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この闇と光/服部まゆみ

1998年発表 角川文庫 は10-4(KADOKAWA)

 まず、第120回直木賞の選評(本書についての評)はこちら(→「直木賞-選評の概要-第120回|直木賞のすべて」)です。

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 最初の『レイア 一』で、〈あまり現代的ではないヨーロッパあたりの王国で、父王と娘のレイア姫が兵士たちに幽閉され、侍女のダフネに世話をされている〉という、本書の読者が思い描くイメージ――その元になっている、語り手の“私”が認識していた“現実”は、物語が進むにつれて次々と崩壊していきます。すなわち、時代は現代であり、場所は(王国ではなく)日本であり、“レイア姫”こと“私”は男の子であり、“ダフネ”も兵士たちも非実在(“父”の演技)であり、“父”と“私”は誘拐犯と被害者であったという具合に、“私”にとっての“現実”がことごとく“虚構”だったわけで、トリックの有効範囲(?)がすごいところです。

 架空の王国の物語を作り上げ、それを“私”にとっての“現実”に仕立て上げた“父”のトリックは、“私”が知識や知覚に限界のある盲目の幼児であったがゆえに成立するもので、非常に面白いと思います。そして、盲目の幼児が相手とはいえ、また考える時間の余裕もかなりあるとはいえ、曲がりなりにも“現実”として通用する“虚構”が組み立てられているのが見事で、結果として“物語”の力を浮かび上がらせるトリックといえるのではないでしょうか。

 ちなみに、割とどうでもよさそうな細かい話ではありますが、このトリックは基本的に叙述トリックではない、と考えるのが妥当でしょう。
 例えば「この闇と光 叙述トリック - Google検索」をみると、叙述トリックと受け取っている向きもあるようで、(特に“私”の性別の誤認など)トリックによって生じる現象の一部が叙述トリックと類似すること*1や、一見すると“小説でのみ成立する(映像化できない)トリック”のような印象を与えること*2が原因かと思われます。
 しかし、本書で誤認を生み出す機構は叙述そのものではなく、その“一つ前”の段階――(“父”の嘘に起因する)語り手の認識(の誤り)であって、語り手はあくまでも認識したそのままを語っているにすぎないので、いわゆる“信頼できない語り手”ではあるとしても、叙述によるトリックとはいえないでしょう……閑話休題。

 しかしこのトリック、以下のように様々な手がかりがちりばめられているため、本書の読者にとってはかなりわかりやすくなっているように思われます。

・時代
 実のところ、これについては“父”の嘘によるものではなく、“私”も誤認しているわけではないと考えられる*3ので、これだけは叙述トリックといえます。むしろ、そもそも作者自身はここで読者を騙そうとする意図はなかったのではないか――とも思えるほどに、早い段階からあからさまな手がかりが示されています。
 例えば、カセット・デッキ(37頁)を皮切りに、テレヴィ(43頁)やCD(79頁)など、明らかに現代の装置などが登場しているのはわかりやすいと思いますが、それよりもっと早くに登場しているケチャップ(13頁)――その原料となるトマトが中南米原産であり、またバナナ(16頁)が東南アジアなど熱帯原産であることから、それらが普通に流通している現代(に近い時代)であることがわかります。

・場所
 まず手がかりとなるのは動植物で、作中で言及されているもののうちヒヨドリやメジロ(30頁)、藤(59頁)、桔梗や桐(60頁)といったあたりは、いずれも主に日本(をはじめとした東アジア)に特有のものです。どれか一つでも知っていれば十分ですが、それが数多く挙げられているので、舞台が日本であることに気づくのは難しくないのではないでしょうか。
 また、単なる“紫”ではない、藤色(59頁)や鳩羽色(60頁)といった色名はいかにも日本的で、大きな手がかりとなります。
 さらに、“文字の木札はそれぞれ五枚ずつあり、全部で三百九十枚ある。”(83頁)――つまり全部で78種類の文字の札があることもわかりやすい手がかりで、どう考えてもアルファベットではあり得ず、日本の仮名文字である蓋然性が高いでしょう。その内訳としては例えば、「あ」から「わ」・「ゐ」・「ゑ」・「を」・「ん」までで48種類、「が行」・「ざ行」・「だ行」・「ば行」・「ぱ行」を足して73種類、「ゃ」・「ゅ」・「ょ」・「っ」・「ー」を足して78種類、といったものが考えられます*4

・性別
 13歳になった“私”が“父”の夢を見ながら下着を濡らしてしまった際に、“父”は“おまえ、生理になったのだよ”(138頁)と告げていますが、本当に生理だったとすれば“新しい下着を穿いて、着替えなさい。”(138頁)で済むとは考えにくいですし、城下に出かけた“父”のお土産が“ズボンとシャツと靴”(142頁)だけで、生理用品がない(あるいは少なくとも言及されない)というのも無理があるでしょう。
 というわけで、実際には生理ではなかったと考えられること、にもかかわらず“父”がそれを“生理”だとごまかしたこと、そしてその時の“私”の状況を考え合わせると、“私”が下着を濡らしてしまったのは夢精だと考えるのが妥当で、“私”は男の子ということになります。

・“ダフネ”
 序盤から時おり、“父”と“ダフネ”の現れ方・消え方が怪しい場面が見受けられる(24頁など)のですが、決め手となるのは“私”が“ダフネ”に連れ出された際の、“通りすがりに「最近は男性も……」と笑いに紛れた小さな声が聞こえた。”(160頁)という一文。この“男性”に該当しそうなのは“ダフネ”しかいない*5ので、“ダフネ”は女性のふりをした男性ということになり、そうすると“父”と別人だと考えるよりも、一人二役の方が収まりがいいでしょう。
 ちなみに、“最近は男性も……”という言葉は、“ダフネ”の目印となっている沈丁花の香りの香水を揶揄(?)したものではないでしょうか*6

