蛇棺葬
[紹介]
五歳になった私は父に連れられ、その実家である百巳家へとやってきた。妾の子としてそこで辛い日々を送っていた私は、ある日、屋敷内にあって不気味な雰囲気の漂う百蛇堂に迷い込み、得体の知れないものが這い寄ってくるのに遭遇した……。
……やがて年老いた祖母が急死し、百巳家に伝わる葬送百儀礼が執り行われることになった。だがその最中、喪主として百蛇堂にこもった父が、密室状態の堂内から忽然と姿を消してしまったのだ……。
……それから三十年近くが過ぎ、義母を看取るために私は再び百巳家へと戻ってきた。そして私は、かつての父と同じように、義母の遺体とともに百蛇堂にこもることになったのだが……。
[感想]
『忌館 ホラー作家の棲む家』・『作者不詳 ミステリ作家の読む本』に続く〈三津田信三シリーズ〉の作品ですが、本書には三津田信三は登場せず、一人称の語り手である“私”の体験談を綴ったものになっています。文庫版巻頭に掲げられた編集部からの注意書きの通り、本書は次の『百蛇堂 怪談作家の語る話』と密接な関わりのある作品――具体的にいえば、前二作における作中作にあたる部分を独立させた形であり、文庫版の帯に紹介されているように“三津田真三が聞いた話”(*1)として『百蛇堂 怪談作家の語る話』に続いていきます。
その“私”――この時点では正体不明である語り手の体験談は、「前話 百巳家の日々」と題された幼少期の思い出と、年を経て百巳家に帰還した際の葬送の顛末を描いた「後話 百巳家の葬送」の二部構成となっています。
まず前半の「前話 百巳家の日々」は、ホラーのための“場”の構築に力が注がれている印象。父親に連れられてなじみのない旧家に入るという冒頭からして“異界”への来訪という雰囲気が十分ですが、その百巳家では妾の子という立場もあって“私”が抱く疎外感は強烈です。唯一心を許せるのは、同じく百巳家で孤立した立場にある“民婆”という老婆のみで、その“民婆”が“私”に語って聞かせる怪異や伝承が、“ホラージャパネスク”という惹句にふさわしい雰囲気を高めています。
さらに百巳家の外に目を向けると、地域の人々が口にする「……け」という語尾の方言が独特の不気味な印象を与えているのが目を引きますし、これまた様々な怪異が伝わり禁忌とされる百々山をめぐるエピソードが思いのほか物語の中で重要な位置を占めており、百巳家のみならずその外側にいたるまでしっかりと“場”が構築されているところが見事です。
そして中心となるのは、百巳家の中にあって最大の禁忌とされている百蛇堂。“私”がそこに迷い込んで恐るべきものに遭遇する場面の恐怖は特筆ものですし、密室状況からの父親の消失という怪事件は、直接的な恐怖を与えるものではないとはいえ、百蛇堂という“場”の忌まわしさを印象づけるに十分なエピソードです。
続く後半の「後話 百巳家の葬送」では、百巳家を離れて成長した“私”が、三十年近くの時を経て再び百巳家を訪れることになります。“私”がまだ幼い子供だった「前話 百巳家の日々」と比べると、“私”が大人になっていることもあってそれほど“怖い”という印象は受けないのですが、それでもさすがに“私”自身が喪主として百蛇堂にこもる段になると話は違ってきます。義母の遺体とともに百蛇堂で一晩を過ごすというだけでも壮絶ですが、そこにかつての“私”自身の恐怖体験と父親の消失事件がオーバーラップすることで、読者の感じる恐怖も実に凄まじいものになっています。そして、再び不可解な消失事件が発生するのですが……。
ノベルス版ではここでいささか唐突に密室ミステリへと転じ、随所に割り切れないものを残しながらも一応の合理的な解決が示されている(*2)のに対して、文庫版ではすっぱりと謎解きが削除されている(*3)のが目を引くところ。これは文庫化に際して本来の形に戻された(*4)もので、最後まで理に落ちることなく一種の“実話怪談”として完結しています。また、文庫版では全体的にかなり文章に手を入れてあり、結果としてノベルス版よりさらに怖くなっている印象も受けます。
いずれにしても、本書単独でも読むことができるとはいえ、色々と気になる部分が残るのは確かで、(同じく文庫版が刊行された)『百蛇堂 怪談作家の語る話』と併せて読むことでより楽しめるのは間違いないところです。
