少年検閲官/北山猛邦<
本書の舞台は書物の所持が禁じられた世界となっています。実体のある“物品”としての書物の存在を禁じることで、その内容である“情報”を制限できるのは確かですが、作中の世界の技術レベルが今ひとつはっきりしないため、設定が少々あいまいに感じられるのは否めません。というのは、“音楽はデジタル技術により再現されている”
(単行本78頁)という、あたかも録音再生技術が存在しているかのような(*1)記述をみると、“物品としての書物”によらずとも情報を残し、伝えることは可能であるように思えるからです。
(2013.09.19追記)
創元推理文庫版では、上で引用した記述を含む箇所が以下のように改稿されており、他に録音再生の存在をうかがわせる記述はなく、書物を含めた“アーカイヴ”が全面的に禁止されている、と受け取ることができるようになっています。
かつて書物と同様に様々な音楽と楽器が禁止された時代があった。今では制限が緩くなり、個人レベルでの使用なら許されるようになっている。人は書物を容易に捨てられても、音楽を捨てることはできなかったのだ。けれど一時の規制によって、楽器も演奏家も今ではほとんど残っておらず、音楽はデジタル技術により再現されている。キリイ先生のように実際に楽器を弾ける人は珍しい。しかもキリイ先生はただ弾けるだけではなく、天才と云っていいほどの演奏家なのだ。
(単行本78頁)
現在では、歌や音楽に対しても検閲局の監視が厳しくなっている。検閲局が禁止しているのは、主に音楽に歌詞をつける行為や、暴力描写のある歌劇を演じることだ。厳密には、楽器を演奏する行為自体は禁止されていない。けれど今の時代、楽器も演奏家もほとんど失われてしまった。キリイ先生のように実際に楽器を弾ける人は珍しい。しかもキリイ先生はただ弾けるだけではなく、天才と云っていいほどの演奏家なのだ。
(文庫版90頁)
それはさておき、書物が“実体のある物品”と“情報の集積”という二つの側面を有することが、本書では巧妙にトリックとして使われています。ラジオで伝えられる情報が検閲されていることからもわかるように、本書の世界における書物の所持の禁止は明らかに書物の“情報の集積”という側面に焦点を当てたものですが、それにより、“実体のある物品”としての書物の材料である“紙”の不足が隠蔽されているのです。
書物の存在が禁じられた世界が(わざわざ)舞台とされている以上、『探偵』の犯行が書物に関わっていることは当初から予想できるのですが、“書物”と“殺人”(首切り)が結びつかない(*2)ために、『探偵』の動機を見抜くことが非常に難しくなっています。それが、“紙”の不足という一つの“真相”の露見をきっかけに、次から次へと明らかになっていくところが秀逸です。
ただし、それが露見するポイントには少々不満があります。“これはコウゾという木で、こっちはミツマタだ”
(文庫版288頁/単行本256頁)というエノの台詞が、『探偵』が紙を求めていることを示す決定的な手がかりとなっているのですが、(致し方ないとはいえ)タイミングが早すぎるのが残念なところ。この手がかりが先に示されていることで、“はがされた人間の皮”の意味が(読者には)すぐにわかってしまうために、衝撃が薄れてしまっている感があります。
いずれにしても、“紙”の不足という一点で、動機もトリックもほぼすべてが説明されてしまうのが実に見事。犯行の動機ももちろんそうですが、赤い十字架を利用した“見えない盗難”があらわになるところも非常によくできていますし、さらに“紙”そのものを使った種々のトリックについては、“紙”が知られていないこの世界でしか成立し得ないもので、謎と解決のために周到に世界が組み立てられていることがよくわかります。
幻想的な二つのサブエピソードでも、この“紙”によるトリックが効果的に使われています。「序奏 箱庭幻想」で描かれた“森の中の壁”は、トリック自体は単純ながら“箱庭幻想”という題名そのままのイメージが鮮やかですし、“普通の壁とは違って、少し柔らかいような、とても不思議な感触がした。”
(文庫版22頁/単行本17頁)という伏線もうまいと思います。
一方、「間奏 鞄の中の少女」には“紙”を“屍体”と誤認させる叙述トリックが仕掛けられています。これもまた、“紙”が知られていないことによるトリックですが、“僕たちは屍体というものがどんなものかさえ、よく知らなかった。”
(文庫版67頁/単行本58頁)というユーリの台詞や首なし屍体が“自然死”として処理される点に表れている特殊な設定、さらにはこのエピソードがまずユーリを通して間接的に語られていること(文庫版127頁/単行本111頁)によって、読者の頭に先入観が強く植え付けられ、京極夏彦『魍魎の匣』を彷彿とさせるグロテスクなイメージが生じています。そして最後の、以下に引用する部分がまた見事。
