約 束  2





 
「丁度よかった、サンジくんも一緒にどう?」
 ナミの言葉に、はゆっくりと椅子をひいて腰をあげた。
「サンジ、私と交代してくれる? これから行きたいところがあるから」
 の口調も表情も穏やかだ。
 サンジにはそれが不審でたまらない。まるで自分を避けているように思えてしまう。
「どこ行くんだよ?」
 サンジの問いには反論することを許さない、そんな作った笑みが浮かんだ。
「内緒」
 じゃ、あとよろしく。
 そう置いて、は呼びかけるナミとサンジを半ば無視して、その店をあとにする。
「気になる? サンジくん」
「そりゃあ…ね」
 ナミを目の前にして落ち着いているサンジ。船の上でいるときとはまったく違う、その深い蒼。
「本当にのことが大切なのね」
 瞳の真剣さがまるで違うもの。
 ナミは呟いて苦笑する。それにつられるようにサンジは苦く笑って、今までの座っていた対面の椅子に腰をおろした。
「サンジくん、彼女はどうして『女であることを諦めた』のかしら」
「諦めた?」
「さっきまでと一緒にいて気づいたの。ちょっとだけ、サンジくんに手を出しちゃうわよ、って口に出したら、まるで私とあなたならお似合いね、っていう顔をするの。だけどその表情になる一瞬だけ、あの子は自分を卑下するような顔をしたのよ」
 まるで自分は、女であってはならないのだというように。
「私たちの目には、ちゃんと『女性』として認識できるくらい『女』なのにね」
「そうですね。…というより、俺にはレディ以外にはとても見えませんよ」
 去って行く後姿が雑踏の中に消えて行く。
「そうよね…。それじゃ、いい機会だし、作戦会議でもしましょうか?」
 ナミの言葉に、サンジは深く笑んだ。










 自分が女を捨てた――いや、捨てざるを得なかったきっかけがあった。
 最近は夢に見ることさえしなくなった。





 その日は雨だった。彼女のいた小さな村では、雨は『天の涙』と言われていた。
 田畑のある地方では恵みの雨と言われて喜ばれるが、この村ではまったく逆の意味としてとられている。
 雨は全てを洗い流す。
 長雨になると、地盤の緩い土地はすぐに崩れてしまう。
 ――雨が、もう3日も続いていた。3日以上続けば、どこかで地面が崩れてしまう。その年の雨は、一度降ったらなかなかやまず、一ヶ月前に降ったときも一週間以上も降り続き、犠牲となった土地も人間も多々あった。
 村一番のいい男。自分にはもったいないほど評判の良い彼は、彼女のことを妹のように可愛がってくれた。
 雨に濡れて帰途についていた彼女を見つけ、傘を差し出してくれた。
「この先の道はがけ崩れがおきそうだと言っていたから、少し遠回りだけど可能性の低い大きな通りから行け」
 彼はそういい置いて去っていこうとし、すぐに引き返してきた。
「送るよ」
「いいよ、一人で帰れる」
「何かあったら大変じゃないか。向こうの通りも結局は途中で細い道がある。一人より二人が良いだろ?」
「じゃあ、帰りは? あなたが一人になるじゃない!」
「大丈夫。俺は男だからな」
 心配するなと笑う彼。言い出したら聞く耳を持たない彼の性格を知っているから、彼女も諦めたように「わかった」とだけ言った。
「ほら、足元。気をつけて」
 彼は彼女の片手を引いて、足元に転がる岩を避けている。
 コツン……。
 頭に何か当たったような気がして見上げる。
、危ない……!」
 彼は頭上を見上げて叫び、自分と彼女の体位を咄嗟に入れ替え、その体を抱きこんだ。
「きゃぁぁっっ」
 鈍い音と共に、頭上より落下してきた土砂に、二人して飲み込まれてしまった。

 雨は、降り続く。

 彼女もそれなりの友人がいた。その友人たちが彼女が帰ってこないと言い、彼もまたいないことを知った。
 土砂があるその場所に辿り着いた村人たちは、慌てて二人がいるであろう場所を探しはじめる。
「いたぞ!」
 ピクリと指先が震えた。
 掘り起こされた二人。彼は彼女を覆うように――守るように、その身を犠牲にしていた。
「大丈夫か!?」
「あぁ…早、く……を……」
 声を出したのは彼で、彼女は気を失っているようだ。
は無事だ。安心しろ!」
「よか……た……。――に…ごめん……と……」
 絶え絶えの息で彼は言い、の体に倒れこんだ。
「タンカを! 早く!!」





