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世界の終わり、あるいは始まり/歌野晶午

2002年発表 (角川書店)

 本書を読み終えた方はすでにお分かりのように、以下に引用する独白を境に物語は大きく形を変えています。

未来は運命ではなく、
神が賽を振った結果でもなく、
ましてや人から与えられるものでもなく、己の意志で切り拓くものである。
(181頁)

 この独白の直前、富樫修が雄介の机の引き出しから拳銃と銃弾を発見した場面までは作中の“現実”ですが、その後の「I」「II」「III」「IV」は、“*”という記号が付された部分を除いて富樫修の“妄想”だと考えられます(下図参照)。特に、死んだはずの雄介が“復活”する「II」、雄介が“ここにいる僕はお父さんの中に存在している”(355頁)という台詞を口にする「III」、そして富樫修自身が死んでしまう「IV」(の「17」)などは、明らかに“現実”ではあり得ません。

[『世界の終わり、あるいは始まり』の構造]
現実 拳銃発見まで
妄想 IIIIIIIV(「17」まで)IV(「18」)

 その“妄想”――雄介が連続誘拐殺人事件の犯人だと(ほぼ)確信した富樫修が、これからとるべき行動をシミュレートした結果――の中では、以下の五つの“結末”が示されています。

  1. 雄介が補導され、菜穂が誘拐されて殺害される(「I」)。
  2. 一家無理心中を図るも断念。しかし家族は殺害され、自分に容疑がかかる(「II」)。
  3. 雄介を追及し、その釈明を聞かされるが、それが嘘であることに気づく(「III」)。
  4. 雄介を殺害し、蓮見守に罪をかぶせようとするが、逆に殺される(「IV」「17」まで)。
  5. 雄介を殺害し、蓮見守に罪をかぶせようとするが、犯行が露見する(「IV」「18」)。

 一つの物語の中に複数の“結末”が存在するという構図は、アントニイ・バークリー『毒入りチョコレート事件』などのような多重解決に通じるようにも思われます。が、多重解決が(“解決”である以上)未解明ではあるものの確定した過去の出来事を対象とし、それに関する複数の仮説を並べることで“解決”(もしくは“結末”)の不安定性を強調する*1趣向であるのに対して、本書におけるそれぞれの“結末”はあくまでも確定していない未来の出来事のシミュレーションである点で大きく異なっています。

 本書で複数の“結末”が存在するのは、シミュレーションを繰り返して“前回”とは異なる行動を選択することで、好ましくない“結末”を回避して理想的な“結末”に至る道筋を探り当てるという、富樫修の意図によるものです。本書におけるこの“フィードバック・ループを通じた最適化のプロセス”は、西澤保彦『七回死んだ男』の物語構造に通じるところがあります。つまり、『七回死んだ男』における時間の“反復落とし穴”というSF設定に代えて、脳内でのシミュレーションという現実的な手段を採用したのが本書だといえるでしょう。

 しかし本書では、『七回死んだ男』よりもシミュレーションの“初期条件”が限定されているのが厳しいところで、何度繰り返しても理想的な“結末”にたどり着くことができず、本書の最後では富樫修は理想的な“結末”を模索することを半ばあきらめ、存在の不確かな“希望”にすがっているようにも受け取れます。富樫修が“世界の終わり”を食い止めようとするシミュレーションを放棄した時、“世界の終わり”が“始まり”を迎えたといえるのではないでしょうか。

*

 ここで、富樫修の“妄想”の内容を吟味してみたいと思います。

 まず、雄介の犯行が露見して補導されるという「I」は最も現実的な展開であり、そこから世間によるバッシングがエスカレートして最悪の結末に至ってしまうということも、決してないとはいえないでしょう。

 次の「II」では、一家で無理心中を図りながらも断念するという展開になっています。シミュレーションという本来の目的からすれば、ここで終わりになるはずなのですが、なぜか不可解な状況で家族が殺されてしまうという妙な事態が起きています。ただこれは、家族が死んで自分だけが生き残った場合にどうするかという別のシミュレーションが始まったと考えることができると思いますし、“*”以降の“せっかく誰かが家族を殺してくれたというのに”(321頁)という独白にもそれが表れています。そして自分でもそれが自己中心的な思考であることを十分自覚しているために、“復活”した雄介に責められるという結末になっているのでしょう。

