涙だけは嘘を吐けない 3





 
 彼女はこれから、葛藤するのだろう。
 自分がローにされたように客観的に告げられれば、考えざるを得ない。
 堂々巡りする思考は、きっと彼女を翻弄するだろう。けれど、それが終われば、彼女の最強の味方になるはずだ。
 ローがの最強の味方であるように。



 思い出すのは過去ばかりで、眠れない体はの思考を蝕んだ。マイナスなことばかりを考えてしまうに、ローは言葉をかけるだけではなかった。
 手をのばし捕まえたを、ローは黙って抱きしめた。髪を撫でていく大きな手に、何度も泣きたくなった。

『泣いてすっきりすれば、今まで見えなかったものも見えてくる。何を掴んで何を捨てるのか――。後悔するのを怖がって全部掴んでも、いつかは捨てなきゃならなくなる。だったら、はじめから掴まなきゃいい。取捨選択はお前次第だ』

 髪を撫でる指が、の頭をそっと胸に抱き込んで、まわりを見えなくする。無意識に縋り付いたの指をそのままに、ローはただ、緩く抱きしめるだけだ。
 言葉なく、ただそこには沈黙が横たわる。その空間を震わせたのは、の嗚咽。

『涙は感情に左右されて出るものだ。喜怒哀楽、全部にな。――嘘は()けない』

 最後に落としたローの言葉が、の縋り付く指を強くさせた。

『泣き顔を見られたくないなら、このまま抱いててやるから』

 酷くなる嗚咽は、すぐに泣き声に変わった。
 まわりを気にせず声をあげて泣いたのは、あの日からはじめてで、声が出なくなるまで泣き続けた。
 最初から最後まで、ローは緩く抱きしめ、髪と背中を撫で続けた。それが、更に涙を誘う。けれど、無理に止めようとは思えなかった。


 この人が味方だと、心から信じられた瞬間だった。










「ようやく自分を出したな」
 ニヤリと笑う彼の嬉しそうな顔。
 そうしたのはあなたでしょう?
 そんなことを毒づく胸中は顔に出さず、わたしは彼の姿をみやる。
「俺が誰を連れてもどこ吹く風で近寄ってこなかったから、どうするかと思ってたんだ」
 彼はそう言いながら、わたしを椅子に座らせた。
「――けど、もうおまえの都合なんて気にしないことにした。俺のやりたいようにやる」
 彼は自信ありげに笑う。
 こうなってしまってはどうしようもないと、わたしは諦めることにする。どちらにしろ、この船は出航してしまっているし、戻れるはずもない。
 ……それに、認めたくはないけれど、帰ってくるたびに見ているだけだった彼が手の届く距離にいるだけでドキドキする。さっきまでわたしの手は彼に握られていたのだと思うと、体の奥が熱を帯びる。それと同時に困惑する。自分にはもったいない相手。こんな自分には、きっと似合わない。
 そんなことを思いながら、その部屋を見渡す。
「そこにある本は勝手に見ていいぞ。まぁ、おまえに見られて困るものは何もないけどな」
 部屋の壁にある棚にはぎっしりと本がつまっていて、背表紙を見れば、航海日誌の複写や医学書、航海術の本など、さまざまなものがあるようだった。
「とりあえず、今日はそのまま寝ろ」
「寝ろって言われても」
「枕が変わったら寝られないとか?」
「そうじゃないけど」
 寝ろと言われても、この部屋にあるのは彼の体よりも幾分か大きなベッドが一つだけ。寝具も当然、一つしかないだろう。彼のテリトリーにいるのに、自分がそのベッドを占領するわけにもいかないし、したくない。
「何か上着を貸してくれない?」
「今から寝るのに上着なんていらないだろ」
「わたしはどこか倉庫の隅でも貸してくれればいいから」
 上着があれば、倉庫でも眠れるだろう。
 元に戻った言葉遣いは、戻ったことに嬉しそうだった彼の顔が脳裏によぎって戻せなかった。
「何で倉庫になるんだ」
 急に不機嫌な口調になった彼は、わたしの体を抱き上げるとベッドへおろす。
「おまえはここだ。それ以外は認めねぇ」
「ここは……」
「俺のベッドだけど?」
 当然、と笑った表情に頬が熱くなる。
 わたしが好きなのを見透かされているよう。
 彼はわたしを上から見下ろすと、わたしの体の両脇に手を置いた。
 見上げる視線と見下ろす視線が絡まって、ほどくことができない。
「おまえの居場所はここだ。俺がおまえの全部を奪う。――ここに連れてきたのは悪かったとは思ってるが、後悔はしてない」
 見下ろす視線はあまりに真っすぐで、その視線と言葉に偽りがないことを認めざるを得ない。
「いい加減、認めろよ」
「な、にを……」
「ここに来たかったんだろ。海に出た俺を待つためにあの島に残ったんじゃないのか?」
自惚(うぬぼ)れないでよ」
 真っすぐに見つめられては、わたしは強がることしかできない。
 ずっと好きだった。この人の近くに居ては、いずれ離れていく彼を追いかけてしまう。だからわたしは、見ているだけにしていたのに。
 自分のテリトリーに入れることが怖いから、離れていくのが怖かったから――。
「言っただろ。お前の都合なんか知らないって。俺はお前が欲しい。ずっとこの船に居てほしい。俺の目の届く場所で、ずっと」
「なに、馬鹿なこと言って……」
「どうすれば信じられる? ここで手を離したら、お前は俺の前から消える。そんなのは嫌だ」
「嫌だって……あなたね……」
 彼の言葉にあきれてしまう。
 子供みたいなそれに、わたしは思わず表情を緩めた。
「わたしなんか(・・・)に構っても、いいことないわよ?」
なんか(・・・)、なんて言うな」
 言いながら、彼はわたしの隣に横になると、わたしの体を横に向けさせその首元に額を寄せた。
「今日はこのままいてくれ」
 まるで懇願するかのようなそれに、わたしは知らずに強張(こわば)っていた体を弛緩(しかん)させた。緩く絡められたわたしの指と彼の指。少し冷たいわたしの指が、彼の体温でじんわりとあたたかくなっていく。
 彼はわたしが何も言わなくなったのをに安堵したのか、寝息が聞こえてきた。
 首筋にかかる息がくすぐったい。
「――……ばか」
 そっと漏らした呟きは思ったよりも甘く響いて、わたしはひとり恥ずかしさにどきどきしながら、眠くなるまで彼の寝息を聞き続けた。











