灰のなか夜のいろ  5





 
 宴会が続いていた。冬の気候ではあるが、まだ過ごしやすい気温だ。
 は終始笑顔で、仲間に囲まれている。それをローは視界の端に入れつつ、ペンギンと飲んでいる。彼はどちらかというと騒ぎながら飲むほうだが、今日はどういう風の吹きまわしなのか。
「俺が言ったこと、覚えてますか? キャプテン」
 どの台詞か、などと聞かなくてもわかる。
 肯定の意を視線だけで示せば、彼はの方を見やって。
「まだ、なんですね。たぶん、は自分で気づかないと思いますよ」
「ペンギン」
 呼ばれて、の方へ向いていた視線が船長へ移る。
「まったく、お前の策に乗せられたみたいで癪だ」
「褒め言葉として受け取っておきますよ」
 彼と飲みながら、視線は自然と彼女の方へ。










 ――船長なら、俺たちが与えることのできない『唯一』を与えることができる。
 彼女を注意深く見ていれば、答えは自ずと見えてくる。人の気配に敏感なの『唯一』になり得るのは、船長しかいない。
 今夜は、なぜか騒ぐ気分になれなかった。
 彼女の過去を聞いたからか、あるいは、2人の雰囲気に気がついたからか。
 性別を偽り海軍から逃げ続けた彼女が、たった数日で覚悟を決めることができるだけの『力』。戦闘力ではないその力は船長の魅力だ。どんなに不機嫌でも、どんなに無表情でも、どんなに皮肉屋でも、俺たちはついていく。
 冷静に物事を見つめるから冷たい印象を与えるが、そうじゃないことを俺たちは知ってる。
 突っ込み気質で、珍しいものが好きで、表には出さないけれど優しい人。
 と一緒に笑うことができるのは俺たちクルーだ。そこは、たとえ船長でも譲れない。
 ……ま、船長が俺たちと馬鹿騒ぎすることは稀だけど。
 キャプテン、ほんのちょっとだけ、意地悪を言ってみたかったんだ。こんな表情のキャプテンは、久々に見たから。










 自然と、目が彼女を追う。
 初めて会ったあの店で、不思議なヤツだと思った。長い前髪と眼鏡が、グレーの瞳を隠していた。
 見た目以上に軽やかな身のこなし。男にしては筋肉のない腕、細い指。そして、1番気になったのは、パンツの後ろポケットにあった折りたたみナイフ。御守りのようだ、と何気に思った。
 隠された瞳からは正気が感じられなかったから、余計に気になった。昔の自分と重ねていたのかもしれない。
 偽ることで自分を守ることがいかに滑稽か、自分がよくわかっているからだ。
 『俺』が『何』を与えたいのか。
 ――どうやら、ペンギンには見透かされているようだ。










 気付けばの声が聞こえなくなっていた。
「キャプテン」
 ペンギンの急かす声に、思わず睨む。そのあと、はぁと大きなため息をついて睨んでしまったことを短く謝り、立ち上がった。
 は酔いに任せて眠ってしまったようだ。
 風邪をひいてしまうとを揺り起こそうとしたクルーの手を止め、彼女の前に片膝をつく。
「風邪ひかない程度にしろよ」
 いまだ宴会中のクルーに声をかけ、を抱き上げる。
 女とすれば背は低くはないが、あまりにも細い体。思った以上に重みがないことに驚く。
 コツコツと足音を響かせ、起こさないようゆっくり歩く。酒が手伝ったにしろ、眠ることが大事だ。質は悪いが、浅い眠りを毎日繰り返すよりはマシだろう。
 の部屋へと行かず自分の部屋へと連れて帰り、自分のベッドへ下ろした。
「起きたときの反応が見ものだな」
 布団をかけてやると、長い前髪を指先で払う。自分はソファベッドに寝転がり、の寝息を聞きながら目を閉じる。

