『動かないで下さい、ヴィクトール様』
その言葉に、信じられないものを見た。
もしかしたら二度と‥‥本当に二度と見ることは叶わないかと思っていた愛しい顔が目前にある。
「アンジェリーク‥‥?」
『はい』
微かに微笑むその表情。
間違いなく、ヴィクトール様が愛しく思っていたアンジェリーク本人でした。思わず抱き締めようとしたその腕は、何故か何にも触れませんでした。代わりに急に動いた為、鈍い痛みが身体の中を走り、思わず低く呻き声が洩れでました。
『駄目です。傷は治せましたが、折れた骨だけは繋げられなかったんです。お願いですから、じっとしていて下さい』
「アンジェリーク、お前は‥‥」
その時、ヴィクトール様は少女の背中に大きく広がる羽根があることに気付きました。そして少女が薄く透けて見えることも。
その視線に気付いた少女は、もう一度微笑みました。
『私の心の弱さを許して下さい、ヴィクトール様』
「え‥‥?」
『それから、これから私のすることも』
そしてその瞳は立ち尽くす少女へと向けられました。
◇◆◇◆◇◆
「お前、どうして‥?!」
眼を見開く少女に微笑みかけるアンジェリーク。
『もう、いいのよ。エンデリク』
「! その名前で私を呼ぶなっ!」
激情に駆られて、光が連発されます。
が、全てアンジェリークが纏う光によって霧散してゆきます。
『もう、いいのよ。怯えなくていいの』
「怯える? この私が怯えるだと? ‥くだらない戯言を」
慈愛を込めた瞳がエンデリクを見詰めます。
『何もかも間違いなのよ。貴女が自分が愛されてないと思ったのも』
「何を言う! あいつらは私を全ての犠牲にした! 全ての責任を私に押し付けて、自分達だけ平和な世界を作った! 私は何一つ‥何一つ望んでなんかなかったのにだっ!!
だから、今度は私が願う番だ。全ては私の思う通りに!
全てが私の犠牲の上に成り立ってるなら、この世すべては私のものだ!」
その言葉を聞いたアンジェリークは、悲しそうに微笑みました。
『確かに貴女の国は、あなたのお陰で平和に皆幸せに暮らしたわ。でも、全員があなたの犠牲を喜んだと思うの?』
「? どういうことだ」
『思い出して。貴女を皆が大事に思ったことを』
エンデリクは、あの当時に戻ってることに気が付きました。
あの魂が人形に封じられた日に。
目の前には、薬で眠らされた自分の姿がありました。枕元には、あの人形が。
その周りには、あの家老や付き人だった者達が立ち並びます。
”今更、何を見せるというのだ。この私の姿が答えではないか”
『いいえ、良く見て』
アンジェリークは指差しました。
『あの人たちを良く見て』
深い眠りにつく少女を見つめる人々。その沈黙は重苦しく、暗い。
誰一人として喋る事なく、只々見詰め続ける人たち。
その空気を破ったのは、一人のふくよかな中年女性でした。
「どうしても、姫様を‥‥姫様を……」
その後は、涙でつまり言葉になりませんでした。
「ばあやさん・・・」
傍らにたっていた若いメイドが肩を抱き、ともすれば崩れ落ちそうになる彼女を支えました。
「・・・わしらだって、やりたくてやる訳ではない。でも、そうしなければ国の人々の生活は‥‥」