 強引なところも、時々、子供っぽくなったりするところもそっくりで、本当にピンポイントすぎるとは眉を寄せる。
「まさかこのあと、手配されたりしないよな……」
 小説なのに嫌な予感がする。この主人公が戦闘できるようには思えないが、どことなく自分に似ていることで、そう思うだけなのだろうか。

 倉庫の扉の向こうから、聞きなれた声。
「いつまでそこにこもってる気だ」
「え?」
 夜の食事と片付けを終えたあと、この元自室である倉庫に入って本を読んでいた。
「え? じゃねぇ。そこに入ってもうすぐ3時間だ」
「そんなに経ってたんですね」
 ポケットから懐中時計を取り出し確認すると、あと10分もすれば3時間になる。いつも2時間と決めていて、それ以上ここに居たことがないため、気になったのだろう。
 この船の中でも気にしてくれていることに恥ずかしくもあり、うれしくもある。
 何も考えずツナギのポケットに小説を突っ込んだは、元自室の扉を開けた。すると、目の前にあきれ顔の船長。
「おまえ、しばらくここにこもるの、禁止だ」
「え!?」
 ローは不満そうなの声に、小さな拳骨を頭に落とす。
(いた)っ」
「痛いようにしたから当然だな。お前は俺を心労で殺す気か」
「いやいやいや。心労って……キャプテンが?」
「ほーぉ」
 のツッコミにローの目が細められた。
 思わず漏れた本音に、ローはの腕を取ると歩き出す。船長室まで行くと中に入り、そのまま壁に押し付ける。
「キャ、キャプテン?」
 声の裏返ったの様子にローは満足げに笑い、押し付けていた体を解放する。
「俺がいいと言うまで、あの倉庫で長時間居るのは禁止だ。本が読みたきゃここで読めばいいだろう」
「――…わかりました」
 あの倉庫ばかりに居たから、ローはきっと心配しているのだろう。ここは大人しく言うことを聞くことにする。
「何があっても揶揄(からか)ったりとか、しないで下さい、ね」
 一応これだけはとが言えば、ローは満足げな笑みのまま言った。
「泣きたきゃ泣けばいい。笑いたきゃ笑えばいい。心を殺す必要なんてねえ」
 目を見開くの見上げる顔に、彼は触れるだけのキスを額に落とす。
「俺の前で強がることなんてねぇんだよ」
 何があっても受け止めてやるから。
 そう言外に言われている気がする。
「今日は大人しく寝ろ」
 はい、と小さく返事をして、はツナギを脱ぐ。
 ――あ、あのまま持ってきちゃったな。
 ツナギのポケットから取り出した文庫本を枕元に置くと、は布団に潜り込む。
 ローはまだ眠らないだろうと、部屋の明かりに背を向けて目を閉じた。










 その頃、麦わら海賊団の航海士と考古学者は、航海士の部屋でが読んでいる文庫本の話をしていた。
「それにしてもあの小説、本当、にそっくりね」
 ロビンの言葉にナミは「まあ、当然よね」と言葉を返してにやりと笑った。
「――何か知っているのね?」
「あの小説を書いてるの、私の知り合いなの」
 ナミは言って、テーブルに置いてある文庫本へ視線を向ける。
「何年かぶりに偶然、街で会ってね。次に書く小説のネタを探して旅してるんだって言ってたの。それで、何かないかって言われたから、の名前を出さずに、大まかに掻い摘んで言ったら気に入ってねぇ」
「作者さんはモデルがいることを知っているの?」
「私の知り合い、ということだけ言ってるわ。名前も容姿も知らないから大丈夫よ」
 ましてや、手配書があるなんて知るはずもない。
「だからあんなに似通ってるのね」
「似通ったのは偶然。だって、の性格まで具体的には言ってないし、私が話したのは、酒場の給仕の女の子が、海賊団の船長に誘われ船に乗ってコックをしてることと、恋愛が苦手っていうこと。それだけよ」
「それだけ?」
 ロビンの問いはもっともだ。
 ナミの言ったそれだけで、ここまでに似せることはできない。
「そうよ。それであれだけ似せられて、はじめて読んだときはびっくりしたわ」
「本当に偶然、なのね」
作者(あのコ)はね、ある程度最初の道筋が決まれば、あとは勝手に主人公(ヒロイン)が走り出すって言うの」
 ナミは両肩をすくめて小さく苦笑いする。
にはぜひ読んでもらって、泣いたり笑ったりしてほしいと思って、だから読ませたかったの」
「あの文庫本につけたカバーはお詫びの品なのね」
「……うん。本人には言えないから、かわりに、ね。本当はもっと明るい色や優しい色がいいんだけど」
「でも、そういう色だと、は持ちにくいでしょうね」
「そうね、だからあの色にしたのよ。とトラ男の()の色。それに気付いてくれてるといいんだけどね」
 3冊目のカバーは何にしようかな。
 ナミの言葉に、ロビンは薄く微笑んだ。










          
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