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鴉/麻耶雄嵩

1997年発表 幻冬舎文庫 ま3-1(幻冬舎)

・“鬼子”について

 “見えないものが見える”(394頁)ために迫害される“鬼子”は、色覚の“異常”によるものだと説明されています。色盲などの色覚異常をトリックとして使った作品はいくつかありますが、ほとんどの村人たちが赤と緑を区別することができず、赤と緑を識別することができる(“正常”な色覚の)人間の方が“異端者”として扱われるという逆転した設定は非常に大胆で、地図にない村の“異世界”ぶりが際立っています。

 村における色覚異常の発生率は日本人全体のものとは極端に異なっていますが、閉鎖された集団内の遺伝子頻度の問題――例えばすべての村人が色覚異常の男女の子孫――だと考えれば、絶対にあり得ないとはいえないように思います。そしてまた、“鬼子”も(完全に“正常”な色覚の持ち主ではなく)軽度の――赤を認識はできる程度の――色覚異常*1だとすれば、そちらの発生率もさほど不自然とはいえないかもしれません*2

 そしてその色覚異常により、緑の山に一筋の紅葉で示された“見えない道”が実に鮮やかな印象を与えていますし、野長瀬の家の緑の床(及び宮の四つ菱紋の緑色部分)に残された血痕が解決への手がかりとなっているところも秀逸です。特に後者については、視点人物が認識している事実を他者が認識していないということが(読者に対して)隠された手がかりとなっているわけで、(一応伏せ字)他のある作品にも通じる(ここまで)興味深い仕掛けといえるのではないでしょうか。

 珂允の“緋色のウインドブレーカー”(10頁)または“赤いシャツ”(18頁)を橘花少年が“見慣れない変な緑色の服”(300頁)“緑の上掛け”(340頁)などと表現しているのはかなりあからさまな手がかりですし、村人の奇妙な色彩感覚に再三言及されているあたりも伏線になっています。さらに、五行思想を象徴する色から“赤”が除かれているのも大胆なヒントといえるかもしれませんが、それについては禁忌である“金”と結びつけることで読者をミスリードしているのがうまいところです。

 ただし、色覚異常に関するありがちな誤解によるのではないかと思われる、少々怪しい箇所もあります。一つは色相に関する誤解で、“赤”をまったく認識できないということは、いわゆる“赤い色”だけでなく混合色の中の赤成分も認識できないということですから、薄紅色竹色のグラデーションのかかった着物”(19頁)という蝉子の出で立ちは微妙*3ですし、“鬼子”ではない橘花少年の紫色の痣”(146頁)という表現は明らかにおかしい*4と思います。

 もう一つありがちなのが“緑色の中の赤色(あるいは逆)を無条件に認識できない”という誤解で、色相で区別できなくとも明度の差は判別できる――むしろ“正常”な色覚の人より敏感ともいえます――ため、野長瀬の家の床に残された血痕が絶対に村人たちに気づかれないとはいえませんし、“緑が濃く繁る西の菅山”の中の“紅葉の道”(いずれも494頁)は濃い(暗い)緑色の中で“明るい緑色の道”として見えてしまう可能性が十分にあります。

*1: “ヒトのX染色体上でM錐体を決定する部位とL錐体を決定する部位は隣接している。M錐体とL錐体の遺伝子はやや複雑なかたちになっており、(中略)赤オプシン遺伝子・緑オプシン遺伝子の組み合わせにより様々な度合いの先天色覚異常(及び正常色覚)を生じることになる。”「色覚異常#先天赤緑色覚異常 - Wikipedia」より;下線は筆者)。ちなみに私自身も軽度の赤緑色覚異常で、彩度が低く明度差が小さい赤系統と緑系統を区別するのは困難な場合がありますが、赤を認識できないということはありません。
*2: 色覚異常の遺伝子しか持たない両親から突然変異によって“正常”な遺伝子を持つ子供が生まれる確率は相当に低く、作中の“鬼子”の発生頻度――“鬼子”として排除される分を除いても、“大鏡”が代々受け継がれていくことを考えれば、少なくとも1~2世代に1人以上――とは(おそらく何桁もの)開きがありますが、“遺伝子の組み合わせ”によるものであれば何とかなる可能性はあるかと思います。
*3: 薄紅色は竹色とかなり似た色(薄緑色?)に見えると思われるので、わざわざグラデーションをかけてもあまり効果がないのではないでしょうか。
*4: 殴られた痣の紫色は、村人たちには暗い青緑色――それこそ黒緑色に見えることになります。同じように見えるはずの大鏡の罰については、当の橘花も含めて一貫して黒緑の痣”(102頁)という表現が使われており、それと区別するためにわざわざ“紫”という別の色名が使われるとも考えられません。

・殺人事件について

 朝荻の推理や手紙に使われた上質紙、さらには遠臣が着ていた直垂など、犯人が宮にいることを示す手がかりはいくつかありますが、“人を殺すと、手に黒緑の痣が出来る”(102頁)という信仰に強く支配される中で“痣に怯えず人を殺すことができたのは誰か”という、異世界ミステリ風のロジックが非常に秀逸です。

 そのロジック(及び野長瀬の家の血痕を手がかりとした色覚のロジック)により大鏡自身を犯人と指摘する珂允の推理には説得力がありますが、大鏡の不在という事実でその推理を瓦解させる*5とともに痣に関する“付帯条件”(540頁)で真犯人を導き出すどんでん返しは圧巻です。

