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  4. さよなら神様

さよなら神様/麻耶雄嵩

2014年発表 (文藝春秋)
「少年探偵団と神様」

 冒頭で犯人と指摘された上林護ですが、いわば二段構えの“障壁”で強固に守られた形になっているのが目を引きます。まず一つは、凶器の包丁などから計画的犯行とみられるにもかかわらず、被害者との接点がないことで、“何がどうなったら上林護が青山先生を殺す羽目になるのか”から解明することになる点では、“ホワットダニット”の一種ととらえることもできるかもしれません。

 その第一の“障壁”には、“美旗先生と間違えた”という納得できる推理が示されますが、しかし普通に考える限りは間違えようがない状況が、強力な第二の“障壁”として立ちはだかってくるのが秀逸。実際、道の両側に煙草の吸い殻が落ちていたという手がかり――というよりむしろ“方向(場所)を間違えた”とする推理の裏づけ――もあるのですが、タヌキと街灯の凄まじい偶然に支えられた真相を見抜くのは困難で、ぬけぬけとそんなものを持ってくる作者の意地悪さに苦笑せざるを得ないところです*1

「アリバイくずし」

 この作品ではもう完全に、“どうしたら犯人(丸山聖子)が犯行可能となるか”という逆方向の推理が展開されているのが見どころです。そうでなければ解明できないほどに、犯人のアリバイを成立させているトリック――もちろん犯人ではなく作者が仕掛けたトリック――は常軌を逸したもので、通常のミステリではとても使えないトリックなのは間違いないでしょう*2

 犯人が被害者の自宅まで往復する時間がない以上、被害者の方から犯人がいた市部宅近くまで来たのは妥当として、その理由が“作ったカレーを食べる直前になって、わざわざ自転車で十五分かけてラッキョウを買いに自転車で来た”というのは、納得せざるを得ないもののやはり脱力。さらに、殺人事件とはまったく無関係に、犯行時刻付近に被害者の甥が被害者宅に盗みに入るという偶然*3はかなり強烈ですし、きわめつけは、宅配業者が配達に来たまさにその時にテレビが(自動で?)消えて“居留守”状態になった、とんでもない偶然。ここまでくると、“神様”が保証する犯人を出発点にした“逆算式”の推理でなければ、到底解明できない真相といえるのではないでしょうか。

 またそれゆえに――というのは“神様”の言葉が正しいことを前提としない限り受け入れられない真相であるがゆえに、殺人犯ではない甥が濡れ衣を着せられようとも、淳たちは丸山聖子を犯人として告発することもできず、ただ苦悩するしかないという結末はもはや悪魔的。とりわけ語り手の桑町淳は、“素直に犬殺しの犯人を訊けばよかった”という後悔と、“きっと、はぐらかされたことだろう。”(94頁)という独白の裏に透けてみえる、結局は殺人犯の名前を訊くことになっただろうという無力感との間で、身動きがとれなくなっているようにも感じられます。

「ダムからの遠い道」

 「アリバイくずし」に比べるとかなり穏当な印象(苦笑)とはいえ、こちらも犯人・美旗先生のアリバイを成立させる状況が周到に設定されていますが、その一部が真相に近づくための手がかりにもなっているのが面白いところです。すなわち、“殺害後一時間以上たってから死体がダムに投げ込まれた”こと、及び“被害者の車のキーがその自宅から発見された”ことが、いずれも一見すると犯行に必要な時間を長くする要因である一方で、前者は“犯行現場がダムではない”こと(比土の推理)、後者は“被害者が乗っていたのが他人の車だった”こと(市部の推理)につながっています。

 しかして、最大のネックである“被害者が八時に車を運転してダムに向かっていた”という目撃証言が、美旗先生の車が左ハンドルだったという事実によってもろくも崩れ去り、より辻褄の合った推理が構築されるのが鮮やか。美旗先生の車について、事前には単に“高級車”(99頁)とされているところがアンフェア気味ですが、真相に直結するといっても過言ではない手がかりなので、これはやむを得ないところではあるでしょう。

 裏を返せば、“左ハンドルの外車”が知られた時点で露見しかねない*4脆弱なトリックといわざるを得ないのですが、にもかかわらず事件が解決されていないのは、警察が著しく無能扱いされていて釈然としないものが残ります*5。というのも、読者にとっては美旗先生の容疑が晴れたところから話が始まっているので見えにくくなっていますが、捜査当初は被害者のもう一人の恋人と同様に有力な容疑者であり、成立するアリバイが少々複雑であることを踏まえると*6、容疑が晴れるまでの間に、ダムまでの移動手段として有力な自家用車の情報を警察が把握していないはずはない、と考えられるからです。