 彼女が目を覚ましたとき、目の前に見えたものは。
「――どういう…こと……?」
 小さな村にある診療所のベッドの上。
 視線をぐるりと見渡せば、部屋の隅にある小さな木箱と写真たて。
「あぁ…ようやく目を覚ましたな。一週間眠っていたんだぞ」
 白髪の医者はそう言って彼女を見、その視線の先にあるものを見やった。
「彼から君への……預かりものだ」
 医者は小さな木箱を手に取り、上体を起こした彼女の手にのせた。
「ずっと渡したかったそうだが……渡せずにいたらしい」
 小さな木箱は、開ければオルゴールになっていて、中には小さな指輪が入っていた。
「――…私が前に欲しがってた指輪……」
 シンプルなデザインのそれは、宝石がついているわけでもない。ただのリングと言えばそれまでだが、この村にこういった類のものは売っていない。
「街まで行かないと売っていないのに……」
 彼女は呟き、両手でそれを包みこむ。
「私が甘えたりしたから……彼は死んだ」
「それは違うよ」
 静かに否定した医者に、彼女は叫ぶ。
「私が女でなければ、彼は私と一緒にいなかった。そうしたら彼は死なずに済んだ……!!」
 はじめて見せた、彼女の激情。
「誰も君を責めたりはせんよ」
「誰も私を責めなくても、私は私を責めるわ。おまえが殺したんだってね!」
 自嘲と共に、両肩が揺れた。瞳は写真の中の彼を見つめ、心は彼のくれた指輪を感じる。
 泣くことを我慢している姿。それは、雨がやむ3日後まで続いていた。





 雨のあがったその日、彼女はこっそりと村を出た。指輪は箱と一緒に引き出しの奥へと突っ込んできた。





 は指輪の存在を思い出しながら、街をゆっくりと歩いていた。
 この街は、自分のいた村の隣町で、つまり、彼から貰った指輪が売っていた場所だ。
「――この店……」
 は立ち止まり、店の前にあるウインドーに飾られている指輪を見やった。
 自分が置いてきたあの指輪とまったく同じデザイン。店は随分と儲かったのか、昔に比べると大きくなったような気がするが、その指輪だけは変わっていなかった。
「こんにちわ」
 ウインドーを眺めていれば、店主らしき人物が顔を覗かせてきた。
「それが気に入ったのかい?」
「……いえ……」
「それはな……特別に作ったものなんじゃよ」
 店主である老人はそう言ってから、中へ入るようにすすめた。
「いや、中には……」
「買わなくても構わんよ。ただ、老人の戯言を聞いてほしいだけじゃから」
「聞くだけでいいなら……」
 は老人の後ろをついていく。
 椅子をすすめられ、腰をおろす。テーブルには緑茶が置かれた。
「本当は、あれは二つで一つの指輪なんじゃよ。――片割れは誰かの手に渡っているようじゃが……二つの指輪を重ねると、それは金色に変わるようになっておる。あれはもう…五年ほど前になるかのぉ……」
 店主は茶をすすり、深く深く息を吐き出す。
「一人の男がやってきて、指輪が欲しいと言った。店にあるものは全部何かしらの飾りがついている。そんな飾りは何一ついらない、ただのリングが欲しいと言って、ないなら作ってくれと言った。金に射止めはつけぬと言ったその男は、大らかに笑ってこう付け足した。『いい女に渡すんだ』と。だが、ただのリングでは面白くないとわしが言えば、「じゃあ、同じリングを二つ作って、重なったときに色が変わるようにしよう」と、いとも簡単に言いやがっての。そんな難しいものはすぐには作れんといえば、時間がかかっても構わないと即答」
 それは間違いなく、自分と彼のことだと――は確信する。
「男は一ヶ月に一回、必ずここへ立ち寄るようになった。出来具合を自分の目で確かめたいと言い、仕事場にまで押しかけてきよった。まぁ、話していても面白いヤツだったから、悪い男ではなかったのだろうが。出来上がるのに半年かかった。ようやく仕上げたものの一つだけを受取り、男は「もう一つはまた取りに来る。それまで置いておいてくれ」と言って村へ戻って行った。だが、それから一ヶ月もしないうちに、男は死んでしまった。その『いい女』とやらを守ってな」
 命を張ってもいいと思うくらい、その女は良かったのだろう。
 老人は言って、ほっと息を吐いた。どこかへ吐き出してしまいたかったのだろう。自分の中だけに置き続けることが出来ないくらいに、老人の中で彼は『特別』だったのだろう。
「あの指輪を眺めている瞳を見て、わしは確信したんじゃよ」
 ――あんたが、その『いい女』なのだろう?
 びっくりしたように目を見開いたに、老人はくつくつと喉の奥で笑う。
「いかに男のように見せていても、内面までは変わらぬよ。男であろうとすればするほど、女というものはどこかに顔を出す。その灰色の瞳は、まるであの指輪と同じだ」
 老人は茶が冷えてしまったかの、と椅子から腰をあげた。
「金はもらっておるから、持って返ってくれないかね」
 わしの店にあっても仕方のないものじゃよ。男の望んだのは、女の元へとそれを贈ることだからの。
 湯飲みに茶をいれながら、店主はへと言うが、彼女は椅子から腰をあげて店主へと背を向けた。
「受け取れません、私には。――あの指輪も、もう……捨ててしまいましたから」
「嘘言っちゃいかんよ。……捨てたのなら、なぜあの指輪を見ていた? 未練があるから、目に止まる。気にしないでおこうと思えば思うほど、目に映る。今、手元に持っていなくても、どこかにはあるんじゃろう?」
 老人の目は、ごまかせないらしい。
「――あります。でも……そこへはもう……戻れませんから」
 だから、捨てたと同じことです。
「あんたが言うならそうなんだろう。……だが、あれはあんた以外に渡すつもりはないからの、取りにくる勇気が持てたなら――いつでも来なされ」
 の中にある葛藤に気づいているらしい老人は、ゆったりと、無言のまま微笑んだ。