 ――…………いで……。

 小さな震える声に、ローは跳ね起きる。を見やると、シーツをしっかりと握る指。

 ――……殺さ……で……。

 はっきり聞き取ることはできないが、言っていることはわかる。
 父親のことか、村人のことか。どちらにしろ、いい夢ではない。
 ローはシーツを握る手を取ってみる。彼の手を握り返してくる指は冷たく、震えている。起こしたほうがいいだろうと判断し、の体を軽くゆする。

 何度目かの呼びかけに、瞼が薄く開く。
「ん……せん、ちょ……?」
 はっきりと覚醒していない瞳が、ローを虚ろに見ている。自分が誰なのか理解していることに安堵して、ベッドへ腰を下ろす。
「そっちつめろ」
「つめ、る?」
 寝ぼけているに言うのが面倒になったのか、ローはその体を掛け布団ごと抱き上げ、一人分奥へずらす。
「なに……?」
 いまだ覚醒できていないのをいいことに、『俺が与えたいもの』を勝手に与えることにする。
 ローはの隣に潜り込み、自分の胸の上に彼女を伏せにして顔を乗せてやる。
「キャ、キャプテン?!」
「ようやくお目覚めか、
 ローの心臓の上に、の耳がある。
 慌てて体を起こそうとするのを強引に引き寄せたまま、右手で頭をとんとんと緩く叩く。
「よく頑張ったな」
「え……?」
「俺たちといるときは偽る必要ない。男だろうが女だろうが、関係ない。だ」
 右手を頭から背中に移動させ、子守をするようにゆるりと叩く。
「俺も、一度は死を覚悟した人間だ。自分を呪って、他人を傷つけて――自分のすべてに蓋をして心を凍らせた」
 の背中を叩くリズムはそのままに、ローは言葉を続ける。
「だからかもしれねぇな……おまえのことが気になったのは。あの店で、おまえは昔の俺と同じように自分の心に蓋をしていた。笑って自分を偽っているのが分かった」
 の右手が、おずおずとローの左手に触れる。その動向を見守りつつ、彼は薄く笑った。
「おまえが欲しいと思うものを、俺は与えたかった。――
 の右手が、ローの左手に触れたまま止まっている。その指をローから絡ませて。
「許してやれ……自分自身を。自分を認めれば、もっと先に進める。先に進めば見えてくるものもある。――そうだろう?」
 ぎゅ、と左手での右手を握ってやると、開いた左手で顔を隠してそっぽを向いてしまう。
「なんでそんなに……」
「理由なんて必要ねぇよ。おまえは、俺が気に入って船に乗り込ませた大切な仲間だ」
 握った指を、ゆっくりと撫でると、びくりと肩を震わせる
 沈黙が落ちた。
 言いたいことは言った。与えたいと思うものは、与えられただろうか。
 の喉がひくりと鳴るのがわかって、ローは彼女の頭を抱えて髪を撫でる。体を小さく震わせると、は逃げようともがいた。
「逃がさねぇよ。諦めろ」
 自分を出してやれ、
 島を離れて10年、おまえはきっと自分を許せなかっただろう。自分のせいで、島が滅んでしまったと思っているはずだ。ずっと自分を責め続けている。
「なんで……っ」
 なおも言いつのろうとする口を、ローは簡単に手で塞いでしまう。
 口を塞いだ指に、温かい滴が落ちた。
 ――やっとか、。強情にもほどがある。
「ここにいるのは俺だけだ」
 自分のために、泣いてやれ。
 一度零れ落ちた涙は止めることはできなかったようだ。声を殺して泣くの髪を幾度となく撫でながら、もう片方の手で背中を叩いてやる。
 子供をあやすようなそれだが、はさらに泣き出してしまった。ひくり、と何度も喉を震わせ、何度も瞬きをして涙をこぼす。
 ずっと泣けずにいたのだろう、堰を切った涙は止まらない。
「それでいい。……、それでいいんだ」










