向日葵の咲かない夏/道尾秀介
本書では、死んだS君が蜘蛛に生まれ変わってミチオの前に現れるという、通常のミステリではあり得ない出来事が描かれています。読者は本書を、そのような出来事が起こり得る不条理な世界の物語として受け入れざるを得なくなっているわけですが、その主な理由(*1)はもちろん、“S君の生まれ変わり”をすんなりと受け入れているのがミチオだけではないからです。まさかそれらの“人物”たちまでもがS君と同様に“生まれ変わり”だったとは、思いもよりませんでした。
本書のメインの仕掛けとなっているのは、一人称の語り手による叙述トリックです(*)。
叙述トリックは情報の“送り手”が仕掛けるトリック(拙文「叙述トリック概論」を参照)ですから、一人称の語り手がその“語り”の中に叙述トリックを仕掛けることは可能です。ただしその場合、トリックの種類によっては著しくアンフェアなものになってしまうおそれがあることに注意が必要です。
というのは、一人称の語り手による叙述(誰かに読ませることを前提とした手記の形式を除く)では、一般的には情報の“受け手”が作中に想定されていないため、叙述トリックによって騙されるべき“受け手”は作品外に存在する読者のみということになりかねない――作中の登場人物である語り手が作品外の読者に向けてトリックを仕掛けるという不自然な状況を生じかねないからです。特に、語り手の内面描写の中で重要な事実が伏せられるということは、語り手が自身の内面を読者に読み取られることを自覚していることを意味するといっていいでしょう。
ところが本書では、そのような問題は生じません。語り手のミチオは、“生まれ変わり”という“物語”を信じるために、いわば自分自身を騙さなければならないのですから、その内面描写で重要な事実――例えば“ミカ”がトカゲであること――を伏せることにも心理的な必然性があるのです。
このように、本書は一人称の語り手による叙述トリックに必然性を付与することに成功した、稀有な作品といえるのではないでしょうか。
(ここまで)
本書がいわゆる“信頼できない語り手”に該当するのは確かですが、同時に叙述トリックも使われている――むしろ、“信頼できない語り手”を利用した叙述トリックである、と考えます(→拙文「叙述トリック概論#[6] 叙述トリックと信頼できない語り手」、特に[図6]の例を参照)。
まず“ミカ”については、ミチオにとって身近な存在であり登場する場面も多いために、最も複雑な仕掛けが用意されています。(本物の)ミカが死んだこと/ミチオにとっての“ミカ”がトカゲだということが隠されているのはもちろんですが、さらに母親にとっての“ミカ”(=人形)が登場することで“ミカ”の実在が裏付けられるとともに、人間だという誤認が補強されているのです。
以下、主に物語序盤からいくつか引用してみます。
ちょうど一週間前、国語の宿題で書いた自由作文が、今日、みんなに返却されていた。(中略)僕は、今年で三歳になった妹のミカが、お母さんのお腹から出てきたときのことを書いた。(後略)
(単行本10頁/文庫15頁)
ミチオとしては“生まれた”
とは表現できないので、いかにも叙述トリック的な微妙な記述になっているのですが、直前にある“今年で三歳になった妹のミカが”
と組み合わせてみると、流産だったという真相にはさすがに結びつきません。
「あらあ、スカートがしわしわじゃないの。駄目よ、ミカちゃんは女の子なんだからね。ちゃんとしていなさい」
お母さんは椅子の上に屈み込み、掌で払うようにしてスカートの端を伸ばした。(後略)
(単行本24頁/文庫40頁~41頁)
ここでは、母親にとっての“ミカ”(人形)が登場しています。当然ながら、ミチオにとっての“ミカ”とは別物なのですが、同じ名前で呼ばれるために読者は両者を混同することになります。結果として、“ミカ”が実在することが裏付けられる上に、“スカートをはいた女の子”だと印象付けられるのです。
この少し後の“ミカって呼ぶんじゃないよ!”
(単行本26頁/文庫43頁)という母親の台詞が、“(トカゲを)ミカって呼ぶんじゃないよ!”
