ランディの背の籠(ランディには、轡も鞍も鐙も着いていなかった為)に揺られ、腕にはゼフェルを抱き、肩にはマルセルを止まらせアンジェリークは森の中を進んでいきました。





あれから直ぐ、ルヴァはアンジェリークに荷造りをさせると、馬小屋へと行きました。

そこでアンジェリークが引き合わされたのは、立派な馬と可愛い猫と小鳥。

彼等は、アンジェリークを見ると寄ってきました。

「なんだよ、おっさん‥‥娘を売る気になったのかよ?」

「ゼフェルッッ!」

「いてっ! ‥‥なにすんだよ、マルセルッ」

小鳥に頭の天辺の毛を毟られた猫が抗議します。

「言い方ってもんがあるでしょっ!」

「うっせーなっ! どう言ったって同じじゃねーか」

「同じじゃないよっ」

小鳥はぱたぱたと羽ばたき、アンジェリークの肩へと止まりました。

「こんにちは、僕、マルセル‥‥話は聞いた?」

「え‥ええ」

アンジェリークは、驚いていました。

無理もありません。動物が人間と同じ言葉を話しているのです。

けれど。

「お父様を助けてくださって、本当にありがとうございました」

そんな気持ちは少しも顔に出さずに、深々と動物達に頭を下げたのです。

アンジェリークにとって家族はとても大切なもの。その大切なものを守って、家まで送り届けてくれた者達。 例え、姿形がどうであっても感謝の心は変わりません。





そんなアンジェリークの態度に驚いたのは動物たちの方でした。

間違いなく悲鳴をあげると思っていたのです。

「‥‥根性座ってんじゃねーか。気にいったぜ」

ゼフェルがにやっと笑いました。

「‥‥えらいよ、君は」

感心したようにランディが呟きました。





そうして一行は、旅立ちました。









道はどんどん細くなり、森はどんどん深くなります。

アンジェリークは心細さで一杯でした。

もちろん、父親を恨む気などは毛頭ありません。それでも、これからの自分の未来が何処へ続いているのかまったく判らないというのはとても不安でした。

けれども、それを顔に出さないように必死でした。

案内の動物達は、時々心配げに顔を見上げます。乱暴そうだったゼフェルもちらちらと気にしています。

そんな彼等達を更に心配させるような事は出来ません。

ただ、その顔は青白く強ばり、服から出ている皮膚は蒼くそそけだっていました。アンジェリークは、必死で意識を保とうと努力します。

そして‥‥‥。





「あぁ、お帰りなさい」

どのくらい歩いたのでしょうか?

身体は冷えきり、表に出ている皮膚感覚は疾うに無くなった頃。

その目の前に山の中とは思えない程の立派な門が見えました。

それをくぐり、玄関のドアをくぐった時。

目の前に現れた影。

それらが父親が言っていた通りに生き物の姿をしていない事を見て取ったアンジェリークの意識は。





ぷつり。





知らされていたとはいえ、実際その目で見た驚きと身体の疲れも相まって、あっさりと闇に手渡されてしまいました。











‥‥遠くからぱちぱちと木の燃える音がします。

ゆっくりとアンジェリークの意識は、戻ってきました。目を開けば、そこに見えるのは、クリーム色のレースの天蓋と豪華な装飾を施した高い天井。

アンジェリークは、何故自分がこんなところにいるのか、暫く思い出せませんでした。

「‥‥目が覚めたようですね」

ぼんやりしていると、優しげな声がかかりました。その声の主に寝たまま視線を向けました。その瞬間、声にならない声を押し殺します。

なぜならその声の主は、どう見ても人間ではありません。

明々と蝋燭をともした燭台。

それが話し掛けてきたのです。

「‥‥は、はい‥‥御心配をおかけしました」

アンジェリークの脳裏には、父親の言ってた事が蘇ってきてました。ですから、恐れる必要はない筈でしたが、人間そうそうこう言った事にあっさり納得は出来ないようです。口から出る言葉が僅かに震えます。

