目を開ければ、目の前に広がる景色は真っ白だった。
頬に触るのはふわふわの毛と、髪を撫でる肉球。
「、おはよ」
大きな体に抱き込まれていたようだ。
――そうか、昨日の夜、ベポたちに『意識落としても大丈夫?』って聞いたんだった。
「おはよう。ありがとな」
抱き込まれたままの状態で喋れば、くぐもった声になってしまった。
ベポの大きな手が頭を撫でて、背中をもう片方の手でぽんぽんとされる。
――これ、前にもされた気が……。あ、前はキャプテンだったな……。
「こうやってね、眠れないときにキャプテンがしてくれたんだよ」
ベポは言いながらそれを続ける。
「……そっか」
「キャプテン、昨日の夜に様子を見に来たみたいだよ。おれがここにいたし、ペンギンもシャチもいたから、中には入らなかったけど」
「……うん」
「まだ朝早いから、もうちょっと寝よ?」
「……ん」
がこくりと頷くと、ベポは少し嬉そうに笑った。その振動で、彼女にも伝わったようだ。
「なんで笑ってんだよ」
ベポに抱き込まれたまま文句を言えば、彼は笑ったままで言った。
「、可愛い」
「子供みたいって言いたいんだろ」
拗ねた口調のに、ベポは「違うよ」と言ってまた笑う。
「、可愛い。メス熊だったら、絶対離さないのに」
ぎゅっ、と白熊の両腕に抱き込まれて、は恥ずかしくて仕方がない。
「がちゃんと寝るまで起きてるから。……大丈夫だよ」
「ありがと」
は大きな体に抱きつき言うと、ゆっくりと目を閉じた。
さかのぼること、数時間前。
がベポの腕の中で意識を落としたとき、ローは村長の不在によって女たちの口撃を受けていた。
の気配が完全に落ちたことに気づいたが、彼は自分のまわりにいる女たちに強く出れないことに苛立ちを隠せない。
このままでは苛立ちを暴力に変換しかねないと、ペンギンは腰をあげた。
「ごめん、大事な話があるからキャプテンを戻してくれるか」
ペンギンは言うと、女たちに離れるように言った。何人かの女から文句が出たが、不機嫌と苛立ちを隠せなくなってしまったローと、口元に笑みを浮かべているが帽子に隠された目が笑っていないことに気づいたようで、そそくさと離れていった。
ペンギンはローの隣に腰をおろすと、持って来ていた酒瓶を煽る。
「アレが原因ですよ」
主語のない言葉だったが、ローは理解したようだ。
小さく舌打ちしたローは、手元にあった杯の中身を飲み干す。
「悪意や敵意だけじゃなく、欲の強い感情もダメみたいですね。……今はベポとシャチが一緒にいますから大丈夫です」
ペンギンが言いながらローを見れば、不機嫌そうな表情はそのままだが少し落ちついたようで、苛立ちは消えていた。
「アイツが自分で近づいてくるまで、キャプテンは近づかないでください」
「お前が俺に指図するのか」
皮肉げに言ったローの視線を、ペンギンは真っ向から受け止める。
「そんな状況に追い込んだのは誰です? アイツがシャチのところに来たときの顔を見たら、そんな皮肉なんてクソ喰らえって気持ちになりますよ」
「そんなに酷かったのか」
「酷いなんてもんじゃなかったですよ。マジ、ギリギリでした。自分から意識を手放していいかと聞いてきたぐらいですから」
――意識を保てないほど、の体は限界だったということか……。
「しばらく様子を見た方がいいと思います。今はベポが適任でしょう。本人も、今は俺たちの方がいいと言ってましたしね」
「そうか。……あいつのことはしばらくお前に任せる。――頼む」
ローは言いながらベポの背中に視線を向けた。彼の場所からの様子は見えない。
――の居場所になると決めたのに、このザマか。
船長という立場上、彼女だけを特別扱い出来ない。そんなことをすれば、の手配額はあっという間にあがり、海軍だけでなく、同業者や海賊狩りに目をつけられるだろう。
――四六時中そばにいられるなら、そばにいたい。他者に意識が向かないように、甘えることが苦手なをどうにかして甘やかして……。
ローは自分の思いを再確認して、苦く笑う。
――愛の言葉を囁くのは自分には無理だ。態度に表すのも苦手だが、それまでしなくなればは不安になるだろう。そう思って、できるだけ態度で示してきたつもりだ。
