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螢/麻耶雄嵩

2004年発表 (幻冬舎)/幻冬舎文庫 ま3-2(幻冬舎)

(2008.11.07)
 引用箇所を幻冬舎文庫版に対応させるとともに、若干の追記・修正。

 本書の中心となる仕掛けの一つは、視点人物を誤認させる叙述トリックです。

 対馬つぐみが殺されたことを報じる記事(「プロローグ」)の後、第1章はつぐみへの想いをにじませる独白で幕を開け、次いで以下のようなやり取りが始まります。

「なあ、諫早。ファイアフライ館はまだか?」
 突然、後部座席から無粋な声が聞こえてきた。平戸だ。目の前に浮かんでいたつぐみの笑顔は、つぐみの思い出は、一瞬のうちに平戸の野太い声によって儚くもかき消されてしまった。……つぐみ。
(中略)
「起きたんですか、平戸さん。(中略)
 ハンドルをゆっくり右に切りながら、億劫げに諫早は答えた。(後略)
 (単行本11頁/文庫13頁〜14頁)

 このやり取りをみると、一人称と三人称が混在しているようにも受け取れますが、諫早視点の(内面描写も含めた)三人称と解釈することも可能でしょう。そしてその後の“対馬はそこの諫早の彼女だったんだよ”(単行本34頁/文庫43頁)という佐世保の台詞により、独白の主が諫早であるという解釈(=誤認)が補強されます。

 一人称を三人称に見せかけるという点では、いくつか前例のある、視点人物の存在を隠してしまうトリック(「叙述トリック分類」[A-3-1]視点人物の隠匿を参照)に通じるところがありますが、本書のトリックは客観視点からの描写を装うのではなく、視点人物の存在自体は強調しつつ別人と誤認させるものになっているところがユニークです(“真の視点人物”(=長崎)の存在を隠匿するトリックというべきでしょうか)。

 特に秀逸なのが第9章「千鶴」(と第12章「扉の鍵」)で、諫早と松浦の二人きりの会話の間に長崎の独白や台詞を割り込ませるという離れ業。(視点人物が諫早だと解釈した場合に)唯一違和感を覚えるのが、“「……先走っちゃだめだよ。千鶴。先走っちゃ」/ベッドに横になり優しく囁きかけた。”(単行本197頁/文庫243頁)という、一見すると唐突な展開に思える記述ですが、これはむしろ真相を暗示する伏線として意図的に配置されたものと考えるべきでしょう(ちなみに、“囁きかけた”という表現よりも、対象(聞き手)がその場に存在しなくてもかまわない“囁いた”の方がよりフェアではないかと思います)。また、長崎の盗聴癖という手がかりが自然な形で示されているのもよくできています。

 この叙述トリックを見破る手がかりは、小田牧央さん(「*the long fish*」)の「蛍の旋律に我々は如何にして幻惑されたか」で指摘されています(なお、リンク先の“p182”は“p183”の誤記でしょう)が、もう少し詳しく説明してみます。
 まず、最初の時点での部屋割りは“東つまり右側のAは大村、Bは松浦、Hは諫早の部屋。そして西側のEは平戸、Dは長崎、一番奥のCは島原だ。”(単行本54頁/文庫56頁)となっていますが、視点人物が翌朝“島原と部屋を交換したことを思い出した。”(単行本104頁/文庫127頁)と独白していることから、視点人物が諫早だったとすれば島原の部屋は東側奥のHになります。ところが、大村の部屋(東側手前のA)の前に現れた“犯人”を推理するにあたり、“松浦は通り道なんだから不思議でも何でもない。否定する必要もないわけだ。それより茄子クンは居てはいけない位置だったんだから”(単行本183頁/文庫226頁)とあることから、島原(茄子クン)の部屋はHではない、すなわち視点人物は諫早ではあり得ないということになるのです。
 さらに消極的な手がかりを付け加えるとすれば、上に引用した単行本11頁/文庫13頁〜14頁の記述で、車を運転している諫早がつぐみの思い出に没頭するのは不自然だ、という点でしょうか。もちろん、地の文に“長崎”という名前が記されていないことも手がかりとなり得るでしょう。

* * *

 もう一つの、そして最大の仕掛けはもちろん、松浦の性別を誤認させるトリックです。正確にいえば、作中の登場人物たちの大半が認識している性別を誤認させるトリックということになりますが、通常の叙述トリックとは逆に読者の側に真相が知らされているという例を見ないものです。