 続く「III」では、雄介と対決して釈明させる――という形をとって、雄介が潔白であるという可能性を模索する方向へと進んでいます。望月成美という架空のクラスメートを証人として登場させているあたりも、どうにかして潔白であってほしいという思いの表れでしょう。しかし、日付という動かすことのできない事実によってすべてが破綻し、やはり雄介が犯人だという“真相”を受け入れざるを得なくなっています。

 それを受けて、「IV」では雄介を殺害して蓮見守に罪を着せようとすることになります。ここでの、菜穂が不倫の子であるという妄想は、蓮見守への殺意を強めるために導入されたものと考えれば理解はできるのですが、最終的な“結末”にはシミュレーションという当初の目的から逸脱した部分が見受けられます。

 まず、返り討ちに遭って自分が殺されてしまう「17」で、その後の顛末――蓮見守が遺書にトリックを仕掛けたり、利き手の問題で偽装自殺が見破られたりする点――まで妄想するのは、富樫修にとってはまったくの無意味といわざるを得ません*2

 また首尾よく蓮見守を殺した「18」では、いくつかの手がかりから自分の犯行が露見する寸前までいっていますが、手がかりの中で名刺の違いはともかくとして、掌に転写された文字は富樫修自身のミスといえるのかどうか微妙です。さらに蓮見守の人さし指の骨折は、倒叙ミステリとしてみればなかなかよくできた手がかりといえますが、富樫修の本来の立場からすればわざわざそんなものを導入する必要はまったくない*3わけで、無駄に設定に凝りすぎている感があります。

 結局のところ、「17」「18」ともに富樫修の心理にはそぐわないミステリの仕掛けが導入されているために、いわば“妄想としてのリアリティ”を欠いた状態となっているのです。

*

 ところで、ほとんど予備知識なしで本書を読んだ私は、一家が最悪の結末を迎える「I」を事実だと思い込んで(次の“*”まで)読み進めたのですが、そういう風に受け取ったのは私だけではないようです。以下、「taipeimonochrome ミステリっぽい本とプログレっぽい音樂」より引用。

妄想であると修正されたにもかかわらず、その最惡の事態を想定した妄想があまりに強烈な印象ゆえ、自分は後半部の物語を「殺人鬼の息子のために幸せ家族は一家離散、さらには娘までもがキ印に殺され小市民パパは遂に發狂、そしてこの耐え難い「事実」から逃れる為にパパは妄想ワールドで「ありえた筈の世界」にダイブ・イン」、……みたいなかんじで、物語を最後まで讀んでしまった譯です。

「「世界の終わり、あるいは始まり」のモヤモヤとした讀後感の原因を達人の技によって解明する」より

 このtaipeimonochromeさんのご指摘のように、「I」で描かれた内容が“事実”であり、その“事実”から逃れるために富樫修が“妄想”を始めた(下図参照)という可能性はないのでしょうか。

[『世界の終わり、あるいは始まり』のもう一つの可能性]
現実 拳銃発見までI
妄想1
妄想2 IIIIIIV(「17」まで)IV(「18」)

 同じようにローマ数字(I~IV)を付されたパートが同じレベルにないというのは、エレガントな構成とはいえないかもしれません。が、前述のように「II」「III」「IV」にはその内容が明らかに“現実”ではないことを示す箇所があるのに対して、「I」にはそのような箇所が見当たらないのが気になります。

 「I」が事実だとすれば、富樫修の“妄想”――シミュレーションは、“どうすればいいのか”ではなく“どうすればよかったのか”という、現実的にはまったく役に立たないものになってしまいます。この場合、いわばシミュレーション全体が無意味なのですから、先に指摘した難点もさほど意味を持たなくなりますし、むしろ“妄想”を引き伸ばすために余計なことまで考えていると解することもできそうです。そして本書の最後は、果てしなく続くべき“妄想”に訪れた小休止ということかもしれません。そう考えれば、本書は“現実世界の終わり”と“妄想世界の始まり”を描いた物語ととらえることもできるのではないでしょうか。

*1: その意味では、貫井徳郎『プリズム』の方がより適切な例かもしれません。
*2: 自分が殺された後のことを考えるのであれば、残された妻の秀美と菜穂の行く末を心配すべきではないかとも思えるのですが、不倫という設定を導入した以上、これもまた富樫修にとって無意味なのでしょう。
*3: 物語序盤、浮浪者(=蓮見守)が人さし指を骨折していること(加えてそれを富樫修が知っていること)をうかがわせる記述は見当たらないので、これは(「III」における日付のような)動かせない事実ではなく、妻の不倫と同じく富樫修が妄想に導入した設定だと考えられます。

2007.09.07読了