・“父”との関係
 “いつもは「王」か「国王」と呼ぶ”(164頁)“ダフネ”が、“私”を置き去りにする際に父親が来てくれるわ”(162頁)と呼んでいるのは、“父”とは別人である実の父親だと考えられます。とりわけ前項の一人二役を見抜いていれば、当の“父”本人が口にしていることになるわけですから、確実でしょう。
 ただし、読者がわかるのは“父”と“私”が親子でないことまでで、誘拐犯と被害者であることを示唆するはっきりした手がかり/伏線は見当たりません。

 このように数多くの手がかりが、しかも比較的目につきやすい形で配されているため、少し気をつけて読めばこの部分の真相の大半はわかるようになっています。これは、ミステリとしてフェアプレイを(過剰に?)意識した結果、難度を下げすぎてしまった――という見方もできるかもしれませんが、一方で前述の“誘拐犯と被害者”や、あるいは後述する“誘拐犯の正体と動機”などは読者が見当をつけようがないわけで、この部分だけフェアに手がかりを示すことを重視したとは考えにくいものがあります。

 多少の知識があればわかる手がかりを意図的に数多く盛り込み、あえて読者には通用しづらいトリックに仕立ててあるとすれば、一つ考えられるのは殊能将之『子どもの王様』と同じように、読者と作中の“私”との差異を強調する手法です。つまり、トリックを見抜くことができない“私”の限界――その原因となっている、“闇”と幼さを読者に強く印象づける狙いによるものではないでしょうか。と同時に、“私”が“父”に騙されていることを匂わせて、その後に待ち受けている“破綻”を予感させることで、サスペンスを高める効果もあるように思います。

*

 『レイア 一』のトリックがすべて明らかになった後は当然、誘拐犯の正体と動機が新たな“謎”として浮上してくるわけですが、それについてはほとんど何の手がかりもないまま、『レイア 二』で倒叙ミステリ風に誘拐犯の側から事件が描かれ、いきなり真相が明かされるのはミステリとして異色です。それでも、誘拐犯の正体が実力のある作家だったというのは、“私”にとっての“現実”となった架空の王国の物語を作り上げた人物にふさわしいですし、その記述から読み取れる動機――自分を育て、苛めた岩田フネの死が引き金となって、衝動的に大木怜を誘拐し、静かにさせるために“おまえは女の子だ”(273頁)と宣言し、そこから(フネに受けた仕打ちの代償行為(?)も兼ねて)“世界”を作り始めた――も、それなりに納得できるものとなっているように思います。

 もちろんこの『レイア 二』は、後に明かされているように怜による“作中作”であって、本書の作者(服部まゆみ)が直接保証する真相とはいえないかもしれませんが、「ムーンレイカー」の様子をみると、(捜査の過程こそ割愛されているものの)入念に調べ上げた末に怜が推理した“真相”であることは確かでしょう。そして、このような形になっているのはおそらく真相を曖昧にするためではなく、怜が推理した“真相”の詳細をあらかじめ原口孝夫(及び本書の読者)に伝えておくことで、最後の怜と原口の“対決”が冗長になるのを避けるためではないかと考えられます。

 いずれにしても本書では、それが事実であるか否かはさして重要ではなく、怜が“真相”として(それなりに)説得力のある物語を組み立てたことに重きが置かれている感があります。結末で原口が“レイア”(293頁)と呼びかけている*7ことも、怜の推理が事実であることを認めたと解釈できるかもしれませんが、それよりも(事実かどうかはともかく)原口がその“レイアの物語”に“乗った”ということこそが、怜にとっては重要なのではないでしょうか。

* * *

*1: 本書でも、少なくとも“私”と“父”の偽の親子関係については、叙述トリックだと考える方はまずいないのではないかと思われますし、それと同じく“父”の嘘によって性別の誤認などが生じていることを考えれば、叙述トリックでないことは納得しやすいのではないでしょうか。
*2: これはおそらく、“映像化”で一般的な“観客”視点の映像――三人称客観視点の映像をイメージしてしまい、視点のすり替えが起きているためで、小説のままの一人称視点――“私”の視点を(目が見えない時期も)忠実に再現した映像であれば、トリックは十分に成立するはずです。
*3: “私”が幼い頃は“現在”という認識でも十分でしょうし、年代に関して“父”が嘘をつくメリットはまったく見当たりません。
*4: “エィビースィ”(101頁)や外来語などを考えると、「ぁ」・「ぃ」・「ぇ」・「ぉ」も必要になりそうですが、どうもうまく数が合いません。また、“『ビー』は数字の1と3をくっつけた形。”(101頁)とあるからには数字も学んでいるはずですが、これは文字札とは別に数字札があったと考えてもよさそうです。
*5: “私”のことを指しているのであれば(子供なので)“男性”とはいわないでしょうし、“髪が短くなって”いる上に着ているのは“シャツとズボン”(いずれも152頁)なので、“男性らしくない”ところは特にないと思われます。
*6: この時点では“いつものスカート”の正体まではわからない――別荘では本当にスカートを穿いていたとも考えられる――としても、少なくとも“ダフネがいつものスカートを穿いていない!”(153頁)状況なのですから、その服装は“男性らしくない”ものではないと考えられます。
*7: 作者が片仮名で表記しているのはさておき、怜にとっては(音だけならば)ペンネームの“怜亜”と区別がつかなさそうですが、その直前には“怜君”(293頁)と本名で呼ばれたわけですから、原口の意図は伝わるでしょう。

2016.03.24読了