“怪談作家が聞く話”という副題が付されていたように記憶しています(現在手元にある第二刷にはありませんが)。
なお、巻末の参考文献や文庫版のラストでは、この体験談が原稿にまとめられたことが示唆されており、次の『百蛇堂 怪談作家の語る話』では作中作としても扱われることになります。
*2: というわけで、ノベルス版のネタバレ感想はこちら。
*3: 上記ノベルス版のネタバレ感想は、文庫版では削除され、『百蛇堂 怪談作家の語る話』に移された謎解きについてのものなので、本書の文庫版のみお読みになった方はご覧にならないよう、くれぐれもご注意下さい。
*4: 「2008本格ミステリ・ベスト10」(原書房)に掲載されたインタビューでは、
“編集部の方から、『蛇棺葬』にミステリ的なオチをつけて下さいと注文が出て、(中略)もともとは『百蛇堂』の中で飛鳥信一郎が試みた解釈のひとつを、やや無理に『蛇棺葬』の「解決」としたわけです。”(113頁)と説明されています。
2007.11.15 ノベルス版読了
2013.10.20 文庫版読了 (2013.10.21改稿) [三津田信三]
【関連】 『忌館 ホラー作家の棲む家』 『作者不詳 ミステリ作家の読む本』 『百蛇堂 怪談作家の語る話』 / 『シェルター 終末の殺人』
百蛇堂 怪談作家の語る話
[紹介]
その男――龍巳美乃歩の語る、百巳家という旧家の百蛇堂にまつわる長い話がようやく終わった。聞き手をつとめた三津田信三はその話に強い興味を持ち、後日あらためて龍巳に連絡を取り、実話怪談として出版するために原稿を依頼する。だが、百巳家のある村の周辺で起きた児童失踪事件のことを口にした途端、龍巳はなぜか態度を変えてしまった……。
……やがて龍巳から三津田のもとに、百蛇堂にまつわる体験談を綴った原稿が届けられる。しかし、その原稿を読み始めた三津田の周囲に、奇怪な現象が起こり始める。さらに、興味を持って原稿のコピーを読み始めた後輩編集者が恐るべき怪異に遭遇し……。
[感想]
“長い長い男の話はいつまでも続いた――”
(*1)という一文で始まる本書は、聞き手であった三津田信三を(『忌館 ホラー作家の棲む家』・『作者不詳 ミステリ作家の読む本』と同様に)主役とし、前作『蛇棺葬』をいわば“作中作”として取り込んだメタフィクショナルなホラーであり、〈三津田信三シリーズ〉の集大成ともいうべき作品です。
ノベルス版のカバー見返しに、“先の『蛇棺葬』の出版に当たって、あの話を巡って起きた奇怪な出来事の顛末を綴ったのが本書です。”
(下線は実際には傍点)と記されているように、本書の冒頭では、三津田信三が聞き終えた龍巳美乃歩の長い体験談が『蛇棺葬』として出版されるまでの経緯が描かれています。“三津田信三”を取り巻く“現実”が作中に取り込まれているのは『忌館 ホラー作家の棲む家』と同様ですが、本書ではすでに三津田信三が作家としてデビューを果たしていることで、描かれる“現実”の中に読者も知っている実在の人物などがちらほら登場し、より“現実的”に感じられる部分があります。
また、『忌館 ホラー作家の棲む家』で三津田が連載する怪奇小説「忌む家」や、『作者不詳 ミステリ作家の読む本』で三津田が読んでいる同人誌『迷宮草子』が、あくまでも作中作という形にとどまっているのに対して、本書で作中作として扱われる龍巳美乃歩の原稿(とされるもの)は、すでに『蛇棺葬』として実際に出版されている――問題となる龍巳美乃歩の原稿(と同じ内容のもの)が現実に存在するわけですから、本書は作者の指向するメタフィクションの理想形(おそらく)に最も近づいた作品といえるのではないでしょうか。
しかもその原稿が、実際の体験に基づく実話怪談という体裁を取っており、さらに編集者としての三津田信三がそれを出版しようとしている様子が描かれることで、『蛇棺葬』の作中/本書の作中/現実という三者の境界線がかなり曖昧なものになっている感があります。また、本書の要所要所に『蛇棺葬』(の原稿)から抜粋された文章が切れ目なしに挿入され(*2)、原稿と現実との“混沌”を一層助長しているところも見逃せません。そのせいもあってか、原稿を読んだ三津田らの身辺に起きる怪異には、今まで以上に身近に迫ってくる存在感のようなものがあり、一際恐ろしいものに感じられます。
