「ここはのどかだね」
呟きは、どこか寂しそうだ。
「のどかすぎて――やることがなさすぎて、気が滅入っちゃうかも」
ふぅ、とため息。
「、こんなところにいたんだね」
ふくよかな女将がやってきて、両手を腰にあてた。
「みんなが探してたよ」
「ごめんごめん。ぽかぽか陽気が気持ちよかったから」
言いながら微笑する。
「ほら、」
急かすような口ぶりに、は渋々上体を起こした。
町、というより『村』という方が近いのではないかというそこに、を知らない者はいなかった。
「ちゃん、今日はいいものが入ってね。これなんかどうだい?」
魚屋の前を通ると、そういった声がかかるのも毎日のこと。当然、八百屋の前でも肉屋の前でも、同じように声をかけられる。それに微笑して会釈しながら通り過ぎ、町を横断する。小さな町に出入り口は一つしかなく、裏は山になっていた。その山すそにある小屋がの家だ。だが、家はあっても、そこは『里』ではない。
一年前、彼女は裏山に倒れていたそうだ。ボロボロになった剣一本と、ボロの衣服で転がっていたのだ。見つけた猟師が慌てて連れ帰り、そして、今に至る。
「さん、帰っていますか?」
家の扉の向こうから、ゆったりとした声が聞こえてくる。
「ホウアン先生ですか?」
「ええ、そうです。中に入らせてもらっても、大丈夫ですか?」
「大丈夫です、・・・・・・お願いします」
彼女は扉を開け、彼を招き入れる。
ホウアン先生と言われた彼は、若いながらもしっかりとしていて、今はこの町のあたりを回診しているそうだ。そして、もお世話になっている。
「あれからどうですか?」
「――それが、さっぱり」
「・・・・・・そうですか。女性が一人、それもボロボロになってあの裏山に倒れていたと聞いたときには、本当に驚きましたよ。あなたを診察した際、さらに驚きましたが」
「はぁ・・・」
ホウアンは鞄から薬草といくつかの薬を取り出し、へと手渡す。それと一緒に一枚の紙も手渡して。
「リュウカン先生に呼び出されてしまいまして。今日を逃せばお会いできなくなるところでした」
彼は手渡した紙を見るように言い、更に言葉を紡ぐ。
「ここからは少し遠い道のりですから、あなたに何かあっても駆けつけることができません。ですから、これをお渡ししておきます」
紙には薬の調合が書いてあった。
「あなたなら調合もこなせると思います。傷薬ではありますが、あなたに一番必要なもののはずですから」
「――ありがとうございます」
は自分を気遣ってくれるホウアンに頭を下げる。
「記憶をなくされたまま生きていくには、勇気のいることだとお察しします。けれども、過去を振り返るだけでは前へ進めないことを、あなたは知っている。それだけで、生きていくには十分だと・・・私は思います。誰がどのように言っても、あなたはあなたです。他の誰にもなれるわけもなく、まして、誰かにかわってもらうわけにもいきません。――無理に思い出そうとすれば、あなたが壊れてしまうかもしれない。ゆっくりと、流れに任せてしまうのも一つの案ですよ」
ホウアンはこの家を出るために扉へ向かうと、後ろをついてきたを振り返ることなく言った。
「この町は本当に良いところですね。あまり長居をしすぎて、帰りづらくなってしまいます」
少し苦笑した気配が感じ取れた。
「ああ、今のは皆さんに内緒にしてもらえますか?」
扉を開く前に一度振り向き、ホウアンは苦笑したまま声を潜める。それにも苦笑して、わかりました、とこちらも声を潜めて言った。
「ありがとうございます」
「こちらこそ、お世話になりました」
「――先ほど言ったことと矛盾してしまいますけれど・・・・・・記憶が戻ると、良いですね」
ホウアンはそう言って、扉の外へと姿を消した。
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