「多数の民を救う為には、姫さまを犠牲にしてもいいって言うんですか?!」
「そんなことは言ってないっ!」
「言ってるじゃありませんかっ!」
交わされる激しい視線。
「・・・姫様は本当にいい子だった。私がこの手で抱いて、この乳でお育て申し上げたんだ」
ばあやの口から愛しげな声が洩れでます。
「それは、儂も同じ気持ちじゃ。恐れながら時には思いっきり叱りもしたが、それもこれも姫様を思って・・・本当の孫娘のような気持ちで接してたのだから」
筆頭家老の口からも同じ色をした言葉が洩れでます。
「ならっ!」
「それでも、儂達は民を裏切れん。その為には・・・この道しかない。このままでは姫様も・・・」
その先の言葉は皆が分かっていました。
与えられてる力の暴走。
おまけにその力の持ち主‥‥エンデリクはその力を心底憎んでいる。
それは、このままでは力の持ち主本人さえも滅ぼしかねないことでした。
「二度とこういう事は繰り返したくなかった‥‥‥だが」
筆頭家老は、少年の時、前巫女姫を見送ってました。
「こうなった以上、儂は姫様と共に封印されよう。この老い先短い命、姫様の為に使えるのなら本望」
その言葉に皆が一斉に顔を上げました。
「何をおっしゃられます! 貴方がいなくなったら、この先、この国はどうすればいいんですか!」
これは若い武官。
「そうですっ。家老様は、ここで皆に指揮をとって貰わねば」
これは、王宮付きの学者。
「それに、ずるいよ、あんた。あんただけ姫様を一人占めしようとするなんて!」
‥‥これはばあやさん。
その時。
「私が行きます。‥‥私は姫様と同じ年だから、姫様が望むようにお洋服を選んだり、御髪を編んだり、お世話が出来ます。そして最期まできっとお世話できると思うんです。お願いです、私を一緒に入れて下さい」
それは、一番若いメイドさんでした。小さな頃からエンデリクの話相手にもなるだろうとお仕えして来た娘でした。
「私も行きます!」
「私も!」
次々と名乗りあげられる顔と名前。それは、宮殿の殆どの人で。
景色が、ふっと元の宮殿に戻りました。
「これは‥‥なんだ?」
エンデリクの瞳が燃え上がります。
「このような猿芝居に惑わされる私ではないわ! ‥‥偽りの情景を作るのも楽ではあるまいに」
『偽り?』
さらにふぅっと儚げな笑みがアンジェリークの頬に浮かびます。
『どうして、そんな事を言うの?』
「そうであろうっ! この時間は既に200年も前に終わった出来事だ、それも遠い惑星で。お前が見せられる訳がなかろう」
『そう言ってあなたは、いつも眼を逸らすのね。目の前にあるのは、全て真実なのに』
「なにっ!」
『私が今、何処にいるか、わかっているの? これは全部あなたが‥‥‥人形が記憶していた事。あなたの身体と人形は、いつも一緒にいたわ。だから、全ての出来事は、人形に記憶された。‥‥あなたが心を閉じてる間も』
もう、エンデリクはそれに答えませんでした。ただただ、唇を噛み締めるのみです。
さらに、アンジェリークは言いつのります。
『この人形は、とても状態がいいわ。お店の人も”年代物の割には新しい”と言ってたし、とても200年もの時間がたってるなんて思えない。‥‥それは、どうしてだと思うの?
