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虚擬街頭漂流記/寵物先生(ミスター・ペッツ)

2009年発表 (玉田 誠訳 文藝春秋)

 本書は、中心に据えられた仮想空間内での殺人事件に関して、“フーダニット”・“ハウダニット”・“ホワイダニット”と順次焦点が当てられていく構成となっていますが、それぞれについて説得力のある“ダミーの真相”が用意されているところがよくできています。

 まず“フーダニット”については、仮想空間という現場が一種のクローズドサークルとなっているのがポイントで、被害者の死亡推定時刻とサーバのログから、いきなり容疑者が限定されることになっています。

 続いて“ハウダニット”では、容疑者となった何彦山の“アリバイ”が崩されることになりますが、これも「ヴァーチャストリート」ならではのワープゲートを使ったトリック、そしてそれが改竄できないログによって“証明”されるところがなかなかよくできています。

 そして“ホワイダニット”――犯行の動機としては、被害者・朱銘練と彦山との意外な接点が用意されています。

 これら“ダミーの真相”は十分にもっともらしいものになっていますが、2008年の事件をいわば“補助線”とすることで、まったく違った構図が現れてくるのが実に見事です。

 その2008年の事件については、早い段階から「三十歳・漂流」の章で描かれていながら、それを読者に気づかせない仕掛け――現実の(2008年の)西門町を「ヴァーチャストリート」と誤認させる叙述トリックが非常に秀逸です。

 よく考えてみれば、叙述トリックの中でも比較的多用されている時間に関する錯誤(→拙文「叙述トリック分類#[B-1-2]日時の関係の誤認」の[表7-A]を参照)のバリエーションではあるのですが、「ヴァーチャストリート」自体が“未来の中に構築された過去”であり、登場人物が二つの世界を混同する余地はないにもかかわらず、読者にとっては“重ね合わせ”が容易であるため、叙述トリックを自然に成立させやすくなっているのがうまいところ*1

 また巻末の島田荘司氏の選評にもあるように*2、仮想空間を扱った作品では登場人物が“現実”と“仮想現実”とを識別できなくなるという展開が定番であることもあり、仮想空間の存在自体がミスディレクションとして機能している感もあります。

 もっとも、他の人物が登場しない「第二章 三十歳・漂流(一)」はともかく、少なくとも「第六章 三十歳・漂流(二)」が「ヴァーチャストリート」を描いたものではないことは、描写の端々から十分に予想できるところではないでしょうか。

 例えば“主人公”がレストランで食事を注文する場面があります(199頁)が、「ヴァーチャストリート」内で「食事」ができることは「第一章 三十歳・郷愁」で簡単に説明されているとはいえ、実際に「ヴァーチャストリート」でどのように「食事」をするのかは読者としても当然興味の対象であるわけで、それが描かれずにあっさりとスルーされているのは、何かしら不都合があるようにしか思えません。

 また、作中では「影の阿練」のことを仲間の二人と“主人公”が聞きまわっていますが、「ヴァーチャストリート」内の店員の少なくとも一部はNPCである――聞いても答えが得られない可能性が高い*3――にもかかわらず、それを気にしている様子がみられないのは、いささか不自然に感じられます。

 さらに、“前に何かで、西門町の一帯では若者が店を開いている、という記事を読んだことがある。取材を受けた二十代の女性は(中略)セレクトショップをオープンしたものの、店は赤字となりテナントも契約切れとなった(中略)若者の起業天国という神話のもと、西門町では同じようなことがたびたび繰り返されているという。”(213頁~214頁)という一節。ここに記された“西門町”が正式オープン前の「ヴァーチャストリート」ではあり得ないのはもちろんのこと、“現実”の――大地震で崩壊して復興されていない2020年の――西門町についての記事としても違和感のある内容で、2008年の西門町であることを示唆する有力なヒントといえるように思います。