その一方で、文庫版『蛇棺葬』ではほぼ完全に謎のまま残されている密室からの消失事件について、おなじみ三津田信三の友人・飛鳥信一郎(*3)が合理的な解釈を試みている(*4)のをはじめ、本格ミステリ的な推理にも力が注がれているのが大きな見どころとなっています。もっとも、物語が進んでいくにつれて、怪異(に見える現象)を合理的に解体しようとする推理から、“怪異のロジック”を解き明かそうとする推理へと次第に転じていくあたりは、やはり純然たるミステリではなくあくまでもホラー・ミステリであるということを強く主張している印象です。
『忌館 ホラー作家の棲む家』や『作者不詳 ミステリ作家の読む本』を読んでいればおおよそ見当がついてしまう部分もありますが、それでも最後に示される“真相”の一つには唖然。そして結末、さらにあとがき代わりの「蛇足」――例によって作品の一部になっているので、本文より先に目を通すことのないよう、くれぐれもご注意下さい――に至るまで、何ともすさまじいことになっています(*5)。前作『蛇棺葬』と併せて、“メタ・ホラー・ミステリ”の傑作といっていいでしょう。
“長い長い男の話は終わった――”となっていますが、いずれも(それぞれの版の)『蛇棺葬』の最後の一文に対応するものです。
*2: 書体を変えてあるので、どこからどこまでが『蛇棺葬』からの文章なのかわかりやすくなっており、またその筆文字風の書体が何ともいえない禍々しさを放っているところが効果的です。
*3: 文庫版では、
“非公式ながら(中略)いくつかの迷宮入り事件を解決に導いた素人探偵としての顔もあった。”(46頁)との紹介が追加されており、ニヤリとさせられます。
*4: ノベルス版ではその一部が『蛇棺葬』の最後に、龍巳美乃歩自身の推理として盛り込まれていました。
*5: 文庫版ではさらに、巻末の柴田よしき氏による解説でも、本篇の内容を踏まえた趣向が凝らされています。
2007.11.16 ノベルス版読了
2013.12.27 文庫版読了 (2014.01.10改稿) [三津田信三]
【関連】 『忌館 ホラー作家の棲む家』 『作者不詳 ミステリ作家の読む本』 『蛇棺葬』 / 『シェルター 終末の殺人』
ベローナ・クラブの不愉快な事件 The Unpleasantness at the Bellona Club
[紹介]
休戦記念日の晩、戦死した友人を悼む晩餐会に出席するために、ピーター卿はベローナ・クラブを訪れた。だがそこで、クラブの古参会員であるフェンティマン将軍が、誰にも気づかれることなく椅子に座ったまま死んでいる場に遭遇する。しかも事はそれで終わらず、さらにややこしいことになってしまう。将軍と絶縁状態になっていた資産家の妹が、兄が自分より長生きしたら莫大な遺産の大部分を兄に遺し、逆の場合には被後見人の娘に大半を渡すという遺言を残して、偶然にも将軍と同じ日に死んでいたのだ……。
[感想]
貴族探偵ピーター・ウィムジイ卿を探偵役とした第四長編。『ベローナ・クラブの不愉快な事件』という題名の通り、英国のクラブで起きた変事が発端となっていますが、例えばリチャード・ハル『他言は無用』ほどクラブがクローズアップされているわけではないのは、運営側ではなくあくまでも会員であり、なおかつ活動的な人物(*1)であるピーター卿が主人公だからでしょうか。
それにしても、その発端――急死した古参会員に誰も気づかず、数時間もの間放置されていたという何とも不条理な状況がまず秀逸。しかもそれが犯罪の捜査ではなく、遺産相続に絡んだ死亡時刻の特定という一風変わった謎解き(*2)に発展するところが、非常に面白く感じられます。このあたりは、黄金時代のミステリとしてはかなり異色の謎で、当時としては斬新(*3)だったのではないかと思われます。
しかしながら、ミステリとしては竜頭蛇尾という感じになってしまっているのが残念なところ。事件の構図が少しずつ見えてくる後半になると、物語は次第に面白味を欠いたものになっていきます。というのは、少なくともすれた読者には中盤以降の展開と真相がかなり見えやすくなっているためで、可能な限りひねりは加えてあるにせよ、物足りなく感じられるのは否めません。
