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エコール・ド・パリ殺人事件/深水黎一郎

2008年発表 講談社ノベルス(講談社)
[“表の事件”と“裏の事件”]

 本書では、一貫して暁宏之を“被害者”とする“密室殺人事件”が前面に押し出されていますが、それはあくまでも“表の事件”にすぎず、その背後には“裏の事件”である毒殺(未遂)事件が隠されています。本書のポイントの一つが、この隠された事件の二重構造であることはいうまでもないでしょう。そして本書では、“裏の事件”である毒殺(未遂)事件を隠すために様々な仕掛けが施されています。

・被害者の行動

 そもそも、毒殺(未遂)事件の被害者である暁宏之自身が、毒殺(未遂)事件を隠すという意図をもって行動しているというのがまず重要です。

 暁宏之が死んだ現場の密室が構成された経緯は、江草刑事による密室トリックの分類(137頁~141頁)にはうまく当てはまりません*1が、やはり“〈犯行時犯人も被害者も室内にいない場合〉の一変形、〈被害者が自分で施錠した〉というパターン”(254頁)の範疇に収まるもの*2ではあるかと思います。しかしその目的――自殺であることをはっきりさせること自体はどこかで見たことがあるように思いますが、司法解剖を回避するためという理由は、おそらく例のないものでしょう。

 なお、司法解剖の知識についてもそうですが、暁宏之がカドミウム中毒という事実を公にすることなく察知しているあたりにも、医学の心得があるという設定がうまく生かされています。また、暁宏之の行動の背景にある心理は、人間を単純に善と悪に割り切ることはできないという本書のテーマに合致しており、それによって説得力が高まっている部分もあると思います。

・密室の扱い

 暁宏之の自殺を“密室殺人”であるかのように偽装して物語の中心に据えることで、“裏の事件”である毒殺(未遂)事件を隠蔽するためのミスディレクションとする作者の企みも、非常によくできています。

 例えば歌野晶午『密室殺人ゲーム王手飛車取り』には“密室とアリバイはトリック界の飛車と角”(271頁)という表現がありますが、このように(本格)ミステリを代表するガジェット/トリックの一つである密室を、あえてミスディレクションとして使ってしまうという大胆な仕掛けは、あまり例がないように思います*3

 本書で暁宏之の自殺を“密室殺人”であるかのように見せているのはもちろん、暁宏之が予期しなかった絵画泥棒・小平三郎の出現であり、また彼が残した足跡です。暁宏之からすれば計画に予想外の齟齬が生じたわけですが、自殺から“密室殺人”へと形を変えながらも毒殺(未遂)事件がかなりのところまで隠蔽されるという結果になっているのが面白いところです。

 一方、警察の捜査において密室が重視されているのも見逃せないところでしょう。作中でも橘刑事の発言(141頁~142頁)があるように、現実的には警察の捜査では密室はさほど重視されないのではないかと思います。しかし本書では、容疑が濃い人物がなかなか浮かんでこないということもありますが、わざわざミステリマニアの江草刑事を配してミステリマニアの江草刑事に*4密室の分類をさせるなど工夫がされています。

 結局のところ、本書の密室はミスディレクションにすぎないこともあって、“捨てトリック”というほどのトリックも使われてはいませんが、それでも前述のようにその動機には十分に見るべきところがあり、密室ミステリとしてはユニークなものだといえるのではないでしょうか。

・「読者への挑戦状」

 「読者への挑戦状」“暁宏之を死に至らしめた犯人は誰なのか、また現場の密室はどのようにして作られたものなのか、その二つを当てれば充分である。”(219頁)という文章に仕掛けられたも秀逸です。

 まず“暁宏之を死に至らしめた犯人は誰なのか”という第一の問いの答えは、“当てずっぽうでもかなりの確率で当てることができる”と書かれている通り、登場人物の配置などからかなり見え見えです。一方、密室が構成された(理由ではなく)手段を問う“現場の密室はどのようにして作られたものなのか”という第二の問いについては、密室トリックも何もないのですから、決して面白いものとはいえません。

 もちろん第二の問いは、密室に読者の注意を向けるという仕掛けの一環ではあるのですが、いずれにしても本書の「読者への挑戦状」では、真相の最も重要なポイント(“裏の事件”としての毒殺(未遂)事件の存在)をあえて外し、真相の一部ではあるものの(それだけみれば)面白味のない答えだけを求めるという“奇手”が採用されているのです。

 ここで注目すべきは、二つの問いの組み合わせです。そもそも、第一の問いを素直に受け取る限り、暁宏之以外の“犯人”が存在するとしか解釈できないのですから、普通に考えれば第二の問いの答え――自殺した暁宏之が自分で施錠した――と整合しないことになります。仮に“自殺”という点を無視して、“(犯人にナイフで刺された)暁宏之が自分で施錠した”と解答――純粋に密室が構成された経緯だけみれば、もちろんこれでも正解といえるでしょう――した場合、暁龍子には暁宏之をナイフで刺すのが事実上不可能なのですから、今度は第一の問いに正解するのが難しくなります。