 クルー数人に取り囲まれ、あっという間に甲板へ連れ出された。いつもはコックだからと酒も少量しか飲まないし、仲間に奉仕する。基本的に、体を動かしているほうが好きだからだ。
 甲板にはすでに準備が完了した食事と酒。冬島出身が多いのか、アルコール度数の高いものが多い。
 仲間たちに囲まれ、給仕もせずにいることははじめてで、どうしていいのか戸惑ってしまう。困惑したまま仲間と話をしながら酒を飲んでいたのが悪かったのか、珍しく眠気に負けてしまった。アルコールが多すぎる睡眠は質的によくないのはわかっているが、耐えられなかったようだ。
 ふわり、と体が浮かんで揺れた気がしたが、そのあたりもよくわかっていなかった。誰かに抱き上げられたんだろうとアルコールでふわふわする脳で思ったのが最後で、次に気付いたときはベッドの上だった。
 何度も名前を呼ばれて、体を揺らされて。億劫だと思いながら瞼を薄くあければ、そこには隈の濃い船長の顔があった。まだ脳はふわりと揺れていて、彼の言っている言葉が理解できない。いつもならこれぐらいすぐに覚醒するのに、今日はおかしいと頭の片隅で思うが行動に移せない。
 体が横にずらされて、すぐ隣に温もりがやってきて――自分の体が彼の上にあることに気付いて、驚愕と同時に完全に意識が覚醒した。
 ヤバイ、と思う。耳の奥に警告音が響く。これ以上は、ヤバイ。
 何が、と理解はできないまでも、瞬時に危険と察する脳は、体を突き動かした。
 体を起こそうとしたけれど船長に軽く抑え込まれた。前にも思ったが、細いわりに力が強い。
 頭を緩く叩かれ、背中を叩かれ。同じリズムで緩く叩かれると、冷え切っていた脳が解け始める。
 危険だ、と再度思ったとき、船長の端的な過去を聞いた。
 どうしていいか、わからなくなった。
 この腕の中から逃げ出せば、自分はまだ自分を保っていられる。――強い自分のまま。けれど、本当にそれでいいのか、ともう一人の自分が引き留める。
 刺青のある手は、誰の手とも違うのに……特別に思えて、触れてみたいと思った。戸惑いに気付いているはずなのに、船長は逃げ場を作ってはくれなかった。
 心さえも完全にとらえて――……。
 往生際悪く言いつのる言葉も塞がれ。
 喉に詰まる息が痛い。あの日から10年――オレは……。
 うまく息ができずに何度も喉を震わせるオレに、船長(キャプテン)は何度も背中を叩いた。子供のようだ、と自分のことを思ったけれど、一度出てしまったものは止まらなかった。

「それでいい。……、それでいいんだ」

 父が殺されたときに泣いたけれど、こんな風に泣かされたのははじめてだ。
 泣けと言葉に出されたわけでもない。態度に表れていたわけでもない。なのに、自然と溢れてきたのはなぜだろう。
 喉を引きつらせながら、船長のシャツが濡れていくのを感じ取って顔をあげようとするけど止められて、また髪を梳かれる。たったそれだけのことに、また溢れてしまう。
 どうしてくれるんだ、キャプテン。このまま寝てしまったらオレは……。










 何度も体を起こそうとするのを引き留め髪を撫でてやると、の気配が解けていくのがわかる。落ちる滴も少なくなっていき、気付いたときには寝息をたてていた。
「今度は夢を見なけりゃいいが……」
 ローに体を預けて完全に寝入っているを見やると、安堵の息を漏らす。
「これですぐに起きてこられちゃ、努力した意味もなくなっちまう」
 『深く眠れる場所』と『泣き場所』を。
 戦闘力があれば確かに強いと言われるだろう。だが、それだけが強さだけじゃない。――自分を許し、認め、そして他人を認める。心の強さがなければ、この先は進めない。
 せめて、俺の前でだけでも、弱い心を出してやれ。
 泣きすぎて赤くなった瞼と頬。涙のあとの残るそれを指でなぞると、ローは瞼を閉じた。










