうちに赤いものが盛り上がり、するすると流れ落ちる。

「あいたー……」
 呑気に言い放ったところに、担任の澤村が慌てて近寄った。
「早坂君、どうかしたんですか?……あ!」
「あ、ほら澤村先生、見てー」
 さして痛そうな様子も見せずに、晶はあまりに見事な切り口を作ってしまった指を、嬉しそうに澤村に見せた。
「あああ、ひろげないで早坂君!」

 こういう場合、本人よりも見ている方がかなり痛い。澤村はポケットからハンカチを取り出すと、晶の手を取りそれをあてがった。
「大丈夫だよ先生、大袈裟だなあ」
 へらりと晶が笑うのに、澤村が一喝する。
「だーめーでーす。手伝ってもらってこんな怪我をさせたんじゃ、申し訳ないです。保健室に行きましょう」
「えー!?」
「えー、じゃなく!さ、行きますよ」
 この担任はどうにも頑固な時があって、こういう時は晶ですら思うようにいかなくなってしまう。それを良く知っている晶は、仕方なく担任と連れだって保健室に行く事にした。


「手を洗って、そこに座ってて下さい」
 保健室に、校医の櫻井の姿はなかった。今は放課後だから仕方ないかもしれない。
 使用者名簿に名前を書き込む。
「紙で切るとね、うっかりすると、とても深い傷になってしまうんですよ。気をつけないと」
 過去に何度か経験があるであろう澤村は、そう言うと水で濡れた晶の手をそっと拭い、入り口に向かって歩き出した。
「少し待っていて下さいね。逃げちゃだめですよ」
 逃げるなときたもんだ。
 仕方なく、晶はおとなしくその場に座っている事にした。澤村が出て行った保健室でひとりごちる。
「これくらい、たいした事ないんだけどなあ……」
 しかし、言う事を聞かなければ後が大変だという事は分かっている。澤村先生には逆らわないのが得策だ。そのあたりは、晶が一番良く理解しているかもしれない。
 あてがわれたタオルをそっとはずしてみると、じんわりと血が滲んでくる。慌てて晶は再びタオルで押さえつけた。
「待たせましたね、どうぞ」
 間もなく戻ってきた澤村は、手に持っていたカップコーヒーを机に置いた。これを買いにわざわざ出掛けて行ったらしい。あまりの律義さに、晶は内心苦笑した。
「いつも仕事を手伝ってもらって、申し訳ないと思っているんですよ、これでも」
 手当てをしながら、澤村は心底困ったような笑顔を見せる。晶は笑った。
「何言ってるんだよ、気にしてないよ、そんなの」
「早坂君がそんなだから、ついつい頼ってしまうんでしょうね」
「だって、家族でも友達でも先生でもさ、頼まれると嫌って言えない人っているじゃん。多分、それは俺がその人の事好きだからだよ。だから先生も気にする事ないよ」
 そういう訳にはいかない。澤村は思ったが、口には出さなかった。この子は、そういうこちらの気持ちを汲んで言ってくれているのだという事が分かるから。
「先生って言ったってさ、ひとりの人間でしょ?俺とか、他の人にもだけど、そんなに気を遣う事ないんじゃない?俺は先生の事、先生としてしか知らないけど、もっと大雑把にしててもいいと思うけど」
 しかし、それが教師の仕事というものだ。思いながら何気に晶の顔を見詰めると、まっすぐな視線とぶつかった。
 素直な瞳。
 彼と付き合う者にとっては、これが最大の武器になるであろう、ひどく純粋で嘘のない眼差し。
 澤村は軽く溜息をついた。
「それでもね、教師というのは、ある意味人間を捨てなければならないような時もあります。良い感情も悪い感情も、全てをさらけ出す訳には行きませんから……」
 そこまで言って、澤村はハッと我に返った。

(しまった……!)