 読者にとっては、まず【登場人物表】に本名がはっきりと記されている上に、唯一真相を知っている長崎が地の文で一貫して“千鶴”と呼び、また女性であることに再三言及しているために、真相が否応なく頭に焼きついてしまうことになります。が、実際には会話の中では名字でしか呼ばれることはなく(もちろん“千鶴の彼氏”(単行本194頁)は“つぐみの彼氏”の誤りです→文庫では修正されています)、服装なども男性として通用するものになっています。何より、当の千鶴自身が男性を装っているのですから、登場人物たちが性別を誤認するのも当然です。

 島原が倒れた千鶴の服を脱がせようとするあたりは少々気になったのですが、すっかり騙されてしまいました。また、千鶴が男性を装う理由や長崎だけが真相を知っていた理由も納得できるもので、効果的なだけでなく説得力も十分に備わったトリックといえます。今となってはありふれた感のある性別誤認トリックですが、そこから新たな可能性を引き出す画期的な使い方といっていいでしょう。

 しかもこのトリックが単にサプライズを目的としたものではなく、事件の真相を解明するための手がかりに絡んでいるところが非常に秀逸です。

 島原が指摘しているように、真犯人の行動から“真犯人は、松浦が女である事実を知っていたのです”(単行本339頁/文庫418頁)という条件が導き出されますが、読者がそこまでたどり着いたとしても、性別誤認トリックに引っかかっている限りは犯人特定に十分な条件ではない(松浦が女であることが周知の事実だとすれば、容疑者を絞り込むことができない)ということになります。つまりこのトリックは、それが重要な手がかりであることに気づかせないという大きな効果を発揮しているのです。

* * *

 最後に、「エピローグ」(単行本350頁/文庫431頁)に記された“唯一の生存者である大学生”とは一体誰なのでしょうか。

 まず、新聞記事では“佐世保左内さん(25)と学生たち、合わせて七人の遺体が、十九日午後に発見された。(中略)ただし女性一人の身許はまだ判っていない。”と報じられていますが、学生一人が生き残っているのですから、七人の遺体の中にフミエもしくは小松響子が含まれていなければ数が合いません。したがって、この二人のどちらかが身許不明の女性の遺体ということになります(“学生たち”に含まれているのですから、年齢的にみてフミエの方でしょうか。土砂崩れの後、比較的短時間で地下の鍾乳洞まで捜索が行われるとは思えませんし)

 次に気になるのは、学生たちの中で唯一の女性である松浦千鶴ですが、彼女は弟の“松浦将之”の学生証を持っている(単行本340頁/文庫419頁)ので“松浦将之”と認識される可能性もありますし、また家族への連絡が行われるなどして“松浦千鶴”と判明することも考えられます。そしていずれの場合であっても新聞記事からだけでは生死が確定できません。なお、“身許不明の女性の遺体”が一人分しかなく、また生存者が“大学生”と確認されているのですから、学生証と性別が一致しない身許不明の女性として扱われる可能性はありません。

 そして男性陣については新聞記事にはまったく手がかりがなく、結局のところは土砂崩れ直前の時点で生き残っていた平戸・大村・長崎・島原・松浦の中の誰でもあり得るということになり、生存者を論理的に特定することはできません。

 そこで次に、登場人物の名前に盛り込まれた趣向――アキリーズ・クラブのメンバーの名字(佐世保・平戸・大村・諫早・長崎・島原・松浦・対馬)は長崎県内の市からとられており、また同様にヴァレンタイン八重奏団のメンバーの名字(加賀・金沢・輪島・羽咋・松任・珠洲・小松・七尾)は石川県内の市からとられています(松任市は本書の発表後、2005年2月1日に石川郡と合併して白山市となっています(「石川県 - Wikipedia」参照))――に沿って、作者の意図を推測してみます。

 10年前の事件では、ヴァレンタイン八重奏団の中で犯人の加賀だけが生き残っていますが、今回の合宿に参加したアキリーズ・クラブのメンバーに対馬を加えると八人となり、メンバー八人の中でただ一人だけが生き残ったという状況が共通しています。このような相似に、二つのグループを対応させるという作者の意図を読み取ることができるでしょう。つまり、アキリーズ・クラブのメンバーの中で“加賀”に対応する人物こそが、作者の意図した生存者だということになるのではないでしょうか。

 そして、ヴァレンタイン八重奏団のメンバーの名字、すなわち八つの市名の中で、“加賀”は石川県(の一部)の旧国名でもあるという点で特徴的です。となれば、アキリーズ・クラブのメンバーの方でそれに対応するのは、現在の県名でもある“長崎”でしょう。したがって、作者が意図した生存者は長崎直弥だと考えられます。

2006.09.05読了

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