 次の日、ローは慣れない重みに目が覚めた。自分の上にまだがいることに気付き、苦笑する。よほど深い眠りに入っているのか、ローが動いたぐらいでは目覚めそうにない。
 今日でログがたまり、次の島に出発する。
 なんとなく起きない予感がしていたので、前もってペンギンに指示は出していたが、起きたついでに確認しておこうとシャツを着替えてから部屋を出る。
 音を立てないよう扉を閉め操舵室へ向かうと、ベポとペンギンがいた。シャチは食堂の方で数人のクルーと食事を作っているらしい。
「どうでしたか?」
「まだしばらく起きねぇだろう、あいつは」
 ベポと次の島への航路を海図で確認してから、そう返答する。
「どれぐらいで起きるかは俺にはわからねぇが……起きるまではお前に任せる」
「了解です、キャプテン」










 海軍にも海賊にも出会わないのは珍しい。穏やかな海が続く。
 時折、ベッドを占領しているの様子を見ながら、手元の本のページをめくる。
 水を含ませ固く絞ったタオルが彼女の瞼の上にあり、ゆっくりと上下する胸は生きていることを証明している。
 寝顔は、まるで子供のようだ。
 深い眠りに入っているようで、昨夜のように夢にうなされることもない。
 太陽が傾きかけたころ、寝返りを打ったの目元から、タオルが落ちた。それを取るとすでに冷たさを失っていて、交換しようとローは本を伏せて腰をあげた。
 水に濡らした新しいタオルを持って医務室から戻る途中、シャチと出くわした。
「あ、キャプテン。今からコーヒー入れるところなんで、どうっすか?」
「頼む。部屋までもってきてくれ」
 船長室へ戻るとまだは眠ったままで、思わず胸元を凝視する。規則正しく上下する胸を確認する癖がついてしまったようだ。
 コーヒーがくるまで本の続きを読もうと椅子に座ると、手にあったタオルを彼女の瞼に乗せてやる。
 しばらくすると、ノックが響いた。
 入室の許可をすると、コーヒーの香りが漂ってきた。
 トレイにはコーヒーとおにぎり。
「キャプテン、朝から食べてないって聞いたんでもってきました。気が向いた時でいいので食べてください」
 言いながら、トレイをテーブルに置いたシャチは、サングラスの奥からとローを見やる。
「俺は食堂にいるんで、何かあったら言ってください」
「あぁ」
 シャチは何事もなかったように船長室を出ると、食堂へ足を向ける。
 うわっ、俺、見ちゃいけないものを見た気がする……! あれは凄いレアだ、ヤバイ、まじヤバイ!
 シャチは胸中で叫びながら、思わず走ってしまう。早く誰かに言いたくてウズウズする。
 今日ほど、サングラスをかけててよかったと思う日はない。
「ベポーーーー! ……と、ペンギン」
「なんだよ、その言い方!」
「いやいや、ベポよりペンギンだな」
 ペンギンが不満そうに言うのを無視して、シャチは一人何かをつぶやいている。
 ベポは「なに? ナニ?」と呼ばれたのに何も言わないシャチに困っている。
「スゲェの見た! 俺まじヤバイ。見たのバレたらバラされる……っ!」
 興奮気味のシャチに、ベポとペンギンは顔を見合わせる。
「ちゃんと説明しろよ」
「いやー、あれはヤバイ。すっげぇ、俺! よく耐えた!!」
「ねぇねぇ、何なの?」
 ベポの問いにようやく興奮がおさまったのか、ちょいちょいと手招きされる。
 近すぎるぐらい近づいた一人と一頭は、小さく声を発したシャチのその内容に固まった。
「あー……それは確かにヤバイ」
「えー! キャプテンは優しいよ?」
「いや、それはわかってるんだけど、あの船長が、だぞ?」
 シャチだって、船長が優しい人だと知っている。けれど、さっきのは半端じゃない。そんなレベルじゃないと力説する。
「俺はそんなこともあるんじゃないかと思ってたけどな」
 ペンギンは、彼を焚きつけた張本人だ。船長もその気でいただろうが、面と向かって「癪だ」と言われているペンギンとしては、早めに落ち着いてほしいと思っている。
 シャチが見たもの。それはいずれ、他の船員たちにも浸透するだろう。





          



  エナメル様 (お題配布サイト)