 教師が生徒に言って良い事ではなかった。
 いくら晶が「気にしない」と言ってくれるような生徒だったとしても、自分は教師で、それは仕事なのだ。そして、先刻の言動はそれを聞いた生徒にとってはあまり良い印象を与えるものではないはずで。
 しかし、目の前の晶はにこにこと笑っていた。
「先生も色々大変みたいだな。大丈夫、俺みたいなのでもよければ、いつでも力になってやれるからさ!……あ、今より成績あげろ、とか言うのは、ちょっと困るけど」
 大マジで言い募る晶に、澤村は持ち前のはんなりとした笑顔を見せた。これが彼自身の武器である事は、本人だけが気付いていない。
「ありがとう、助かります」
 分かっているのかいないのか。澤村は思った。
 この少年は、はじめから「立場」という枷を外してしまっている。それは、教師を教師として見ていない、という事ではなく。もっと深いレベルで。そんな彼は澤村にとって、とても新鮮な存在だった。
 なるほど、あの「生徒会長」がこの子に入れ込むのも分かる気がした。


 指の手当ては、消毒してカットバンを貼るだけで終わった。包帯などという大袈裟なものは晶が嫌がるからだ。
「おお?どうしたぁ?」
 勢い良くドアを開け放つ音と共にそこに現れたのは、校医の櫻井だった。
「何だ早坂、また悪さでもしたのか?」
 冗談まじりに言う櫻井に、慌てて澤村が説明をはじめた。
「ふふん、たまには先生のお手伝いもいいもんだよなあ、早坂。どう?たまには保健室の仕事も手伝ってくか?良く使用してくれる事だしな」
 にやりと笑う櫻井に、晶は勢い良く首を振った。
「パスパス!何やらされるか分かったもんじゃないもんな」
「ひっでえの」
 晶は元気良く立ち上がると、澤村を見た。
「先生、早く続きやっちゃおうよ」
「ああ、いえ、もうあらかた片付きましたからね、今日は帰っていいですよ。ありがとう」
 そう?と首をかしげると、晶は「コーヒーご馳走様」とひとこと言い残して、保健室を飛び出して行った。本当に、いつも元気が良い。
 その姿が昇降口から校門へと駆け抜けるに至るまでに、さしたる時間もなかった。
「どうしました、澤村先生?」
 それを見送っていた澤村に、櫻井が興味深そうに声をかける。この校医は、見かけによらず人の心の動きを読むのに長けている。澤村の表情に、何かを読み取ったようだった。
「いえ……早坂君は、どうにも……不思議な子ですね」
 その存在に戸惑うかのように澤村が言うのに、櫻井は全てを理解しているような微笑を見せた。
「先生も、うかうかしていると捕まりますよ。それとももう遅いかな?あれはあいつ独特の毒のようなモンですから」
「毒……ですか」
 麻薬ですよ、と櫻井が言うのは聞こえないふりをした。
 本当に不思議な子だ。まさか生徒相手にうっかり本心を見せてしまうなどとは思っていなかった。
 本心にも良いと悪いがあって、良い意味での本心ならいくらでも見せて良いとは思っているが、人には見せてはいけないものもある。教師と生徒という立場であるなら、その辺りは更に微妙になってくる訳で。
 しかし、彼と付き合っていると、いずれ全てをさらけ出してしまうのも時間の問題なのではないかと思えてくる。
 悪い気はしないが、やはりまずいだろう。
「いずれ、色々な事が割とどうでも良くなってきますよ。あの子の傍にいるとね」
 櫻井の台詞を、笑って受け流して良いものかどうか迷った。


 実のところ、今の本心を言ってしまうなら、あの生徒、早坂晶とあくまで一線を引いた付き合い方しか出来ないこの立場が、少しだけ淋しい。
 けれど、夕暮れの中を駆けて行った彼の後ろ姿を思い返すと、いずれ、櫻井が言うように「どうでも良くなる」時が来てしまうのではないかと、そんな予感が一瞬、澤村の胸中をかすめていった。


                                    FIN.
 

 なんだかなあ(笑)。我ながら変なもの書いた気がします。
 まだまだ澤村せんせにはまっとうな道にいて欲しくてこんなノリになってしまいました。なら書くなってか;;
 でもるっか、教師x生徒にはめっぽう弱かったりします。今回はまあ、師弟間の心の交流(どこが)ってトコで!
 次は松岡x晶できるかな?

 
校門    図書室    2年A組