 顔露華の“母”である范未央が彦山の“元妻”であることは、登場人物の少なさや年齢などから比較的たやすく見当をつけることができますが、「三十歳・漂流」の章が2008年の西門町を舞台としていることに気づいてしまえば、それはほぼ確定的。しかしその一方で、2008年に起きた事件は何なのか、そしてなぜ“現在”の事件と“過去”の事件が重なり合っているのか新たな謎として浮上してくるところがよくできていて、その一端が前述の彦山の“動機”として示される「第七章 三十歳・逆説」のラストは衝撃的です。

 ここで効果的なのが「娘」の章のトリック、すなわち艾莉を彦山と未央の“現実”の娘だと――艾莉を取り巻く環境が“現実”だと――誤認させるトリックで、艾莉が彦山に連れられて西門町へ向かうところで「第八章 娘・突然の出会い」が終わっていることもあって、未解決に終わった2008年の事件の真相が焦点となる――それが解き明かされて初めて“現在”の事件の真相も解明されるかのようにミスリードされてしまうのは否めません。さらに、「第十章 三十歳・漂流(三)」で未央の推理が披露されることで、そのミスリードが巧みに補強されているのも見逃せないところです。

 しかして、最後に明らかにされる“現在”の事件の真相は、ミスリードされた読者の予想からも、また前述の“ダミーの真相”からも巧妙にずらされています。“NPCが犯人”というのは、作中でも指摘されているように“ジャケットの男”がいち早く披露した推理ですが、それが単なるNPCではないというのが最大のポイント。また、ワープゲートを利用したトリックの本質が彦山自身のための時間的なアリバイではなく、“現場”まで移動できない真犯人のための空間的なアリバイだったというのが非常に面白いところですし、ボタンを押さなければ自動的に一番ゲートへワープさせられるという設定が周到です。

 そして彦山が自ら罪をかぶろうとした真の動機が、「娘」の章で描かれてきた艾莉の“真実”と一体となって、胸を打つ哀切の構図を描き出しているのが何ともいえません。これについては、島田荘司氏の選評における“「虚擬街頭漂流記」の優れたところは、この二世界が画然と分離を果たしており、この「分離」自体に、本格ミステリーのトリック部を支えさせたところにある。”(404頁)を受けた、「taipeimonochrome ミステリっぽい本とプログレっぽい音樂 » 虚擬街頭漂流記 / 寵物先生」“「仮想」と「現実」の境界が堅固に構築されているからこそ、事件の構図が美しき悲哀へと転化される”との指摘にもうなずかされます。そしてまた、「第十二章 娘・永劫」で明かされる事件発生の経緯が、物語の悲劇性を高めています。

 事件が解決された後の「終章 烙印」では、2008年の未央と2020年の露華とを重ね合わせる前述の仕掛けの効果として、“2008年の未央―露華”の関係が“2020年の露華―艾莉”の関係として再現され、“見えない臍帯”によって“母と子”が結ばれる「序章 臍帯」*4へと回帰する形になっており、記憶を失う前の露華が未央に告げた“愛と習慣の輪”(330頁)を体現する、実に見事で美しい結末といえるでしょう。

*1: 実をいえば「叙述トリック分類」を書いた際に、例えば日光江戸村などのような“過去を再現した「テーマパーク」”が叙述トリックに使えるのではないかと考えたことがあったので、本書にはかなり“してやられた感”があります(苦笑)。
*2: “目下のところオンライン世界がオフライン世界を侵食し、両者の境界が消滅して登場人物に混乱をもたらし、この失見当識にミステリーの現出を期待するという意図が、定型化しつつある。”(403頁~404頁)
*3: 逆に、レストランのウェイター――“NPC”ではなく人間――についての“コンピュータ・プログラミングで動作しているというのは、こういうことなのだろう。”(200頁)という表現は、かなりギリギリのところではないかと思われます。
*4: この「序章 臍帯」そのものは、“わたしはあなたと一緒に暮らしたい(10頁)という言葉から、未央と露華のやり取りだと考えられます。

2010.04.18読了