‥‥人間にとって長い長い年月が過ぎてゆきました。
一つの国が時の流れから外れても、それでも季節は春・夏・秋・冬と移り変わってゆきます。
始めこそは、誰もが正しく覚えていた事も、月日が経てば曲解され、誤解され、忘れ去られてゆきます。
そう‥‥ただ、その当人達を抜かして。
薄く緑色と金色に踊りながら光る空気の中をゆっくりとそよ風が流れていきます。
それは、ゆっくりと辺りを震わせます。
‥‥そう。
眠る人々や木々、動物達。そしてやはり眠った炎や水の流れ‥‥。
全ては、静かに眠っていました。時の流れすらも。
そんな中を只一つだけ、動くものとして風が流れていきます。この国の空気を澱ませない為に。
そしてそれは、中央に立つ小さな城のまん中の真っ白いレースが覗く部屋に優しく吹き込みました。
カーテンがゆらゆらと揺れます。
すると。
”ぱさっ”
それがはねのけられました。
浅黒い手によって。
このすべてが眠る国に風以外に動くもの。
それは。
窓辺の下で蹲る人影。それは鋼の精霊・ゼフェルでした。
片方立てた膝に顔を埋め、身じろぎすらしなかった身体が風に煽られたカーテンによって、はじめて動いたのです。
「‥‥‥ランディの‥‥ところのか‥‥?」
その呟きに、そっとカーテンがその身をすり寄せます。
「‥‥時が来たのか‥‥?」
ゼフェルは、大儀そうに身を起こすと、ふらふらと倒れそうになりながらも、部屋の中央に据え付けられている天蓋付きの寝台へと近付きました。
その姿をもし他の精霊達が見たら、きっと出る悲鳴を必死に押し殺したでしょう。
力の消失とともに、その身体を形成しているものが薄れかけているのです。魂を持っている地上の生き物と違って、魂のない精霊は力がその証。
今、ゼフェルの身体は、向うの景色が見える程薄れていました。
寝台の上には、安らかに少女が眠っていました。
楽しい夢でも見ているのか、うっすらとその珊瑚色の唇に笑みを浮かべながら。
「‥‥アンジェ‥‥」
ゼフェルは、寝台の側にある椅子へと座り込みました。
「‥時が‥来たぜ。‥‥もうすぐお前を解き放ってくれる‥…人間がここに来る。もうすぐ‥‥お前も国の皆も‥‥目覚めるんだ」
浅黒い手を伸ばし、頬にかかった黄金の後れ毛をそっと直してやります。
「‥‥俺は、お前の運命を解き放ってやりたかったけど、やっぱり力不足だったな。せめて、目覚めてからは何一つ不幸など訪れないように祈ってやるよ。きっとマルセルもランディも力を貸してくれる。
‥‥俺が消えてしまっても、それだけは祈ってやるよ‥‥」
いつもまとわりついてきた小さなアンジェリーク。
何時からだろう。この世で一番幸せになってほしい人間になったのは。
誰よりも何よりも幸せになって欲しい。
いつもその笑顔を周りに振りまけるように。
俺の心を救ったように。
『鋼』の力は、また新しくうまれる精霊に引き継がれるだろう。
でも。
俺が納得した分、きっと『鋼』の力はもっとましなものになる筈だ。
全ての人間を幸せに出来るようなそんな力に。
俺が、たった一人の人間を救えたのなら。
「‥‥幸せに‥‥アンジェリーク‥‥」
****
北の端に大きな国がありました。
その国は、冬が1年の半分を占めるような国でありましたが、豊かな鉱物資源に恵まれ、その強大な力を伸ばしておりました。
そんな豊かな国に、一人の王子が生まれました。
その王子は、小さい頃から利発でおまけに運動神経も良く、国の将来を背負って立つものとして国民から期待されておりました。
が。
成長した王子は、確かに賢く逞しく、容貌も端正で‥‥端正で、見事な女ったらしに成長してしまいました。
まぁ、王子側から意見を言えば、『女の方からついてくる』との事ですが、それも無理はありません。
王子と結婚出来れば、見事な玉の輿なのですから。
王子の浮き名を聞いた王様とお妃様は頭を抱えました。
その結果。
とっとと身を固めさせる事にしました。
ところが、持ってくる見合いの肖像画を王子は見もせずに突き返します。
業を煮やした王様は、直々に王子を呼び出しました。
「王子!」
「はい、なんでしょう?」
「何故、見合いをせんっ! みな、良い姫ばかりではないか」
熱くなる王様とは反対に王子は燃え盛る炎のように紅い髪をかきあげ、クールに答えます。
「確かにみんな良い姫です。ですが、みなお人形のように綺麗で‥‥。俺には少し物足りない気がします」
「なんだと!」
「それに俺がこの国の王子と知っている者ばかりです」
「当たり前ではないか。そなたはこの国の跡取りなのだぞ。全てをしって、将来のお妃としての重責を知ってるものでなくては勤まらないだろうっ!」
何を莫迦な事を、と王様の頭は爆発寸前です。それなのに。
「そんな人形は俺には必要ないのです。俺に必要なのは、王子の俺ではなく、俺自身を大切に思ってくれる人でないと」
とうとう王子はその怒りを更に煽るような事を言ってしまったのです。
「え〜いっ!! ならば、自分で見つけてこいっ! 見つかるまでは戻る事、まかりならんっ!