 また、死体を助手席に乗せて運ぶという行動も、露見を恐れる犯人としては不自然きわまりないところです。“被害者は白い4ドアセダンに乗っていた”(129頁)ことから、それと間違えられた美旗先生の車も似た形だった(2シーターのスポーツタイプではない)と考えられるので、仮にトランクが使えなかったとしても後部座席に乗せることはできたと思われますし、どう考えてもそちらの方が自然な心理ではないでしょうか。

「バレンタイン昔語り」

 「少年探偵団と神様」ラストの“市部の瞳の中に友情以上のものを認めてしまった。男の眼差しだ。”(52頁)という記述で匂わされてはいるものの、本書ではここでようやく淳が女の子であることが明かされます*7。この作品では過去の事件に絡めて、淳が男の子のように振る舞い始めた経緯も語られることになるので、このタイミングで明かすのは納得です。

 さて、冒頭で“神様”が指摘する犯人・依那古朝美は(その時点で)語り手の淳がその存在すら知らない人物であり、淳の認識する“物語世界”に登場しているとはいえない――つまりは〈まだ登場していない人物が犯人〉という前代未聞の趣向ととらえることもできるかもしれません。もちろんそれは、因果律を超越しているかのような“神様”の存在あってこその話ではありますが。

 そもそも、依那古朝美がわざわざ県外から神社までやってきてたまたま出会った川合高夫を殺したというのは、現実的に考えればまったくあり得ない“論外の推理”ではあるのですが、本書の場合はすでに「少年探偵団と神様」「アリバイくずし」の例があることが、読者の思考を“偶然”の方向へミスリードする効果をあげているのが秀逸。またそうでなくても、“誕生日まで同じ”(141頁)“産院も同じ”(146頁)、あるいは“産まれる前から高夫という名前が決まっていた”(140頁)といった手がかりもあるとはいえ、一年前に死んだ“川合高夫”が実は川合高夫ではないとはとても想定できません。

 かくして、依那古朝美が赤目正紀を殺害する不幸な事件が発生して初めて、真相に到達するための手がかりが十分に出揃ったといえるでしょう。すなわち、(1)依那古朝美には川合高夫を殺す機会がなかった、(2)依那古朝美は赤目正紀を殺した、の二点に対して、“川合高夫を殺した犯人は依那古朝美”という“神様”の言葉が絶対に正しいとすれば、被害者の側を動かさざるを得ない――“依那古朝美が殺した人物(赤目正紀)が川合高夫である”とせざるを得ないことになります。未来を予知したのか、それとも改変したのか定かではありませんが、“神様”の能力をこれ以上ないほど生かしきった真相といっていいのではないでしょうか。

 ところで一つ気になるのが、“川合高夫を殺した犯人は?”(139頁)という淳の問いに対して依那古朝美の名前を答えるのは、“神様”としてはアンフェアではないか、という点です。生前“川合高夫”と呼ばれていた人物(川合高夫)と、産まれる前から“川合高夫”に決まっていた人物(赤目正紀)――どちらも“川合高夫に該当する”といえなくはないので、その点については“嘘”とはいえないでしょうが、“殺した”と過去形で尋ねた淳に未来の出来事を答えるのは“嘘”になるように思われます*8。というわけで、淳の問いが“川合高夫殺しの犯人は?”という形であればよかったのではないかと思います。

「比土との対決」

 アリバイものでは通常、動機などから容疑者が絞り込まれた後に、その容疑者のアリバイが検討されることになります。このようなアリバイものの定型を逆手に取って、犯行の動機をアリバイトリックに組み込んであるのがこの作品のすごいところ。犯人・比土優子が確実に新堂小夜子を殺そうとすれば、小夜子が操作室の担当に決まったことを知ってから凶器を取りに行くことになり、比土の空き時間では間に合わない――というわけで、動機を見誤っている限りどうやってもアリバイを崩せないという“罠”が秀逸です。