 つまり、「読者への挑戦状」の二つの問いは、本来あり得ない組み合わせであるわけで、その二つの問いの答えを“セットで”正しく当てることは、少なくともナイフによる刺殺とは別の犯行手段の存在、実質的にはほぼすべての真相を見抜かない限り、不可能に近いといえるのではないでしょうか。その意味で、フェアプレイを(ある程度)重視しつつ読者を強力にミスリードする、優れた仕掛けであると思います*5

[エコール・ド・パリ――『呪われた芸術家たち』]

 “エコール・ド・パリ”が題材として取り入れられ、暁宏之による美術書『呪われた芸術家たち』が作中作として挿入された本書には、『エコール・ド・パリ殺人事件』という“そのまま”の題名がつけられています。が、その『呪われた芸術家たち』や“エコール・ド・パリ”が事件の真相に深く関わっており、『エコール・ド・パリ殺人事件』という題名は単に“そのまま”なのではなく、本書の内容を適切に表したものであることがわかります。

・毒殺手段

 本書では、カドミウムという前代未聞の毒殺手段が使われています。具体的な症状までは覚えていなかったものの、かのイタイイタイ病がカドミウム中毒であることは知っていたので、『呪われた芸術家たち』の中の“このスーチンが特に好んだ絵の具は、カドミウム・イエローとカドミウム・レッドである。”(127頁)という手がかりと暁宏之の体に生じた異変を結びつけることができなかったのが悔しいところです。

 しかも、毒殺手段としてのカドミウムだけでなく、その入手経路――スーチンの絵画から採取した顔料――までが、『呪われた芸術家たち』の中に示唆されているところが非常に秀逸です。作中でも言及されているように入手が困難なカドミウムが、一見それとわからない形で目の前に転がっているという逆説的な真相も見事ですが、暁宏之が“エコール・ド・パリ”の画家、とりわけスーチンに魅せられているという設定が、事件の真相と不可分であるところがよくできています。

・動機

 犯行手段のみならず、犯行の動機の背景となる芸術家としての心理、そして芸術家に対する暁宏之の考え方が、『呪われた芸術家たち』の中に驚くほどストレートに示されているところにも脱帽です。そして、それを文章にまとめた暁宏之自身が、毒を盛られるまで身内の芸術家の心理に気づかなかったという皮肉が何ともいえません。

*

*1: いうまでもありませんが、江草刑事による分類が犯人と被害者の存在を前提としているためです。
*2: この点に関して、“通り魔事件など作中で黄色が要所要所で鍵を握っているのは密室のトリックを暗示するものとして機能させているのかもしれませんね。”「『エコール・ド・パリ殺人事件』(深水黎一郎/講談社ノベルス) - 三軒茶屋 別館」より;強調は筆者)という、実に興味深い指摘があります。
 “黄色”が毒殺手段であるカドミウム・イエローを暗示しているのはまず間違いないでしょうが、本書の〈被害者が自分で施錠した〉密室トリックは某有名古典((以下伏せ字)ガストン・ルルー『黄色い部屋の謎』(ここまで))に通じるものであるわけで、その意味では確かに密室トリックをも暗示しているといえそうです。
*3: 密室を――少なくともそれを構成する手段を――ミスディレクションに使った例として、すぐに思い出せたのが二作品。そのうち一つは、明かしてもあまり問題がないように思えるので、作品名のみ伏せ字で書いておきます。麻耶雄嵩の某長編((一応伏せ字)『夏と冬の奏鳴曲』(ここまで))です。
*4: 海埜警部補や館林刑事などと違って、江草刑事は前作『ウルチモ・トルッコ 犯人はあなただ!』には登場していません(多分)。
(2008.04.09追記)
 この点について作者の深水黎一郎氏からご指摘をいただき、あわてて確認してみました。
「読者が犯人なんていうミステリー、本当にあるのですか?」
「あるわけないでしょう」
「じゃあ香坂が言っている究極のトリックというのは?」
「勝手な思いつきですよ。たぶん」
 海埜警部補は腕組みし、うーんこれはどちらかというとエグサの領域だなと独り言のように呟いた。(後略)
(『ウルチモ・トルッコ 犯人はあなただ!』177頁~178頁;強調は筆者)
 このように、前作『ウルチモ・トルッコ 犯人はあなただ!』にも確かに江草刑事の名前が登場していますし、ミステリマニアであることまで示唆されているといえます。
 というわけで、上に書いた“わざわざミステリマニアの江草刑事を配して”というのは誤りなので、訂正しておきました。
*5: 「エコール・ド・パリ殺人事件 - 琥珀の坂」では、“犯人当てミステリとしては、問題編終了までの段階で絵画泥棒が殺害犯という可能性を完全には排除できていないのではないか。”(注:下線部分は引用元では伏せ字)と指摘されていますが、“作者がやはり古くからある約束事――ノックスの十戒――に従っている”(219頁)ことを考えると、“犯人は小説の初めから登場している人物でなくてはならない。”「ノックスの十戒とは - はてなダイアリー」より)という条件から、小平三郎が犯人である可能性は排除していいのではないかと思います。

2008.03.23読了