出ていけっっっ!!」
それを聞いた王子は、謝るどころか、これ幸いとその国から逃げ出してしまいました。小さな荷物とお金、それに愛馬を従えて。
王子の名前は、オスカーと言いました。
オスカー王子は、そうして世界を彷徨う事になりました。
ですが、世間一般が思う程、辛い毎日ではありませんでした。どちらかと言うと規制の多い、体面を重んじる王室の方が、オスカー王子にとっては苦痛だったのです。
腹が減れば飯を喰い、眠くなれば木の下ででも眠ればいい。お金がなくなれば、用心棒でもなんでもすればいいのです。それにもし何もなくなってしまったら(これは最後の手段ですが)その端正な容貌を利用すればいいのですから。
オスカー王子に、普通の『王子としてのプライド』はありませんでした。ただあるのは、普通の『人間としての矜持』だけでした。
そんな気楽な毎日を過ごしていたオスカー王子がそのおとぎ話というか噂を聞いたのは、自分の国から随分西に流れたところでした。
下町の居酒屋で聞いたそれは、『ここよりもっと西の深い森の奥に茨に包まれたお城がある。そこには絶世の美女が眠っていて、目覚めさせてくれる人を待っている』というものでした。
「その話は、本当か?」
普段でしたらそんなヨタ話、鼻で笑って済ませる所ですが、たまたまギャンブル(そう言う所にも出入りしていました)で懐が暖かかく機嫌の良かったオスカーは、酒を頼みつつ、話に加わりました。
「ああ、まじだぜ」
汚い布を薄くなりはじめた額に巻き付けた酔っ払いは、酒臭い息をはきつつ、話に乗りはじめました。
「これは、昔ッから言われている事なんだ。俺のばーちゃんも良く話してくれたぜ。それはそれはきれーな別嬪のおひめさんが王子さまのキスを待っているんだってさ」
「ほ−、キスをねぇ‥‥」
「ほら、ここから見えるだろ? あの西の森の向うにあるんだとさ。鋼の茨に囲まれた優美な城がな」
そう言って指差す先には、黒々とその存在を重圧を込めて知らしめている強大な森がありました。
オスカー王子は、次の日早速その話の城を目指しました。
もともとこれと言ってあてのない旅です。たまにはこんな酔狂な事もいいかな、という位の軽い気持ちでオスカーは旅立ちました。
ところが、森はそんな軽い気持ちはあっさり吹き飛ばしてしまう程、深く大きかったのです。
その深い森の中で、どのくらいオスカーは彷徨った事でしょう。
普通の人間であれば、野垂れ死にしていたかもしれません。
けれど、オスカー王子は普通ではありませんでした。深い森をなんなく探索し、食物がなくなれば狩りをし、水が無くなれば清水を啜り、それでいて容姿はまったく旅の疲れを感じさせなかったのです。
そんなある日、オスカーはやっと森の途切れた場所へと辿り着きました。
しかし、その奥には今までに見た事も無いものが存在していたのです。
「なんだ‥‥? これは」
それは、銀色に輝く鋼の鎧を纏ったいばらの茂みでした。様子が尋常で無ければその大きさもまた尋常ではありませんでした。一本の太さが人間の胴くらい。その棘も腕くらいあるのです。
どうみてもここがあの噂の場所であることは間違いありません。
「‥‥ふっ。この程度で俺を追い返せると思うなよ」
オスカーがその剣を振り上げた時。
突然、雷が鳴り響きました。
「なっ、なんだっ!!」
流石のオスカーも驚き慌てます。
が、その雷も一回だけ。
ですが、その時、もっと驚く事が起こりました。
今の今まで足を踏み入れる事を拒んでいた茨の森がその鎖を解き始めたのです。
鋼の鎧は薄れ、風に消え、そしてその鋭い棘は見る見る内に茎に吸い込まれ消えていきました。
いえ、何時の間にかきちんと人が通れる位の道がその中に開いているではありませんか。
「これは‥‥?」
穿った見方をすればそれは罠かも知れません。しかし、オスカーにとって『かも?』は必要ないものでした。
『石橋を叩いて渡る』のではなく『虎穴に入らんずば虎児を得ず』と言う方がオスカーは好きでした。(この世界の人達が日本の諺を知っているかどうかは不明ですが)
「誘っているなら、受けてやるぜ」
オスカーは、その足を茨の森へと踏み入れました。
森の中は、外見からは想像出来無い程優しいものでした。
茨の蔓の間からは、柔らかい木漏れ日がちらちら見え隠れします。時折優しいそよ風が頬を嬲っていきます。
「‥‥罠ってことは、無さそうだが‥‥」
オスカーは、そのまま道なりに歩いていきました。
十分くらい歩いたでしょうか?