という意味なのはもちろんですが、引用箇所の地の文に“ミカ”と記されていないことからもわかるように、ミチオの方も決して人形を“ミカ”とは呼びません。
「おい、いいのかよ、机に落書きなんかして」
隣の席のハチオカが、頭を低くして言った。
「何だそれ――ワニ?」
「何だっていいだろ」
「ああ、トカゲか」
「トカゲじゃない!」
僕は、思わず高い声を上げた。一瞬だけ、周囲の視線が僕たちに集まった。
(単行本6頁/文庫9頁~10頁)
後に“教室で、机の端にミカの絵を描いたのを憶えている。ハチオカにはワニだと言われたけれど。”
(単行本250頁/文庫431頁)と述懐している場面です。“トカゲ”だといわれてミチオが激高しているのもさることながら、“ワニ”との反応の違いも注目すべきところで、真相を示唆する伏線といえなくもないかもしれません。
(前略)雨水が入り込んで、中がどろどろになったゴミ袋を覗いてみたら、半透明のビニールの内側で、小さな蠅がぶんぶん飛び回っているのが見えた。しゃがみ込み、袋の口の結び目をほどいていると、背後でチン、と電子レンジが鳴った。
「お兄ちゃん、チャーハン」(単行本23頁/文庫38頁)
これは、電子レンジでチャーハンを温めている間のミチオの行動ですが、真相を踏まえてみれば“ミカ”の食事となる蠅を捕まえようとしていたということは理解できます。しかし普通に考えれば意味不明な行動であり、それゆえに真相につながるヒントともなり得るでしょう。ただし、その後の“もごもごと口を動かしながら、ミカが訊く。僕もチャーハンが口から洩れ出ないよう注意しながら”
(単行本23頁/文庫39頁)という記述によって、“ミカ”もチャーハンを食べているとミスリードされてしまいますが……。
なお、この箇所の意味がわかってみると、その後の“蠅が気持ち悪い?”
(単行本24頁/文庫40頁)という母親の台詞の意味もよくわかります。
“トコお婆さん”(=猫)については、ミチオだけでなく、“麺の小父さん”もまた生まれ変わりとして扱っているところがポイントです。もちろん、“麺の小父さん”の場合はミチオとは違って、より“一般的な意味”での生まれ変わりではあるのですが、それでも“トコお婆さん”の実在が補強されることになるのは、“ミカ”の場合と同様です。
もう一つ、ミチオから話を聞かされた古瀬泰造が、自分でニュースを見なかったために“まさか、死人が出ていたとは。”
(単行本220頁/文庫381頁)と勘違いしていることも、“トコお婆さん”が人間だという誤認をさらに補強しています。
生まれ変わった“スミダさん”は白い百合の花であり、当然ながら自力で動くことができないのですが、“スミダさんが女友達と一緒に入ってくるのが見えたとき”
(単行本91頁/文庫156頁)や“女の子は僕をちらりと見て、そのままスミダさんを連れて教室を出ていってしまった。”
(単行本94頁/文庫161頁~162頁)といった、ミスリードを誘う描写が非常に巧妙です。
また、以下に引用する場面もうまく考えられています。
(前略)小学生が、がやがやと集まっているその中に、スミダさんの姿を見た気がしたからだ。
「ミチオ君、どうしたの?」
「ねえ、あれ、スミダさんかな」
「どれ、どこ」
「ほら、あそこのテーブル……」
(単行本139頁/文庫240頁~241頁)
これは、ミチオと“S君”が図書館で“スミダさん”らしき姿を見かけた場面ですが、それより前、古瀬泰造が図書館を訪れた場面に伏線があります。
館内は、意外と混み合っていた。(中略)並んだ閲覧用テーブルのそれぞれに、白い百合の花が飾られていて、子供たちがそれを珍しそうに眺めている。
(単行本78頁/文庫133頁)
ミカ・トコお婆さん・スミダさんが“生まれ変わり”だということ自体が、このように作中で周到に隠蔽されているのは確かですが、S君についてのみ“生まれ変わり”がはっきりと示されていることで、他の“生まれ変わり”がより一層目立たなくなっているところもよくできていると思います。