*5: 大鏡の御座に鎮座するメルカトル鮎(525頁)には、さすがに苦笑を禁じ得ません。

・作品全体の仕掛けについて

 作者の企みに引っかかったまま本書を読み進めていくと、“櫻花少年に殺された”(490頁)はずの橘花少年が“生き返った”(495頁)という“怪現象”に驚かされることになります。その原因となるのは、櫻花少年と橘花少年が兄弟だという誤認――“橘花少年の兄が櫻花少年”/“櫻花少年の弟が橘花少年”だと見せかける叙述トリックによる――であり、さらにそれを(というよりも相互に)補強しているのが橘花少年(及び珂允)視点のパートと櫻花少年視点のパートとが同時期・同舞台だという誤認です。

内容の類似二つのパートが
同時期・同舞台
――――→
←――――
相互に補強
橘花パート兄=櫻花名前の類似
櫻花パート弟=橘花

 二つのパートの内容が類似していることで同時期・同舞台という誤認が生じると同時に、“桜(櫻)”と“橘”という対になった名前によって二人が兄弟だという誤認が生じることになりますが、さらに二つの誤認が矛盾を生じることなく相互に補強し合うことで、一体の強固な幻想となって真相を隠蔽しています。

 真相を間接的に解き明かすことになるのは、メルカトル鮎の珂允に対する“あなたの実の弟は、十五年前に既に殺されているからです。ねえ、櫻花さん”(545頁)という一言です。つまり、“珂允=櫻花”という真相が示されることで、櫻花少年のパートは橘花少年のパートから切り離されて過去へと押しやられ、年代のずれによって“櫻花少年と橘花少年が兄弟ではない”という真相が確定することになります。

 実をいえば、メルカトル鮎による解決を待たずとも、読者には真相の解明が可能です。例えば、珂允が“この村には(中略)時代劇に出てくるような装束しかないようだ。”(34頁)と独白しているにもかかわらず、櫻花少年の弟が“汚れたズボン(105頁)を履いていることを考えれば、櫻花少年のパートは少なくとも橘花少年のパートと同じ舞台ではないことになり、したがって“櫻花少年と橘花少年が兄弟ではない”という真相に到達することができます。さらにいえば、本筋とまったく関係のないエピソードが挿入される蓋然性が低い(櫻花少年のパートも本筋と何らかの関係がある蓋然性が高い)ことを手がかりに、“珂允=櫻花”という真相を予測することさえ可能といえるかもしれません。

 “櫻花少年と橘花少年が兄弟ではない”という真相が作中で直接示されていないために、仕掛けの全体像が少々わかりにくくなっている*6のは確かで、メルカトル鮎による解決を読者に不親切だととらえる向きもあるかもしれません。しかし、櫻花(=珂允)と橘花少年が兄弟でないことは、メルカトル鮎(に限らず作中の登場人物)にとってわざわざ言及する方が不自然なほど自明の事実であるわけで、作中で明示されないのも致し方ない*7といえるでしょう。

 むしろ、読者にのみ示された櫻花少年のパートの存在を――したがって年代のずれを隠蔽する叙述トリックを認識できないはずのメルカトル鮎が、解明のきっかけとなる“珂允=櫻花”という真相にとどまらず、“あなたの実の弟は、十五年前に既に殺されているからです。ねえ、櫻花さん”(545頁)櫻花の弟の死が過去の出来事であることまで指摘しているあたりは、読者に親切だというべきかもしれません。

 そもそもこの“あなたの実の弟は、十五年前に既に殺されているからです。ねえ、櫻花さん”というメルカトル鮎の台詞は、珂允が弟の死の謎を探ろうとしていたがゆえに発せられたものであるわけですから、“三ヶ月前に弟の襾鈴を殺した”→“三ヶ月前に弟の襾鈴が何者かに殺された”という珂允の二段構えの妄想自体が、メルカトル鮎に叙述トリックを“解明”させる――少なくとも解明の手がかりとなる事実に言及させる――ために盛り込まれたものと考えることもできるのではないでしょうか。

 そう考えれば、珂允が極端に“信頼できない語り手”であること*8も、“珂允{かいん}”と“襾鈴{あべる}”という見え見えのネーミング*9も、『夏と冬の奏鳴曲』(一応伏せ字)雪密室や殺人犯の問題(ここまで)に通じる意図的な“反則”(もしくは陳腐さ)――そこ(本書でいえば、弟を殺した犯人が珂允自身であるという真相)が本質ではないという意思表示であるようにも思えてくるのですが……。

*6: 私自身も初読時にはわけがわからずに頭を抱えてしまいました。
*7: 橘花少年の兄の名前(もしくは櫻花(=珂允)の弟(=襾鈴)の本名)を作中に記述することで、櫻花少年と橘花少年が兄弟ではないことを明示できる……とも思いましたが、よく考えてみれば別の名前でなければならないという理由はない――橘花少年の兄の名前が“櫻花”(もしくは襾鈴の本名が“橘花”)であってもおかしくない(むしろ、まったく違った名前の組み合わせよりは自然)わけで……。
*8: 再三描かれている松虫の人形との会話によって暗示されているともいえますが。
*9: “カインとアベルは、アダムとイヴがエデンの園を失楽園した後に生まれた兄弟である。(中略)嫉妬にかられたカインはその後野原で弟を殺す。”「カイン - Wikipedia」より)。当然ながら、櫻花(=珂允)自身が妄想で封じ込めた弟殺しの記憶が無意識に表れている、ということを示唆するネーミングということでしょう。

2002.06.27再読了
2009.01.10再読了 (2009.01.15改稿)