それでも、事態をめぐって繰り広げられる悲喜こもごもの人間模様で、最後まで面白く読ませてしまうのはさすがというべきか。すべてが解決した後の、エピローグにあたる「勝負のあと」も、予定調和的とはいえ実に感慨深いものがあります。前述のようにミステリとしては物足りない部分がありますが、少なくともシリーズのファンならば必読でしょう。
*2: 本書の後には、同じような謎を扱ったシリル・ヘアー『いつ死んだのか』のような作品もありますが。
*3: 「東京創元社|ドロシー・L・セイヤーズ」にも、本書について
“A氏とB氏、どちらが先に死んだか、それが遺産相続問題の行方を左右するという問題を扱った、たぶん最初期の例だと思います。”と記されています。
2007.11.23読了 [ドロシー・L・セイヤーズ]
リピート
[紹介]
大学生の毛利圭介のもとに、一本の電話がかかってきた。相手の男は名乗りもしないまま、“今から約一時間後に地震が起きる”と告げる。その地震予知は見事に的中し、その後再びかかってきた電話で風間と名乗った男は、現在の記憶を持ったまま過去の自分に戻る“リピート”という現象について説明する。何度も“リピート”を繰り返しているという風間は、ゲストとして“リピート”に参加するよう、毛利に持ちかけてきたのだ。かくして、年齢も立場もばらばらなゲストたち九名が集められ、風間とともに過去へ――約十ヶ月前の一月十三日へと旅立った……。
……だが、過去の自分へと戻った彼ら――“リピーター”たちは、“リピート”前には起こらなかったはずの事故や事件で、次々と不慮の死を遂げていく。“リピート”の秘密をかぎつけた何者かが“リピーター”の命を狙っているのか、それとも……?
[感想]
“『リプレイ』+『そして誰もいなくなった』”というキャッチコピーの通り、現在の記憶を持ったまま過去に戻って人生をやり直すというケン・グリムウッド『リプレイ』(*)風の設定と、総勢十名のメンバーが一人ずつ殺されていくというアガサ・クリスティ『そして誰もいなくなった』風のプロットを組み合わせたタイムスリップSFミステリです。時間反復SFとミステリを融合させた作品といえば西澤保彦『七回死んだ男』が思い浮かびますが、本書もそちらに勝るとも劣らない傑作といっていいのではないでしょうか。
簡単な“タイムスリップSFガイド”ともいえそうな大森望氏の解説で多くの作品が挙げられているように、タイムマシンなどによらない意識のみのタイムスリップを扱った作品は、SFとしてはすでに定番といっても過言ではありません。その中にあって、本書の“リピート”に関する設定で目を引くのが、(1)特定の日時・場所で起こる現象であること、(2)何度も反復可能であること、の二点です。属人的な現象ではないために不特定の複数の人間が体験可能であり、しかも反復するか否かを自分の意思で選択可能となっているのが、この種の作品では珍しく感じられます。
その結果として本書では、“リピート”を何度も経験している人物(風間)が、未体験の“ゲスト”を“時間旅行”に誘うという状況が生じています。主人公が“リピート”を実際に体験するまでにかなりの分量が割かれているのですが、風間がゲストたちを説得するプロセスがしっかりと描かれていることで、日常的な現実から始まる物語の中に放り込まれた特殊設定を十分に“なじませる”効果があると思いますし、また読者に対する(特殊設定の、ではなく物語としての)説得力が増している感があります。
かくして“リピート”に成功した“リピーター”たちは、それぞれに人生のやり直しを始めますが、内面まで描かれている主人公を除けば、どのように人生をやり直そうとしているのかあまり見えてこないのが難といえば難でしょうか。ただ、作中でも言及されているカオス理論のことを考えると、やり直しがなかなか難しいのも事実。マクロな出来事はともかく、自分の身近で起きるミクロな出来事に関しては、些細な改変であってもどこまで大きく影響するのかわかりませんし、未来の記憶を持っているという“リピーター”としての優位性(一般人に対しての)が損なわれかねないということになるのですから。その意味で、作中で風間が“ゲスト”たちに、“リピート”以前の生活をあまり変えないようにと注意しているところなどはよく考えられていると思います。
