蛇棺葬(ノベルス版)/三津田信三
注:これは『蛇棺葬』ノベルス版のネタバレ感想です。文庫版のみお読みになった方はお戻り下さい。
最後に“私”が示した消失事件の解決には微妙なところがありますが、とりあえずはそれが“真相”であるとして話を進めます。
百蛇堂からの消失トリックのうち、密室はともかく消失そのものについては、いくつか似たような前例(*1)があることもあって、珍しく事前に見抜くことができました。“私”が310頁で回想している“足を、腕を、そして首を突っ込みたくなる衝動に駆られる。”
(258頁)という場面もそうですが、“荒縄の束はバラバラにして、残った桶の冷めた湯と一緒に湯灌口の格子穴に捨てた。死の穢れに触れた物は、兎も角全て格子穴の中に捨てるのだ。”
(278頁)という記述も大きな手がかりとなっています。それにしても、百蛇堂に特有の構造である湯灌口の格子をうまく使った巧妙なトリックといえるのではないでしょうか。
“私”の父が姿を消した第一の消失事件、義母の遺体が消えた第二の消失事件ともに、同じ消失トリックが使われたことになりますが、それぞれの事件の性格は大いに異なっています。
まず第一の消失事件では、非常に不可解な状況であるにもかかわらず、犯人の行動原理が実にシンプルであるところが目を引きます。百蛇堂が現場となった理由は「誰にも邪魔されることなく死体を容易に処分できる」というオーソドックスなものですし、棺桶口の錠前をかけて密室を構成した理由も「錠前をかけたはずの“大叔父”が問い詰められるのを避ける」――ひいては自分に疑いがかかるのを防ぐというごく単純なものになっています。もちろんその裏には、百巳家の権力と百蛇堂の怪異(の可能性)のせいもあって家出という曖昧な決着でも受け入れられるという確信があったのでしょうが、シンプルな行動がミステリ的に不可解な謎を作り出したという逆説的な真相が面白いところです。
一方、第二の消失事件ではかなり事情が違っています。そもそも、第一の消失事件とは違って、義母の遺体が消失したことを知っているのは、“私”をはじめとする百巳家の人々のみ。生きた人間の消失ではないために隠し通すことが可能だということもありますが、遺体消失の究極の目的が対外的に“民婆”の死を隠すことにある以上、、遺体の消失自体を公にすべきでないのは当然でしょう。結局のところ第二の消失事件のトリックは、“民婆”の死とそれを隠さなければならないという事情を告げられるべき人物、すなわち“私”ただ一人に向けて仕掛けられたものになっているのです。そして、第一の消失事件の真相を“私”に気づかせないために、“犯人たち”が真相を伏せて遺体消失事件を演出したという、二つの消失事件の微妙なつながりがなかなか面白いと思います。
“私”による解決の最大の難点は、やはりまったく検証されていないことでしょう。確かに状況がうまく説明されてはいるものの、それを裏付ける証拠は一切ありません(*2)し、最終的に“私”の要求を呑んだ叔母の態度も、さらに“大叔父”や“小叔父”の態度も、むしろ“私”の解決が誤っていることを示唆しているように思えます。
また、“私”が323頁で指摘している通り“小叔父”が“私”を百蛇堂から百巳家まで(誰にも知られずに)運ぶことができたとすれば、“民婆”の遺体も棺桶を使うまでもなく同様に運ぶことができたのではないか、という疑問も残ります。
ちなみに、三津田信三の後の作品『凶鳥の如き忌むもの』における“人間消失講義”では[四のニ:非協力者が現場に侵入し、内部で殺害と処理をし、自分だけが外に出た](251頁参照)に該当するもので、実際そこでも類似のトリックが検討されています。
*2: 強いて挙げれば、“大叔父”が棺桶口の錠前をかけることを他人(明言されてはいないものの、“私”の義母で間違いないでしょう)に任せたと認めている点でしょうか。ただしこれは、百蛇堂が密室状態でなかった可能性を示唆するにとどまり、そこから先の裏付けとはなり得ません。
2007.11.15読了