 しかも、自分が犯人であると淳に知られることを念頭に置いて、自身の犯行――といっても“呪い”にすぎないのがまたうまいところ――を認めつつ“偽の動機”を淳に伝えてミスリードを図る計画が実に巧妙。“神様”の能力を計算に入れてうまく利用した本書ならではのトリックですが、同時に、犯人が自白と見せかけて、すなわち犯人として堂々と“偽の手がかり”を与えてアリバイを補強しているというのも、(いわゆる“後期クイーン問題”的にも)面白いところです。

 淳が初雪の日に関する矛盾から比土の“自白”の嘘を見抜き、作中でたとえられているとおりの“コペルニクス的転回”によって到達した真相を突きつける“比土との対決”の場面は見ごたえがありますが、殺すのは誰でもよかったという真相はやはり、あまりにも苦い後味を残します。

「さよなら、神様」

 “神様”は“比土優子は自殺したよ”(251頁)と告げていますが、“比土一人だけじゃなく、もう一人誰かいた”(242頁)という目撃証言が正しいとすれば、単純な自殺ではないことは予想できますし、それが“大人じゃなくて子供だった”(266頁)となればその候補は限られます。一方、市部の淳に対する思いは前述のように「少年探偵団と神様」の時点ですでに明らかなので、市部が犯人という真相に思い至るのはさほど難しくないでしょう。

 淳が市部と恋人同士となったまさにその時に、突然の“神様”の再登場をきっかけとして救いのない真相に気づかせる、実に麻耶雄嵩らしい結末……と思っていると、それを豪快にひっくり返す“残念でした(ハートマーク)”(282頁)という一文の破壊力に完敗。

* * *

*1: “神様”によって犯人を確定させてあるからこそ許される(?)無茶な真相ではありますが、逆にいえば、確実に保証された情報をもとにする限りこれほどの偶然でも推理によって解明できる、という作者の意思が込められている……ようにも思われます。
*2: とはいえ、歌野晶午『密室殺人ゲーム王手飛車取り』などのように“思いついても普通では使いづらいトリックを使った”ような形ではなく、“最初に犯人を確定させる”という設定から出発してトリックが組み立てられている節があるので、通常のミステリでは使えないトリックになるのも当然かもしれません。
*3: まったくの偶然ではなく、被害者がラッキョウを買いに出かけるのを確認して盗みに入った、という可能性もないではないのですが、整理された事件の状況(82頁)をみると、被害者が出かけたのは八時三十分から八時五十分の間と考えられ、甥が盗みに入った九時までには少々間があるので、やはり偶然だと考えるのが妥当でしょう。
*4: 外車で学校に来ないようにすすめる最後の淳の台詞(134頁)も、それを危惧したものであることは明らかでしょう。
*5: 最後の「さよなら、神様」に向けて、“信頼していたはずの美旗先生にも(目の前にいながら)頼ることができない”状況を作り出しておく必要があった――そのために最後に書き足した(初出はこの作品が一番最後)――のだろう、とは思われるのですが……。
*6: (当然ながら)死亡推定時刻の大半についてアリバイがないわけで、交差点での目撃証言やコンタクトレンズの分析結果などが出揃った後、事件の進行が整理されたところでようやく、九時四十五分以降のアリバイが意味を持つことになります。
*7: 「少年探偵団と神様」の初出時(「オールスイリ」2010年)には、物語中盤ですでに淳の性別が明かされていましたが、本書に収録される際に改稿されています。
 具体的には、本書収録の「少年探偵団と神様」で以下のようになっている箇所が、
(前略)子供二人でうろうろするような場所じゃない」
(中略)
二人だからダメなんですか? じゃあ三人だったらいいんですか?」
(中略)「それじゃあ云い直す。子供だけでうろうろするような場所じゃない。たとえ十人いてもだ。これでいいか」
  (本書37頁)
初出の「オールスイリ」では、
(前略)二人でうろうろするような場所じゃない」
(中略)
男女差別はんたーい。じゃあ、男二人だったらいいんですか?」
(中略)「それじゃあ云い直す。子供二人でうろうろするような場所じゃない。これでいいか」
  (「オールスイリ」384頁)
とされており、淳が女の子であることが美旗先生の台詞で明示されていました。

*8: もっとも、「アリバイくずし」の中で“神様”は、“僕は嘘を吐かないよ。”としながらも、“それだと“嘘を吐かない”という定義自体も変わるんじゃないのか”と淳に問われて平然と肯定している(86頁~87頁)ので、問題はないのかもしれませんが。

2014.08.07読了