オスカーは、茨の森を抜けました。
ところが、その先に見えるものは、目を疑うものでした。
「街‥‥か?」
そこには、綺麗な町並みが広がっていたのです。
「人は、いないのか?」
街の大通りともいえる筈のところを歩いていましたが、行き交う人はまったくいません。それどころか、気配すらしないのです。
かといって、家々に人が住まないとあらわれる荒れと言うものは見当たりません。
「これはどう言う事だ?」
オスカーは取りあえず、手近な家に入ってみました。
やはり動いている人間の気配はしません。それどころかその氷蒼色の瞳に映ったのは、眠りこける人間の姿でした。
「おい! どうした?!」
揺すぶっても頬を叩いても誰も起きません。
「これは一体‥‥?」
オスカーは、道々にある家を次々と覗いていきました。そしてその全部が眠りこける人々とわかった時、目の前に大きな城が現れました。
‥‥いいえ。今まで普通の家を見てきた為大きく見えましたが、それはオスカーの生まれ故郷の城にくらべると三分の一ぐらいの大きさでした。
が、しかし、たとえ大きさでは負けるとしても、その優美さにおいては他のどのような国の城であろうとも勝るとも劣らない程の素晴らしいお城でした。
「‥‥もしかしてここは一つの国なのか?」
もしそうならば、その中心と言うべき城にこそ、全ての謎があるのかもしれない。それに多分、噂の姫も。
オスカーは、城を目指す事にしました。
城までそんなに距離はありませんでした。
ここは、本当に小さい国のようです。
小さな堀に架かる橋をこえ、両脇に崩れ落ちて眠る門番をこえ、オスカーは、ずかずかと城の内部へと入ってゆきました。
この城もやっぱり人々はすべて眠っているようでした。
とりあえずオスカーは、高い塔のある一番大きな館を目指しました。
その入り口の扉に向かう階段の脇にも一人、銀髪の少年がよっかかるかのようにして眠っていました。
「‥‥本当にここは皆が眠っているのだな」
呟いたその時。
「‥‥やっと来たな‥‥」
ややハスキーな声が聞こえました。
「あん?‥‥誰かいるのか」
オスカーは、きょろきょろと当りを見回しました。が、人影は見えず。
「‥‥何処見てんだ、オスカー」
「なっ?!」
こんなところでまさか名前を呼ばれると思っていなかったオスカーは、咄嗟に声の聞こえた方に顔を向ければ。
「‥ここだぜ」
それは、寝てるとばかり思っていた蹲っていた少年のものでした。
鋭く光る紅玉の瞳がこちらを見つめています。
その光になんとはなしに怯む気持ちに自分で驚き、体勢を立て直す王子。
「‥‥お前は、起きてるのか? 何故俺の名前を知っている? それと、知ってるなら教えろ。何故みんな眠っているんだ?」
「‥‥『何故』はもうどうでもいい。
お前に必要なのは、疑問符じゃない。行動だ。‥‥見ろよ」
そう言ってすぅっと腕を上げます。伸ばされた指が指すのは、たった一つ。白いレースのカーテンが翻る窓でした。
「あそこにお前が求めてきた者がいる。 真実の愛の口づけですべては目覚めるだろう」
「あい‥‥って、おいっ?!」
次の瞬間、呼び掛けた声も虚しく不思議な事にその少年の姿は消えていました。
「なんなんだ‥‥?」
首を傾げつつ、オスカーは先程少年が指差した窓の部屋に向かって歩き始めました。
「‥‥遅いんだよ、てめーは‥‥」
その声は、先程二人が話していたすぐ側の茂みから聞こえました。
そこには、力無く横たわる銀髪が見えました。
さっきの瞬間移動で最後の力まで使ってしまったのです。今のゼフェルには起き上がる力すらありませんでした。
やっとの思いで左手を目の前まで持ってきます。それは、見るまでも無く透き通っていました。
もう、終わりだな‥‥。
そのまま視線を上に移せば、そこには吸い込まれそうな程蒼い空が広がっています。
あの中を何百年もゼフェルは飛び回っていたのです。
でも、今も後悔だけはしていませんでした。
ただ、胸に残るのは、目的を達成した充足感だけ。
あとは、きっと‥‥‥消えるだけ。
ランディやマルセルが飛ばす情報だけだったが、きっとあいつならアンジェリークを幸せにしてくれるだろう。
どうやら『たらし』には違いないが、大事なものは命を賭けて守り通す事のできる男だ。
じゃなかったら、化けて出てやるけどな。
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マルセルやランディ、ルヴァにも挨拶出来なかったなぁ。
迷惑かけるだけかけて、さっさとおさらばじゃきっとおこんだろーなー‥‥。
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あぁ‥‥段々周りが暗くなってきた。
‥‥俺みたいな精霊も天国とやらに行けるのかな−‥‥魂がないから無理かもしれねーよな。
‥‥‥‥‥‥‥‥じゃぁな。
ゼフェルは静かに目を閉じました。
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