そんな様子を見て取った燭台は苦笑しました。

「私は、リュミエールと申します。この館の執事をしております。宜しく御見知りおき下さい」

「あ…私は、アンジェリークと申します。この度は父をお助け頂きありがとうございました」

丁寧な挨拶に少女は慌てて起き上がり、そのまま頭をシーツにに擦り付けました。

「いいえ、当たり前の事をしただけですので。‥‥そうそう、暖かいスープが用意出来てるのですよ。今、持って参りますね。寒い中、さぞかし身体が冷えた事でしょうし」

恐縮する少女ににっこり微笑み、リュミエールは部屋を出てゆきました。







独り残されたアンジェリークは、そぉっと辺りを見回しました。そこはとても広い部屋。

村一番の裕福さで知られる領主の館ですら、この部屋に及ぶものはありませんでした。

手間暇をかけて作られた調度品の数々。それは、豪華ではありましたが決して品が悪くなく、極上の品である事は、少女の目でも見て取れます。

寝台から起き上がり、色々な家具に近寄って見てみます。それは磨き込まれており、手入れの良さを伺わせました。

「素晴らしいわ‥‥‥」

思わず口をついて出た言葉。それに。

『それはそうだ。ここにある物は私が選びに選んだものだからな』

答える声があったのに、アンジェリークは酷く驚きました。しかも、その声の主は何処を探してもいないのです。

『‥‥何処を見ているのだ。私は、ここだ』

暫く、あちらこちらと視線を這わせていましたが、皆目検討がつきません。思い付き、そこにある家具全てに耳を付けたりしたのですが、違うみたいです。

すると。

『‥‥”ここ”ではわかるまい‥‥お前の説明は、時々間が抜けるな、ふっ‥‥‥』

またもや今度は違う声が部屋に響きました。

『なにっ! 貴様、私を愚弄する気かっ!!』

『正直な感想を言った迄だ‥‥』

途端、静かだった部屋は瞬く間に喧騒に包まれてしまいました。

その会話にようやく声の元に気がついたアンジェリーク。その蒼碧色の瞳をそちらに向けます。

その視線の先にあったのは‥‥‥壁に飾られた二枚の絵画でした。

片方は白地に金の装飾を施した額縁で絵には立派な白馬の絵が描いてありました。

そうしてもう片方は、黒檀の地を控えめな彫刻で飾った額に蒼い炎がともった蝋燭と紫の布の中央に設えてある水晶球が描かれていました。

「あ‥あの‥‥?」

恐る恐る話かければ、それらは予想通り、『なんだ?』と聞き返してきます。

「絵‥‥さん達が話してらっしゃるのですか?」

取りあえず”さん”付けをしてみたものの未だに信じられません。”燭台”を見た後だと言うのに、どうしても理性が否定するのです。

『いや、違うぞ』

ところがそれらはそれを否定します。でも、確かにそれが話しているのです。

少女は、首を傾げます。

するともう一つの声が話します。

『絵だけではない‥‥全てが、私だ‥‥‥』

どうやら、額縁・絵全てで一つの存在であったようです。途端、アンジェリークは自分が挨拶もしていなかったことに気がつきました。

「あ、すみません。御挨拶もしないで。私は、アンジェリークと申します。こちらで‥‥暫く、御厄介になります。よろしくお願い致します!」

慌てて深々と頭を下げます。

『‥‥私の名は、ジュリアスと言う』これは白い額縁の方でした。

『‥‥私の名は、クラヴィス‥‥アンジェリーク‥‥それは”天使”という意味だな‥‥?』

黒い額縁がそう、呟きます。

「え、ええ」

『やはり”天使”が舞い降りたか‥‥まぁ、私には関係ないが‥‥‥』

それきり黙り込むクラヴィス。





途端、辺りに今度は沈黙が降りてしまいました。

どうしたらいいのか判らない少女はおろおろとするばかり。

「‥‥クラヴィス様」

その時、アンジェリークの背後で溜息に似た言葉が零れ落ちました。

突然の事に驚き、びくっとする少女に声の主‥‥リュミエールが微笑みました。

「お待たせ致しましたね。はい、暖かいスープですよ」

寝台の傍らの小さなサイドテーブルにスープの入ったマグを置き、椅子を持ってきて勧めました。

「あ、ありがとうございます‥‥」

少女は、緊張のあまりお腹は殆ど空いていませんでしたが、それでも折角の心尽し。有り難く口を付けます。

コンソメのスープはとても暖かく、ない食欲をかき立ててくれ、身体も暖まってゆきました。







そうしてやっとどうにかリラックスしたアンジェリークは、にこにこと少女が飲む姿を見守っていた執事に視線を移しました。

「すみません」

「はい?」

執事が首を傾げます。

「あの‥‥この屋敷の御当主様に合わせて頂けませんか。お父様を助けて頂いたのに、私‥‥御挨拶もしていません」

そんな少女の精一杯の言葉に、何故か執事は微妙な顔をしました。

「あ‥ああ、マスター‥‥ですね‥‥明日でも構いませんでしょう?」

「‥‥今日は、駄目なんですか?」

捨てられた子犬のような瞳。

「会わせてやれ、リュミエール。どう考えてもその娘の言う事の方が正論だ」

「しかし、ジュリアス様」

その言葉の裏に隠れているのは、戸惑い?それもと心配でしょうか?