その時、にわかに風が吹き、少女は突然、むっくりと起き上がった。
あっ。
タクトは思わず声に出し、少女の腕を掴もうとする。
けれど少女はタクトの手をするりと逃れた。
そのまま飛翔するように、湖に飛び込んだ。
「ありがとう」
そんな少女の声が聞こえるようだった。
(中略)しかし少女は振り返りもせず、水に溶け込んでいってしまった。
最後まで湖面近くに残された少女の手は、指が三本だけ、失われていた。
(文庫版195頁~196頁/単行本172頁~173頁)
あたかも“バラバラ屍体”となった少女がよみがえって動き出したかのような記述ですが、“紙”に描かれた絵姿である“少女”が風に飛ばされて湖に沈んでいったという現象を、“紙”を知らないタクトの視点を通して巧みに描写してあることがよくわかります。しかもこれが、湖上のボートから『探偵』が消失したトリックを微妙に暗示しているところがまた巧妙です。
ここでまた西澤保彦の“SF新本格”を引き合いに出しますが、西澤保彦の作品にみられる“足し算”的な特殊設定の扱いが、その特殊設定を直接利用した新たなトリックを生み出すという形でトリックにも反映されている――“足し算”的なトリックといえる――のに対して、本書の“引き算”的な特殊設定は、作中の人物の認識を制限することで読者との間に認識のずれを生み出し、盲点を作り出す――やはり“引き算”的な――方向でトリックに関わっているといえるのではないでしょうか(*3)。とりわけ叙述トリックについては、送り手が情報の一部を欠落させることがトリックの根本にある(拙文「叙述トリック概論」参照)ため、“引き算”によって構築され、一部の事象に対する認識が制限された世界にあっては、非常に有効だといえるでしょう。
細かい点をいえば、犯人が紙の製法やサイズ液に関する知識をどこで知ったのか、ましてやコウゾやミツマタといった特殊な植物をどうやって入手したのか、といったあたりは引っかかるのですが……。
(2013.09.19追記)
この点についてよく読み返してみると、“この町で生まれ育った人間には、馴染みのない者もいるだろう。”
(文庫版317頁/単行本282頁)や“現在紙の生産力は衰えている。”
(文庫版318頁/単行本282頁)といった具合に、“紙”が完全に失われたわけではない(まったく知られていないわけでもない)という状況で、キリイ先生でさえサイズ液のことを知っていた(文庫版342頁/単行本303頁)ことを踏まえれば、あまり問題ではないようにも思います。
犯人が首なし屍体を量産したのは、どう考えても『ガジェット』に記されているはずのない独自の理由によるものだったわけで、その犯人がよりによって『首切り』の『ガジェット』を手にしていたというのは、(ミスディレクションの一環とはいえ)少々ご都合主義に感じられるところです。が、クロエ隊長の殺害に際して、『首切り』の『ガジェット』を持っているという事実を逆手に取った使い方がされているのが面白いと思います。
一方、クリスが持っているチョーカーが『ガジェット』だということは、『ガジェット』の話が出てきた時点で見え見えだと思いますが、それが『記述者』の『ガジェット』だということが最後に明らかになるラストは非常に印象的です。そしてその真相を踏まえてみると、以下に引用する伏線(のようなもの)が何ともいえません。
(前略)僕は単に『ミステリ』が好きだから、目の前の不可解な出来事に興味を抱いているだけなのだろうか。僕にはもっとやらなければならないことがあるような気がする。何処かで僕を呼ぶ声がする。僕は目の前の謎から立ち去ることができない。それは好奇心だけではなく、使命感に近い。
(文庫版125頁/単行本110頁)
また、“記述者”を利用したトリックは原則的に“読者”のみを対象とするものですから、『記述者』はいわばメタレベルの『ガジェット』であり、現実レベルで悪用することは不可能だといえます。その意味では“無難な”『ガジェット』であるわけで、クリスが持つのにふさわしいといえるのかもしれません。
“楽器も演奏家も今ではほとんど残っておらず”という記述もあわせてみると、ここでの
“デジタル技術”は電子機器による自動演奏を指していると考えることもできるかもしれませんが。
*2: “紙”と“殺人”(首切り)も結びつきにくいのは確かですが、羊皮紙ならぬ“人皮紙”はホラーなどでしばしば扱われるので、“紙”の不足が前面に出ていればあるいは、といったところでしょうか。
*3: 余談の上にネタバレ気味なのであまり詳しくは書きませんが、作者の他の作品でもこのような“引き算”的手法が見受けられるように思われます。
2008.01.24読了
2013.09.13創元推理文庫版読了