表情の乏しいローだが、付き合いの長いペンギンには彼の考えていることがある程度わかってしまう。
「俺は今のままでいいと思いますけどね。……はちゃんとわかってるし、自覚もしてます。そうでなければ、キャプテンが女に囲まれてるのが嫌だって理由だけで、こんな不安定になりませんよ。――愛されてますね、キャプテン」
羨ましいです。
ペンギンは言って酒瓶の中身を飲み、ローへ意味深な視線を投げかけた。
「でも、用心したほうがいいですよ。誰に取られてもおかしくないぐらい、お姫様は弱ってますしね」
ペンギンはローの不安を煽るように言って、意味深な視線と同様に、口元を緩める。
これでローがを完全に自分のものだと主張すればよし、しなければしないで、を攻略すべく動いてもいい。
『仲間』として、彼女には笑っていてほしい。に向けているペンギンの感情は、仲間というよりも家族へ向ける愛情に近い。
どちらにしても、ペンギンはを守りたいと思っている。シャチもベポも、もちろん、他の船員もだ。
「あいつは強いですから、きっとすぐに立ち直りますよ」
「……そうだといいが」
自分の過去が絡むとき、は急激に弱くなる。今までもずっとそうだった。虚勢を張ることはあるが、ローにかかれば霧散する。だが今回は、頼りのローが原因の一つとなってしまった。
ローはベポの後姿を視界に入れつつ、溜息を吐き出した。
それから数日の間、の隣にはいつもベポがいた。ベポがいないときは、ペンギンかシャチが見える範囲にいることが多い。
昼間は常に島へおりているローだったが、夜になれば船に戻ってきていた。他の船員は、宿に泊まる率が高い。
今日もローは陽が沈むころに帰船し、船長室に引きこもる。は船長室にある彼の気配を感じながら、毎夜、眠りにつく。
船が出航するまで、はコックの仕事ができない。これはこの船のルールで、ログがたまるまでの間がコックの休暇となるらしい。だが、今回はログがたまるまで一か月かかる。島に一人でおりる勇気が出ない以上、は時間を持て余してしまう。
深夜、ベポは見張り番で甲板にいるため、は一人で自室にいた。喉が渇いたためにキッチンへ行こうと扉を開けると、廊下の端にローがいた。偶然通りかかった、というには無理のある姿勢。壁に背を預けて両腕を組んだ姿勢で目を閉じているローを見つけて、彼女はどう反応していいのかわからないでいる。
宴があってから10日が過ぎていた。
が扉を開けたことに気付いたローは、目を開けると彼女を真っすぐに見つめた。目の下の隈が、今まで以上に濃くなっていることには気付くが、どう言っていいのかわからず黙ったままだ。
目をそらすことすらできず、は困惑する。こんな近くにローの存在を確認するのは10日ぶりで、いつも傍にあった体温が10日もの間、傍になかったのははじめてで。手を伸ばせば届く場所にいた彼が、こんなに遠く感じるのも――はじめてで。
手を伸ばして縋りついてしまいたい。ローに依存していると自覚していたけれど、たった10日傍にないだけで、これほどまでに――。
「……え?」
驚きに、声が零れ落ちる。
の視線の先にいたローが彼女の目の前にいて、弱い力で彼女の頭を抱き寄せていた。
「悪い」
ローの口から零れた声は安堵の息と共に吐き出されて、それと同時に頭にかかっていた指が離れていく。
「近づくなって言われていたのにな」
「え?」
ローの呟きは小さすぎて、の耳には届かなかったようだ。
「何でもねぇよ」
頭を抱き寄せていた指で髪を撫でると、ローは自嘲する。
「俺が怖いか?」
「怖くないです」
怖いのは、ローをめぐって争う女性たちだ。
「俺はこの海賊団の船長だ。その肩書きがおまえを苦しめる。お前が怖い思いをしていても、助けてやれないこともある。……この間のように」
「はい」
「今回のようなことが、他で起こらない保証もない。それでも、お前を手放す気はない」
幾度となく髪を撫でていた指をそっとの背中へ落とすと、少しだけ力をこめた。自分の胸へと抱き寄せて、ローはを両腕に囲い込む。
は囲い込まれた腕の中で、ローのシャツの裾をそっと握った。
「お酒に、強くなりたい」
「追々な」
「難しい?」