物語後半、“リピーター”たちが一人ずつ死んでいくことで、一気にミステリ色が強まります。ここで秀逸なのが、作中で“ミッシング・リンクの逆パターン”
と表現されている逆説的な謎で、一見バラバラに見える被害者たちの間に“リピーター”というつながりがあることが当事者たち(及び読者)にはわかっているのですが、当然ながら“リピート”自体が当事者たち以外には秘密にされているため、第三者が“リピーター”というつながりを知り得たはずがないということになるのです。“リピーター”たちの疑惑はやがて“リピーター”同士に向けられ、いわば心理的なクローズド・サークルが形成された状態となります。このあたりも、『そして誰もいなくなった』に通じる面白さを備えているといえるでしょう。
終盤に明らかになる真相は、こちらの予想を超えた強烈なもの。巧みな設定の陰に隠されていた盲点を突くかのような事件の真相もさることながら、それに付随して明かされる諸々の真相の邪悪さに打ちのめされます。そのまま物語としてのクライマックスを経てたどり着く結末も、何ともいえない皮肉なもので、いつまでも余韻として残ります。
2007.11.29読了 [乾 くるみ]
黄昏のベルリン
[紹介]
リオデジャネイロ――ドイツ煙草を喫う青い瞳の男は、自分を“ハンス”と呼んだ娼婦を殺害する。ニューヨーク――バカンスに出発するという友人を空港で見送ったユダヤ人青年は、友人の真の目的地を探ろうとする。東ベルリン――ある若者が、愛する女性に再会するために、検問所を突破して“西”へ脱出しようとする。パリ――リオデジャネイロからの電話を受けた女性は、四十数年前の昔を思い出す。そして東京――恋人の圭子を待っている画家・青木優二の前に現れたのは、圭子の友人というベルリンからの留学生・エルザだった。驚くべき秘密を口にした彼女に誘われ、青木は謀略渦巻くヨーロッパへと旅立つ……。
[感想]
1988年「週刊文春ミステリーベスト10」第1位に輝いた、連城三紀彦による国際謀略小説です。連城三紀彦といえば男女の愛憎に重点を置いたミステリの書き手というイメージがあったのですが、第二次世界大戦を題材として扱った『敗北への凱旋』のような作品をみると、本書のような国際謀略小説を書いてもおかしくはないといえるかもしれません。
冒頭、上の[紹介]にも書いたようにリオデジャネイロ、ニューヨーク、“壁”が崩壊する前の東ベルリン、パリ、そして東京での出来事が断片的に描かれ、時に改行もなく“――”
を挟んでつなげられることで、読んでいて眩惑させられるような独特の効果を生じています。そして、このような世界各地で起きた出来事がやがて一つに収斂していくことを予感させ、スケールの大きさを感じさせるところが見事です。
画家・青木優二が主人公になっているとはいえ、物語は必然的に多視点で進んでいきます。それぞれの登場人物の思惑が少しずつ垣間見える中にあって、主要登場人物ではエルザただ一人だけ内面を直接描かれることがなく、他の人物とのコントラストによってミステリアスなヒロインという印象が強調されているのも、さすがというべきでしょうか。
エルザとともに青木が追い求める秘密は、多くの方がある程度読み進めた段階で予想できるものだと思います。手がかりの出し方がかなり親切だということもありますが、ネタがネタだけに仕方がない部分もあるでしょう。それでもその秘密の想像を絶する重さは、読者を圧倒するに十分なものです。さらに謀略はそこにとどまらず、古典的ながら本格ミステリ的なトリックを含む周到な仕掛けが用意されており、最後まで目が離せません。
謀略小説ということもあって、作者にしてはかなり控えめにも思われた恋愛という要素が、最後の最後になってクローズアップされているのも印象的。ベールの奥に隠されてきたエルザの心情がついにあらわになり、それが何ともいえない結末へとつながっていくところがよくできています。前述のように、作者としてはやや異色作といえるのかもしれませんが、それでも十分な魅力を備えた作品といえるでしょう。