「‥‥構わぬ、リュミエール‥‥マスターは、会わねばならぬ‥‥」

「クラヴィス様‥!」

しかし、声音に含まれた抗議の色に額縁達は答えようとはしません。

暫く、沈黙の戦いが続きましたが、それは直ぐに決着が着きました。

「‥‥‥御案内します。こちらへ」

リュミエールが部屋のドアを開けました。









前を行くリュミエールの後をアンジェリークは付いてゆきます。

やはりこの屋敷は、かなり広くちゃんと付いて歩かないと迷子になりそうなくらいです。

先程、アンジェリークが寝かされていた部屋が三階。そこから暫く廊下をまっすぐ歩き、階段を二階分降り、また長い廊下を歩き‥‥。

慣れない旅で疲労していた少女の体力では、少しきつい位です。

それでも何とか付いてゆくと大きな扉がありました。

リュミエールが遠慮がちにノックします。

「‥‥なんだ」

その音に中から返された声は、低くまるで猛獣の唸り声を思わせるよう。

「リュミエールです。‥‥挨拶がしたいと仰るので‥‥アンジェリーク様をお連れしました」

暫しの沈黙後、その声は『入れ』と言ったきり、黙り込みました。

「さ、アンジェリーク様」

リュミエールがゆっくりと扉を開けます。

アンジェリークは緊張のあまり、からからになった喉を『ごくっ』と無理矢理上下させると部屋に入りました。







中は暖炉の火が燃え、とても暖かく快適でした。おいてある家具は、これまたとても良いものでしたが‥‥他の場所とは違って、何故か爪痕のようなもの等が残され『ぼろぼろ』といった印象を与えます。

床に敷いてある絨毯も年代物で燕脂色を基調に落ち着いた雰囲気を醸し出し、壁の蝋燭の灯りがそれを一層強めていました。





しかし、アンジェリークの目にそれらは何も見えていませんでした。その視線の先に見えていたものは。





大きな赤銅色の獣。





鮮やかな赤銅色の毛は波打ち、こちらを見る瞳は輝く金色。

鋭い爪も牙も白々といっそ青味を帯びる様。

手も足も太く、この世のものとはおもえない存在。

それが‥‥。





「俺がこの屋敷の持ち主だ」





少女は、答える事が出来ませんでした。いえ、声を出す事さえ出来ません。

もちろん父親からどう言う存在に命を助けられていたのかは聞いています。ですが、見るのと聞くのでは、やっぱりその情報は違い過ぎるのです。

けれども、アンジェリークはきちんとした教育を受けた少女でした。『誠意には誠意をもって返す』事のできる人間でした。

ですから、精一杯の勇気を振り絞って、両手でスカートの両裾を軽く持ち、腰をかがめて挨拶をしました。

「ル、ルヴァの娘・アン‥アンジェリークです。この度は‥ち‥父をお助け頂き、ありがとうございましたっ」

それは途中、つっかえたり裏返ったりしましたが、それでも感謝の意を伝えられました。

そんな様子を、変わらず光る瞳で見ていた獣は、少女が話終わった後も、暫くその顔をじっと眺めていました。

そして。

「‥‥何しても構わん‥‥ただ、この屋敷をあまり歩き回るな。部屋は、二階の一番端に用意させた。この屋敷の者は誰もいない」

それだけを言うと、くるりと背を向けてしまいました。それは、暗に『部屋から出ていけ』といった意思表示でもありました。

しかし、その様子を見ていたアンジェリークは、失いそうになる意識を必死に繋ぎ止めていました。

そのせいか。

「あ、あのっ?」

つい、話し掛けてしまったのです。退室の意志を告げられたのにです。

「‥‥なんだ?」

呼び止められた獣は、先程より少し多めに不機嫌を滲ませながらそれでも答えます。

「えっ‥と、あの‥‥」





アンジェリークにしてみれば、呼び止めたのは何の事はありません。

父の身柄と引き換えとはいえ、自分がこの屋敷に来たのに、この生き物はそれに関して何も言わない。一体、今迄の行動はどう言う事なのか?

そう言った事に不安感が増大された故の事なのです。つまり、これといった質問内容はありませんでした。

しかし、現に獣は歩みを止めています。





「‥‥あなたの事は、何とお呼びすれば?」

結果、出てきた言葉がこれでした。

この生き物は、自分の名前を名乗らなかったのです。





その質問に、金の瞳を琥珀色・糖蜜色・山吹色に変え、そしてまた最後に光る金色に戻した生き物は、一言呟きました。

「俺の事は”野獣(ビースト)”と呼べ」

そう言うなり、続きの隣部屋へとその巨体を移動させてしまいました。







「‥‥ンジェリーク様、アンジェリーク様?」

どのくらい、呆然自失していたのでしょう? 気付くとリュミエールが一生懸命呼び掛けていました。

「あ、はい」

「驚かれましたでしょう? けれども、あの方は悪い方ではないのですよ。それだけは分かって下さいね」

「‥はい、判りました」

その時、アンジェリークは強い目眩を覚えました。

それは、身体の自由を奪い、思わずその場に座り込んでしまいました。

「アンジェリーク様っっ?」

呼び掛けるリュミエールの声も、遠く近く響いて聞こえます。遠くでバタンッと何か大きな音がしました。

そしてアンジェリークは気を失ってしまいました。







氷点下の長旅にプラスして、精神的な過度の緊張。

それはアンジェリークの華奢な肉体に打撃を与えるには十分すぎる材料でした。

アンジェリークは、高熱を出して倒れてしまいました。
















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