それはね、この人形を皆が大切にしていたから。あなたに仕えるように、あなたが綺麗でいるように、皆が一生懸命手入れをしてきたから。
‥‥あなたの身体が亡くなったあとも』
今度こそ、びくっとエンデリクは顔をあげました。
その瞳の中にあるのは‥‥後悔? 哀しみ? それとも・・・。
「それは‥‥」
『間違いだったのよ、すべて。あなたが皆を恨むのも、自分を責めるのも。
確かにあの出来事は、不幸だったわ。でも、それにあなたがいつまでも縛られている事はない。‥‥‥あなたを世話する為に一緒に封印された人たちも、あなたがこんなところで苦しんでる事を知ったらどんなに悲しむか』
暫く静寂が辺りを支配しました。
エンデリクは俯き、その拳は握りしめられ。
ぽたり。
雫が落ちました。
「それが‥‥‥」
『え?』
沈黙を破ったのは、エンデリクでした。
「‥‥それが、真実だとして‥‥それで私にどうしろと言うの? ‥‥結局私はひとりぼっちなんじゃない。
あなたの言う通り、皆が私を愛していてくれたとしても、今みんないなくなってしまった。
やっぱり、私はひとりぼっちで、誰も私を愛してくれない‥‥‥それが今の真実よ」
それは、今までのエンデリクではありませんでした。女王をその座から引き摺り降ろし、聖地を自分のものにしようとしていた魔女は消え、その下からは16歳の素顔が覗いていました。
その瞳からは、透明な雫が絶えまなく零れ出していました。
「後悔しても、時は戻らない。だったら‥‥このまま一人で生きていくしかないじゃない。
全てを敵に回しても、何をしても、一人で生きていくしかないのよ!」
それは、慟哭の叫びでした。
『‥‥‥一緒にいてあげる』
そぉっと呟かれる言葉。
その胸を抉られるような思いを受け止めたのは、アンジェリークでした。
「‥‥え?」
思わずエンデリクは聞き返します。
『私がずっと一緒にいてあげる。‥‥だから、もう泣かなくてもいいのよ?』
「泣く? 私が?
私は泣かない! もう涙などあの時に枯れ果てた」
『なら、その頬を濡らすものは何?』
「え?」
手が頬に当てられ、その指先は雫に濡れます。
「あ‥‥?」
『莫迦ね‥‥泣いてるのにも気付かなかったの?
‥‥あなたを呼び覚ましたのは、私。私があなたとずぅっと一緒にいるわ。だから、泣き止んで、ね?』
優しい、優しい‥‥まるで聖母の様に少女は、エンデリクに微笑みかけました。
「アンジェリークッッ!」
アンジェリークのその言葉は、その場にいる人、全てに聞こえていました。
「いけないっ、アンジェリーク! そんなことをしたら‥‥同じサクリアを持つ者同士、一緒になればあなたはっ!」
エルンストの悲痛な声が響きます。
「そうだよ、アンジェリークッ! 死んじゃうんだよっっ!」
‥‥‥まるで同質同量のふたつのサクリアが重なりあえば、それは反発を起こし、全ては無に帰す‥‥‥それは、サクリアを研究して来た研究院主任の警告でした。
『皆さん‥‥』
アンジェリークが、すっとこちらを振り返りました。
『ごめんなさい。皆さんを巻き込んで。‥‥‥でも、私はエンデリクを放ってはおけないんです。この子は、もう一人の私だから。
‥‥守護聖様達には、皆さんから謝っておいて下さい』
「アンジェリーク・・・」
そこには、決心が表れてました。
何者にも変え難い固い決心が。
『ヴィクトール様・・・』
次にアンジェリークは、床に倒れ伏すヴィクトール様に声をかけました。
『すみません・・・あんなに一生懸命教えて頂いたのに、結局私には精神の強さが身につきませんでした。その事だけは、謝っても許して貰えないと思ってます。
でも』
そこでアンジェリークは、微笑みました。本当に嬉しそうに。
『嬉しかったんです、あの時。
私、勝手にヴィクトール様の事を想っていたのに、それなのに”宇宙よりも”と言ってくれた事が。
それだけで私には十分です』
その後は、真摯な眼差し。
『幸せになって下さい、ヴィクトール様。お願いです』
ダンッ!!
握り拳が床に叩き付けられました。関節が白くなる程握られた拳が。
その後には低く這うような声が洩れでました。
「幸せに‥‥なれ、だと?
お前が行ってしまうのに、幸せになれだと?
‥‥‥アンジェリーク、俺の幸せを望むなら、行くなっ!
お前が人形でも構わん! この世界もそいつにくれてやって構わないっ!
頼むっ! 俺と一緒にいてくれっっ!!!」
血の吐くようなその叫びに、アンジェリークは少し困ったような顔をしました。
そして‥‥‥。
微笑んだのです。
「アンジェリークッッッッッッッ!!!!」
まばゆい閃光が辺りを真っ白に染めました。