S君の死体が消失し、生まれ変わった“S君”の頼みを受けて、ミチオは探偵活動に乗り出します。が、ミチオはS君を自殺させた“犯人”であり、また事件の真相を探るよう頼んできた“S君”もミチオ自身による産物であるわけで、“探偵=犯人=依頼人”という構図になっています。もっとも、“探偵=犯人”とはいえ完全な自作自演ではなく、死体の消失がミチオにとっても謎であるために、真剣に(?)謎を解くことになっているのが面白いところです。
まず、“S君”が“岩村先生に殺された”と告発する一方で、死体消失の“犯人”である古瀬泰造もまた『性愛への審判』の著者(=岩村先生)に疑惑を向けているあたりは、少々都合がよすぎる感は否めないのですが、その根底に岩村先生の特殊な性癖があることを考えると納得できなくもないところです。“S君”の告発も、ミチオ自身が岩村先生の趣味に思い当たるところがあった(単行本113頁~115頁/文庫195頁~198頁)からなのでしょうし。
S君の死体の発見と、S君の作文に隠された手がかりの発見を契機に、犬猫殺しがクローズアップされ、ミチオの探偵活動の対象が岩村先生から古瀬泰造に移っていきます。特に、ミチオがS君の母親からS君の秘密を知らされたことで、犬のダイキチが古瀬泰造に吠えかかったことの意味が明らかになり、手がかりとなっているのがよくできていると思います。
古瀬泰造がミチオに語った異様な物語――死体の足を折るという行為、そしてS君との奇妙な関係――は、何とも不気味なものを感じさせますが、その幼い頃の恐怖が合理的に解体された後に残る、“お爺さんは、死体の足を折りたかったんだ”
(単行本224頁/文庫388頁)という結論がさらに不気味です。
そして、そこからさらに古瀬泰造を追及するミチオのロジック、特に十枚目の地図を手がかりとしたロジックがよくできていますが、さらにその手がかりの読者への提示の仕方(以下の引用部分)も、実に見事だと思います。
お爺さんの膝の上の地図が、残り二枚になったところで、僕は訊いた。
(中略)やがてお爺さんは、膝の上から新しい一枚を手に取った。
「これが九枚目――最後の地図だ」(単行本211頁/文庫364頁~366頁)
ミチオと古瀬泰造の対決は、二人の“犯人”の対決であるとともに、二人の“物語作者”の対決でもあるわけで、西澤保彦の某作品((以下伏せ字)『神のロジック 人間のマジック』(ここまで))を思い起こさせるところがあります。そして、“物語をつくるのなら、もっと本気でやらなくちゃ”
(単行本240頁/文庫416頁)という凄みさえ感じさせる台詞を口にしたミチオが“勝利”したのは必然といえるのかもしれません(*2)。
最終的にミチオは、“お爺さん”の“生まれ変わり”であるカマドウマとの会話を通じて、それまで目をそむけてきた真相に直面することになります。
「お母さんね、先生から連絡がきてS君のことを聞いたとき、思ったのよ。――お前が□□□□□□□って」
(単行本32頁~33頁/文庫54頁)
母親がミチオを虐待している様子から、この台詞はてっきり“お前が死ねばよかったって”
だと思ったのですが、“お前がまた殺したんだって”
(単行本259頁/文庫447頁)という真相は、ミカに関する真実と相まって、より一層衝撃的なものになっています。
本書の結末では、ミチオは“お父さん”、“お母さん”(*3)、そして“ミカ”と会話していますが、長い年月が過ぎた後、本書の冒頭では“月日が経って、僕は大人になったけれど、妹はならなかった。事件のちょうど一年後、四歳の誕生日を迎えてすぐに、彼女は死んでしまった。”
(単行本3頁/文庫5頁)と述懐しています。さらなる“生まれ変わり”は起こらなかった、ということでしょうか。
*2:(2008.08.25追記)
「『向日葵の咲かない夏』(道尾秀介/新潮文庫) - 三軒茶屋 別館」では、このあたりの展開に視点の問題を絡めて
“三人称視点が一人称視点の中に取り込まれてしまいます。”と、面白い考察がなされています。ぜひそちらもご一読下さい。
*3: この場面では、“お父さん”と“お母さん”の二人は何に“生まれ変わって”いたのでしょうか。
2008.01.30読了