「ある程度は強くなれるだろうが」
「それでいい。今回みたいなことがないようになりたい」
アルコールで枷が外れたりしないように。
「酒を飲むのは、俺がいるときだけにしろよ」
「はい」
『この女には負けないわ』
『私の方が「彼」を満足させられる』
『この人が駄目なら、他の男性(ヒト)を誘おうかしら』
自分の過去に、泣きたいときがある。後悔することもある。けれども、五体満足で、シャンクスやマスター、キャプテンや船員(クルー)たちによくしてもらってる。きっと、自分は恵まれているのだろう。
だから、キャプテンをめぐって欲のぶつかり合いがあっても、卑しいとは思わない。そうしなければ生きていけない人もいることを知っているから。
でも、知っているからと言って納得できるわけではない。
――今の自分は、ハートの海賊団のコック兼戦闘員で、男だ。
あの宴の中、は自分に言い聞かせ続けた。
目の前で繰り広げられる光景は、大手を振って出来ない――の願望なのかもしれない。
は目の前にある胸に擦り寄る。猫が肌のぬくもりを求めるように。
すると、それに気づいた刺青のある指がゆるりと彼女の背中を労わるように撫でた。
「どうした?」
問う声に、少しの不安が滲んでいるのは気のせいだろうか。
ローの胸に額をつけたは、そっと深呼吸をする。
――ローの、匂い。
少しだけ消毒液の匂いが混じったそれは、の慣れ親しんだもので。
「」
名前を呼ばれて顎をあげると、ローは困ったような、心配そうな表情をしていた。
「キャプテンの匂いだなって、思って」
はぁ、とローは深いため息をつくと、彼女を抱く力を強めた。
「煽るな」
片腕で背中を抱き寄せ、もう片腕での頭を抱き、そして、自分の胸から顔をあげられないようにする。
「煽る?」
の問いは、ローの体に塞がれてくぐもってしまう。
「お前が煽るつもりがなくても、好きな女にそんなこと言われりゃ、その気になる」
さらりと言われた言葉に、は身動き一つ取れなくなった。
――好きな女。
どきどきと、心臓が痛いほど鳴っているのがわかる。きっと、ローにもこのどきどきは筒抜けになっているはずだ。
「お前がどこかに攫(さら)われやしねぇか、心配で仕方ない」
「そんなに弱くないと、思う」
「戦闘能力が云々(うんぬん)じゃねぇ」
「?」
どうやら、には通じないようだ。
「お前を「女」と認識する輩もいるってコトだ」
「さすがにそれはないと……」
「船の外に出るときは気をつけろよ。面倒だろうが気を張って、猫を被ってろ」
――聞いてないし。
自分が女と言われたことは、船に乗ってから一度もない。
「俺と一緒にいるときは特に注意していろ。自分じゃ気付いてないだろうが、イイ顔するようになったからな」
「イイ顔?」
「俺といるときは、よく泣いたりするだろ」
「それは!」
思わず力一杯言うと、ローが言葉の先を促す。
「キャプテンが泣かすから」
「お前は、泣くと感情を駄々洩れにするから、それがいいんだ。だから、この船の中でしか泣かせてないだろう?」
――違う「泣かせる」の意味も含めてだがな。
胸中で呟き、満足げに喉を震わせ笑うローの腹部に、は握りこぶしをぐりぐりと押し付ける。それを背中に回していた手を戻してローは拾い上げると、手を開かせてその間に自らの指を絡ませた。もう片方の指で彼女の前髪を払うと、あらわにした額に唇を押し付ける。
額へ、目尻へ、頬へ。ふわりと触れるだけのキスを落とし、最後に唇へと落とす。
「、俺と一緒に船をおりてみるか?」
「いいんですか?」
「昼の間は活動範囲が限られているからな、それを生業にしている女たちは」
綺麗に着飾った蝶々は、夜でなければ羽を広げることができないのだ。
「明日、お前が無事に起きれたらな」
「起きれるように手を抜いてください」
ローの言葉にがそう言うと、彼はにやりと意地の悪い笑みを浮かべた。
「お前を『抱く』とは一言も言ってないが……期待には応えてやらないとな?」
「―――ッ!」
真っ赤な顔をしたの耳へ唇を寄せると、ローは低く囁いた。
「お前を抱きたい」
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